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序章 ユキとハル
三 今からでも 三
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久し振りにあったハルは、
中学の頃と何も変わっていなかった。
私のことを気にかけてくれる優しいハル。
その優しさに、私は負けた。
このまま雑談で盛り上がって、
楽しい再会のまま
今日を終わらせようと思い始めていた。
疑うことも、叱責することも、
もう一度一人で考え直してもいい。
また日を改めてもいい。
たった一度だ。
たった一度そう考えただけで、
とても気が楽になって、
ハルと話すのが楽しくなって──
「どうして、
今頃になって電話してきたの?」
そう聞かれたとき、
全てが崩れる音が聞こえた気がした。
私の心臓を鷲掴みにする、
ハルの泣きそうな目。
釣られて熱くなる、私の目頭。
運命なのか、神なのか。
今日の再会を
このまま平和に終わらせることは、
許されなかった。
吐き気を催すほどに鼓動が早まる。
「それは……その……」
十年振りの再会。
会話を交わしたのは、ほんの数分。
それだけで十分だった。
ハルが、あのときと変わらない
──優しい子のままでいることを
理解するのには。
ハルの笑顔が、楽しそうに話す声が、
私の記憶を──路地裏にいたハルの姿を
霞ませていく。
路地裏で怪しげなやり取りをしていたのは
ハルではない。
そう思いたくなる。
けれど──
「ハル……路地裏でなにしてたの?」
やっとの思いで、私は本題を吐き出した。
体と声を情けなく震わせながら。
心なしか、
白い息も歪な形に膨らんでいた。
ハルはすぐに返事をしてくれなかった。
悲痛に満ちた面持ちで
私のことを見詰めるばかり。
どうしてそんな顔をするのか、
私にはわからなかった。
期待と不安がせめぎ合い、
心拍が鼓膜を震わせた。
どうか、私の勘違いであれ。
親友に良からぬ疑いを
かけられたことを悲しむ顔であれ。
どうか……どうか……
「路地裏って、なんのこと……?」
言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。
私が言葉を省略し過ぎたから
問いが通じていないのか、
ハルがしらばっくれているのか、
それとも本当に何も知らないのか。
親友を信じたい私の無意識は、
勝手に三つ目に手を伸ばそうとしている。
「……見たの。ハルが、路地裏でクスリみたいなのを売ってるところ」
もう、後戻りは叶わない。
「なに、クスリって。
……なにかの冗談でも、笑えないよ」
「冗談なんかじゃない!
本当に見たの。
去年のクリスマス……T都に行ったときに」
「……なら、見間違いじゃないの?」
「違う。
たしかに暗かったし、距離もあった。
けど──」
私が、ハルを見間違えるはずがない。
その言葉を口にした途端、
世界が大きく歪み始めた。
全ての輪郭が、ハルの姿が歪む。
波打ち、ぼやけ、溶けていく。
瞬きで涙を溢れさせ、
輪郭を取り戻す視界。
私の目が捉えたのは、
肘を抱いて苦しそうに
顔を歪めたハルだった。
「見間違えるはずないって、
ユキ……そんなに私のこと好きなの?」
震えるハルの声。
泣いているようにも、
笑っているようにも、
苛立っているようにも聞こえる声。
私は、素直な答えをぶつけた。
「好きだよ。
だって、ハルは私の……親友だから」
刹那の沈黙。
決壊は、突然に訪れた。
「……親友って言うなら、
どうして今まで連絡してくれなかったの?
私はずっと待ってたんだよ?
ユキなら、私の話を聞いてくれるって……
私を助けてくれるって……!」
か細く涙に濡れた声。
それなのに、私の鼓膜を突き破って、
脳内に反響し続ける。
私の精神は思い切り揺さぶられた。
ハルがずっと助けを求めていた
という事実を突き付けられ、
押し寄せる後悔を
塞き止めることができなかった。
「十年も放ったらかしにしてたくせに、
今更なに?
