カフェ・バードランド

ひろたひかる

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カフェ・バードランド

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 十年ぶりに戻ってきた街は昔とすっかり様変わりしていた。
 おぼろげに記憶に残る町並と建物の形は変わらないのに、そこに入る店舗は全く別物、若者に人気の街は入れ替わりが激しいのだろう。

 大学の時分は足繁く通いつめていたのに、馴染みのブティックも雑貨屋ももうなくなっている。けれどあの当時でももう老舗だった小さな定食屋が今も元気に営業しているのを見つけ、一気に昔が私の中に戻ってきた。

 あの頃は社会人になるとこんなに時間がなくなるなんて考えるもしなかった。あれほど自由できらびやかな時期はこの先もうないんだろうなと考えて、そんなことを考えるようになった自分に年月を感じる。

 商店街を通り抜け、少しひらけた五叉路にたどり着く。そこにあったはずのお気に入りだった店があるかどうか、私はすぐ左手にある白い建物を恐る恐る見上げた。

「――――あった」

 白い壁に大きく焦げ茶色の看板が見える。

『カフェ