……私がなにしてたって、
ユキには関係ないじゃん!」
「──ッ!」
息が詰まり、反射的に体が動いた。
音が消え、視界が黒一色に染まった。
頭が熱い。
こめかみに鋭い痛みが走る。
痛みが私を奮い立たせる。
ここで折れたら駄目だと。
ゆっくり目を開けると、
地面が間近に迫っていた。
両手の爪の先が、
仄かに赤く染まっていた。
病を疑いたくなるほどに、
不規則な鼓動が胸元で暴れる。
立ち上がると、
不安げな表情を浮かべたハルと目が合った。
「……ユキ、大丈夫?」
ハルが私の体を支えてくれた。
私は、
倒れ込むようにしてハルの体を抱き締めた。
「え、ちょっとユキ……」
密着。
ハルの匂いが鼻いっぱいに広がる。
私のことを引き剥がそうとしているのか、
ハルの手が
背中をちょこまか動き回っているのを
コート越しに感じる。
「……ごめん、ごめんね」
分厚いコート越しに伝わる
ハルの腰の細さ。
力を込めると折れてしまいそうで、
だけど私は強く強く抱き締めた。
十年の空白が帳消しになるはずがないと
わかっていながら。
けれど、後悔が先に立つことなんてない。
人間誰しも、
前もって悔やむことなどできない。
だったら、私はどうするべきだ。
決まっている。
ハルを助ける。
今からでも遅くない、巻き返せるはずだ。
いや、絶対に巻き返す!
そのために、ここに来たんだ。
私はハルの体から離れ、
改めて頭を下げた。
「連絡しなかったのは、本当にごめん。
でも、しようとは思ったの。
高校の入学式の日、
携帯買ってもらったときに……」
「……あの紙、無くしたの?」
中学校の卒業式の日。
私とは別の高校に進学する──つまり、
離れ離れになってしまうハルは、
私に一枚の紙切れを寄越した。
そこに書いてあったのは、
ハルの電話番号。
絶対連絡してねと、
ハルは涙ながらに笑った。
「無くしてない。ずっと大事にしてた」
「だよね。
じゃなきゃ、こうして会えないもんね」
それなら、
どうして十年も連絡をくれなかったの?
そう聞かれているような気がした。
いや、現に一度そう聞かれているし、
私はまだその問いに答えられていない。
「入学式から帰ってきたとき、
駅前で見たの」
「……なにを?」
「ハルを。
私の知らない人と一緒にいた。
お揃いの制服着て、楽しそうに笑ってて」
携帯ショップからの帰り道、
私は駅前で見た
ハルの姿を思い出してしまった。
「私との電話で友達との時間を
邪魔したら悪いかなって……
ううん、本当は、もう私のことなんて
覚えてないんじゃないかって……
そう思ったの。
電話をかけて、
『今友達と遊んでるから後でかけなおす』
とか言われたら、やだなって……」
蔑ろにされることを恐れるあまり、
私はいつまで経っても
ハルに電話をかけられずにいた。
日が経つに連れて
『今更電話したところで……』
という思いが強まっていき、
いつしか
逡巡することさえやめてしまっていた。
「なにそれ。
私がユキを忘れるわけないじゃん」
「本当にね。私、なに考えてたんだろ」
真っ直ぐなハルの目が、
責め立てるように、
咎めるように私を貫く。
その傷口からは、罪悪感が滲み出た。
私がハルを忘れることがなかったように、
ハルも私を忘れるはずがなかった。
そんな簡単なことを、
どうして信じられなかったんだろう。
「ユキは……そんなんで高校楽しめたの?」
心配そうにハルが問う。
私は、
ハルと離れ離れになってからの
三年間を思い返した。
そこに、辛い記憶は一つもなかった。
「うん、楽しかったよ。
友達も、鮫島君もいたし」
「ああ、そうだったね。それなら……」
「ハルのお陰だよ」
「──私の?」
「そう。
ハルがいなかったら私……
ずっと家のことばかり考えて、
本当に一人ぼっちになってたと思う。
多分、今でもずっと……」
ハルのお陰で、私は家の外に
意識を向けられるようになった。
休んでいい、
遊びたいと言っていいのだと、
前を向かせてくれた。
「だからハル、
『関係ない』だなんて言わないで」
人の営みどころか、
虫の声一つ聞こえない辺りの静寂。
表面張力に負けた
涙が冬の土に落ちていく、
その音さえ耳に届きそうなほどだ。
「ハルがどう思おうと、
私は今でも親友だって思ってる。
それに、もし親友じゃなかったとしても、
そんな苦しそうにしてる人を
放っておくことなんてできないよ」
視線を交わしたままの私達。
冷たい風が吹き抜けて、
涙の流れた跡を冷やしていく。
永遠とも思えた沈黙の中で、
不意にハルは歯を見せて笑った。
「本当、変わらないね。
どうしてそんなに優しいの?」
「どうしてって、それは……」
明確な答えなんて
見付かるはずがなかった。
自分の行いが優しいかどうかなんて、
そんなことを意識して
行動したことなんてなかったから。
例えば、あの日路地裏にいたのが
ハルじゃなかったら?
知り合い程度の人だったら、
私はどうしていただろう。
「まぁいいや。
それよりユキ、
私が刑務所に入っちゃっても、
会いに来てくれる?」
「え? 刑務所って……」
「いいから答えて。
会いに来てくれる?」
「……行く。行くよ、絶対。約束する」
「よかった。じゃあ、ほら」
ハルは小指だけを立てた握り拳を
私に差し出した。
私もそれに倣って小指を差し出すと、
あっという間に
ハルの小指に絡め取られた。
「久し振りだね、ハルと指切りするの」
今までに交わした約束は
数え切れないけど、
どれだけ記憶を辿っても
“指切り”をした覚えはない。
久しく忘れていた小指を絡める感覚と、
彼女の小指の儚い細さ。
「約束。私が刑務所に入っても、
絶対に会いに来て」
「うん。絶対に会いに行く」
約束を交わし、私の手は自由になった。
それでも指切りの感覚は消えずに残る。
魔法をかけられたかのように、
その一本だけが別物のように感じられる。
この感覚は、
約束を果たすその日まで
消えることはない。
「なんか、昔に戻ったみたい」
「ハルだよね。最初に
『指切りしよう!』って言い出したの」
「そうだっけ?
ああ、そうだったかも」
中学生の頃の私は
携帯を持っていなかったから、
放課後の教室で
次に会う約束を交わしてきた。
苦労したのは終業式の日。
長期休暇で
学校に行かなくなってしまうから、
何としても帰る前に約束を
交わさなければならなかったからだ。
でないと、
偶然会えることを
願わなければいけなくなる。
「懐かしいな。
あの頃に、戻れたらなぁ……」
ハルが遠い目を空に向けた。
目線の先には、彼女の吐いた白い息。
そこに昔の思い出を
写し出しているのかのように、
ハルはまた涙を流した。
「ねぇ、ハル。
さっき、刑務所って──むぐっ」
刑務所とはどういうことなのか、
何をするつもりなのか。
問い質そうとしたら、
ハルの手に口を覆われた。
突然のことに戸惑って固まっていると、
ハルは
私の口を押さえていない方の手を
コートのポケットに突っ込み、
そこから何かを取り出して
私に突き付けた。
そして同時に、私の口が解放された。
「それ、なに?」
目の前には、
ハルの手にぶら下がる小さな四角い袋。
透明なビニールでできていて、
密閉できるように
チャックが取り付けられている。
袋は空っぽではなかった。
何が入っているのか確かめるため、
私は顔をぐいっと近付ける。
何だろう。
カサカサの何かだ。
似たようなものを見たことがある。
あ、そうだ、紅茶の茶葉だ。
茶葉によく似ている。
……ん? 茶葉?
……ということは、葉っぱ? まさか──
「乾燥大麻。
去年のクリスマスでしょ?
ユキが見たのは多分、
私がこれを売ってるところだよ」
ケロッとした表情で
淡々と口を動かすハルに、
私は戸惑いを隠せなかった。
ハルがクスリ的なものを売っている。
ある程度
覚悟を決めてきたつもりだったけれど、
いざ実物と現実を目の当たりにすると
ショックを隠せなかった。
「……ど、
どうして大麻なんて売ってるの?」
と聞きつつも、何となく予想はできる。
この手の話題は、
ニュースでもよく見聞きするから。
理由は恐らくお金だろう。
そう思った私の耳が拾ったのは、
全く予想外の言葉だった。
「脅されてるんだ、私。ユージに」
「脅されてる……って、
それどういうこと?」
「何年前だったかな。
私、罠に嵌められちゃってね」
舞い戻る、震えた声。
その声とは裏腹に、
ハルは笑っていた。
憑き物が落ちたかのような、
とてもとても穏やかな笑顔。
そこから語られる信じがたい話。
「それきり、
私の人生はあいつらにずっと握られてる」
何年前か覚えていない。
それだけの長期間、ハルはずっと……
「──誰かに相談とかできなかったの?」
ハルはいつもクラスの中心にいた。
それゆえに、友達が多い。
いつもいつも誰かしらが近くにいて、
多分それは今も同じ。例えば、そう──
「シゲミン。
シゲミンは助けてくれなかったの?」
「助けてくれるわけないよ。
だってあの人、私と同じだし」
「て言うことは、シゲミンも?」
私の問いに、ハルは頷いて答えた。
「でも、もういいの。
もう吹っ切れたし、
これ以上ユキを悲しませたくない。
だから、
今から警察に行って……自首する」
ハルは
大麻の袋を再びポケットに仕舞いながら、
逆の手を私に差し出した。
その手の上に私の手を乗せると、
食虫植物みたいにパクッと捕まえられ、
お互いの体温が
お互いのかじかんだ手を温め始めた。
「一緒に来てくれる?」
中学の頃と何も変わっていなかった。
私のことを気にかけてくれる優しいハル。
その優しさに、私は負けた。
このまま雑談で盛り上がって、
楽しい再会のまま
今日を終わらせようと思い始めていた。
疑うことも、叱責することも、
もう一度一人で考え直してもいい。
また日を改めてもいい。
たった一度だ。
たった一度そう考えただけで、
とても気が楽になって、
ハルと話すのが楽しくなって──
「どうして、
今頃になって電話してきたの?」
そう聞かれたとき、
全てが崩れる音が聞こえた気がした。
私の心臓を鷲掴みにする、
ハルの泣きそうな目。
釣られて熱くなる、私の目頭。
運命なのか、神なのか。
今日の再会を
このまま平和に終わらせることは、
許されなかった。
吐き気を催すほどに鼓動が早まる。
「それは……その……」
十年振りの再会。
会話を交わしたのは、ほんの数分。
それだけで十分だった。
ハルが、あのときと変わらない
──優しい子のままでいることを
理解するのには。
ハルの笑顔が、楽しそうに話す声が、
私の記憶を──路地裏にいたハルの姿を
霞ませていく。
路地裏で怪しげなやり取りをしていたのは
ハルではない。
そう思いたくなる。
けれど──
「ハル……路地裏でなにしてたの?」
やっとの思いで、私は本題を吐き出した。
体と声を情けなく震わせながら。
心なしか、
白い息も歪な形に膨らんでいた。
ハルはすぐに返事をしてくれなかった。
悲痛に満ちた面持ちで
私のことを見詰めるばかり。
どうしてそんな顔をするのか、
私にはわからなかった。
期待と不安がせめぎ合い、
心拍が鼓膜を震わせた。
どうか、私の勘違いであれ。
親友に良からぬ疑いを
かけられたことを悲しむ顔であれ。
どうか……どうか……
「路地裏って、なんのこと……?」
言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。
私が言葉を省略し過ぎたから
問いが通じていないのか、
ハルがしらばっくれているのか、
それとも本当に何も知らないのか。
親友を信じたい私の無意識は、
勝手に三つ目に手を伸ばそうとしている。
「……見たの。ハルが、路地裏でクスリみたいなのを売ってるところ」
もう、後戻りは叶わない。
「なに、クスリって。
……なにかの冗談でも、笑えないよ」
「冗談なんかじゃない!
本当に見たの。
去年のクリスマス……T都に行ったときに」
「……なら、見間違いじゃないの?」
「違う。
たしかに暗かったし、距離もあった。
けど──」
私が、ハルを見間違えるはずがない。
その言葉を口にした途端、
世界が大きく歪み始めた。
全ての輪郭が、ハルの姿が歪む。
波打ち、ぼやけ、溶けていく。
瞬きで涙を溢れさせ、
輪郭を取り戻す視界。
私の目が捉えたのは、
肘を抱いて苦しそうに
顔を歪めたハルだった。
「見間違えるはずないって、
ユキ……そんなに私のこと好きなの?」
震えるハルの声。
泣いているようにも、
笑っているようにも、
苛立っているようにも聞こえる声。
私は、素直な答えをぶつけた。
「好きだよ。
だって、ハルは私の……親友だから」
刹那の沈黙。
決壊は、突然に訪れた。
「……親友って言うなら、
どうして今まで連絡してくれなかったの?
私はずっと待ってたんだよ?
ユキなら、私の話を聞いてくれるって……
私を助けてくれるって……!」
か細く涙に濡れた声。
それなのに、私の鼓膜を突き破って、
脳内に反響し続ける。
私の精神は思い切り揺さぶられた。
ハルがずっと助けを求めていた
という事実を突き付けられ、
押し寄せる後悔を
塞き止めることができなかった。
「十年も放ったらかしにしてたくせに、
今更なに?
……私がなにしてたって、
ユキには関係ないじゃん!」
「──ッ!」
息が詰まり、反射的に体が動いた。
音が消え、視界が黒一色に染まった。
頭が熱い。
こめかみに鋭い痛みが走る。
痛みが私を奮い立たせる。
ここで折れたら駄目だと。
ゆっくり目を開けると、
地面が間近に迫っていた。
両手の爪の先が、
仄かに赤く染まっていた。
病を疑いたくなるほどに、
不規則な鼓動が胸元で暴れる。
立ち上がると、
不安げな表情を浮かべたハルと目が合った。
「……ユキ、大丈夫?」
ハルが私の体を支えてくれた。
私は、
倒れ込むようにしてハルの体を抱き締めた。
「え、ちょっとユキ……」
密着。
ハルの匂いが鼻いっぱいに広がる。
私のことを引き剥がそうとしているのか、
ハルの手が
背中をちょこまか動き回っているのを
コート越しに感じる。
「……ごめん、ごめんね」
分厚いコート越しに伝わる
ハルの腰の細さ。
力を込めると折れてしまいそうで、
だけど私は強く強く抱き締めた。
十年の空白が帳消しになるはずがないと
わかっていながら。
けれど、後悔が先に立つことなんてない。
人間誰しも、
前もって悔やむことなどできない。
だったら、私はどうするべきだ。
決まっている。
ハルを助ける。
今からでも遅くない、巻き返せるはずだ。
いや、絶対に巻き返す!
そのために、ここに来たんだ。
私はハルの体から離れ、
改めて頭を下げた。
「連絡しなかったのは、本当にごめん。
でも、しようとは思ったの。
高校の入学式の日、
携帯買ってもらったときに……」
「……あの紙、無くしたの?」
中学校の卒業式の日。
私とは別の高校に進学する──つまり、
離れ離れになってしまうハルは、
私に一枚の紙切れを寄越した。
そこに書いてあったのは、
ハルの電話番号。
絶対連絡してねと、
ハルは涙ながらに笑った。
「無くしてない。ずっと大事にしてた」
「だよね。
じゃなきゃ、こうして会えないもんね」
それなら、
どうして十年も連絡をくれなかったの?
そう聞かれているような気がした。
いや、現に一度そう聞かれているし、
私はまだその問いに答えられていない。
「入学式から帰ってきたとき、
駅前で見たの」
「……なにを?」
「ハルを。
私の知らない人と一緒にいた。
お揃いの制服着て、楽しそうに笑ってて」
携帯ショップからの帰り道、
私は駅前で見た
ハルの姿を思い出してしまった。
「私との電話で友達との時間を
邪魔したら悪いかなって……
ううん、本当は、もう私のことなんて
覚えてないんじゃないかって……
そう思ったの。
電話をかけて、
『今友達と遊んでるから後でかけなおす』
とか言われたら、やだなって……」
蔑ろにされることを恐れるあまり、
私はいつまで経っても
ハルに電話をかけられずにいた。
日が経つに連れて
『今更電話したところで……』
という思いが強まっていき、
いつしか
逡巡することさえやめてしまっていた。
「なにそれ。
私がユキを忘れるわけないじゃん」
「本当にね。私、なに考えてたんだろ」
真っ直ぐなハルの目が、
責め立てるように、
咎めるように私を貫く。
その傷口からは、罪悪感が滲み出た。
私がハルを忘れることがなかったように、
ハルも私を忘れるはずがなかった。
そんな簡単なことを、
どうして信じられなかったんだろう。
「ユキは……そんなんで高校楽しめたの?」
心配そうにハルが問う。
私は、
ハルと離れ離れになってからの
三年間を思い返した。
そこに、辛い記憶は一つもなかった。
「うん、楽しかったよ。
友達も、鮫島君もいたし」
「ああ、そうだったね。それなら……」
「ハルのお陰だよ」
「──私の?」
「そう。
ハルがいなかったら私……
ずっと家のことばかり考えて、
本当に一人ぼっちになってたと思う。
多分、今でもずっと……」
ハルのお陰で、私は家の外に
意識を向けられるようになった。
休んでいい、
遊びたいと言っていいのだと、
前を向かせてくれた。
「だからハル、
『関係ない』だなんて言わないで」
人の営みどころか、
虫の声一つ聞こえない辺りの静寂。
表面張力に負けた
涙が冬の土に落ちていく、
その音さえ耳に届きそうなほどだ。
「ハルがどう思おうと、
私は今でも親友だって思ってる。
それに、もし親友じゃなかったとしても、
そんな苦しそうにしてる人を
放っておくことなんてできないよ」
視線を交わしたままの私達。
冷たい風が吹き抜けて、
涙の流れた跡を冷やしていく。
永遠とも思えた沈黙の中で、
不意にハルは歯を見せて笑った。
「本当、変わらないね。
どうしてそんなに優しいの?」
「どうしてって、それは……」
明確な答えなんて
見付かるはずがなかった。
自分の行いが優しいかどうかなんて、
そんなことを意識して
行動したことなんてなかったから。
例えば、あの日路地裏にいたのが
ハルじゃなかったら?
知り合い程度の人だったら、
私はどうしていただろう。
「まぁいいや。
それよりユキ、
私が刑務所に入っちゃっても、
会いに来てくれる?」
「え? 刑務所って……」
「いいから答えて。
会いに来てくれる?」
「……行く。行くよ、絶対。約束する」
「よかった。じゃあ、ほら」
ハルは小指だけを立てた握り拳を
私に差し出した。
私もそれに倣って小指を差し出すと、
あっという間に
ハルの小指に絡め取られた。
「久し振りだね、ハルと指切りするの」
今までに交わした約束は
数え切れないけど、
どれだけ記憶を辿っても
“指切り”をした覚えはない。
久しく忘れていた小指を絡める感覚と、
彼女の小指の儚い細さ。
「約束。私が刑務所に入っても、
絶対に会いに来て」
「うん。絶対に会いに行く」
約束を交わし、私の手は自由になった。
それでも指切りの感覚は消えずに残る。
魔法をかけられたかのように、
その一本だけが別物のように感じられる。
この感覚は、
約束を果たすその日まで
消えることはない。
「なんか、昔に戻ったみたい」
「ハルだよね。最初に
『指切りしよう!』って言い出したの」
「そうだっけ?
ああ、そうだったかも」
中学生の頃の私は
携帯を持っていなかったから、
放課後の教室で
次に会う約束を交わしてきた。
苦労したのは終業式の日。
長期休暇で
学校に行かなくなってしまうから、
何としても帰る前に約束を
交わさなければならなかったからだ。
でないと、
偶然会えることを
願わなければいけなくなる。
「懐かしいな。
あの頃に、戻れたらなぁ……」
ハルが遠い目を空に向けた。
目線の先には、彼女の吐いた白い息。
そこに昔の思い出を
写し出しているのかのように、
ハルはまた涙を流した。
「ねぇ、ハル。
さっき、刑務所って──むぐっ」
刑務所とはどういうことなのか、
何をするつもりなのか。
問い質そうとしたら、
ハルの手に口を覆われた。
突然のことに戸惑って固まっていると、
ハルは
私の口を押さえていない方の手を
コートのポケットに突っ込み、
そこから何かを取り出して
私に突き付けた。
そして同時に、私の口が解放された。
「それ、なに?」
目の前には、
ハルの手にぶら下がる小さな四角い袋。
透明なビニールでできていて、
密閉できるように
チャックが取り付けられている。
袋は空っぽではなかった。
何が入っているのか確かめるため、
私は顔をぐいっと近付ける。
何だろう。
カサカサの何かだ。
似たようなものを見たことがある。
あ、そうだ、紅茶の茶葉だ。
茶葉によく似ている。
……ん? 茶葉?
……ということは、葉っぱ? まさか──
「乾燥大麻。
去年のクリスマスでしょ?
ユキが見たのは多分、
私がこれを売ってるところだよ」
ケロッとした表情で
淡々と口を動かすハルに、
私は戸惑いを隠せなかった。
ハルがクスリ的なものを売っている。
ある程度
覚悟を決めてきたつもりだったけれど、
いざ実物と現実を目の当たりにすると
ショックを隠せなかった。
「……ど、
どうして大麻なんて売ってるの?」
と聞きつつも、何となく予想はできる。
この手の話題は、
ニュースでもよく見聞きするから。
理由は恐らくお金だろう。
そう思った私の耳が拾ったのは、
全く予想外の言葉だった。
「脅されてるんだ、私。ユージに」
「脅されてる……って、
それどういうこと?」
「何年前だったかな。
私、罠に嵌められちゃってね」
舞い戻る、震えた声。
その声とは裏腹に、
ハルは笑っていた。
憑き物が落ちたかのような、
とてもとても穏やかな笑顔。
そこから語られる信じがたい話。
「それきり、
私の人生はあいつらにずっと握られてる」
何年前か覚えていない。
それだけの長期間、ハルはずっと……
「──誰かに相談とかできなかったの?」
ハルはいつもクラスの中心にいた。
それゆえに、友達が多い。
いつもいつも誰かしらが近くにいて、
多分それは今も同じ。例えば、そう──
「シゲミン。
シゲミンは助けてくれなかったの?」
「助けてくれるわけないよ。
だってあの人、私と同じだし」
「て言うことは、シゲミンも?」
私の問いに、ハルは頷いて答えた。
「でも、もういいの。
もう吹っ切れたし、
これ以上ユキを悲しませたくない。
だから、
今から警察に行って……自首する」
ハルは
大麻の袋を再びポケットに仕舞いながら、
逆の手を私に差し出した。
その手の上に私の手を乗せると、
食虫植物みたいにパクッと捕まえられ、
お互いの体温が
お互いのかじかんだ手を温め始めた。
「一緒に来てくれる?」
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それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
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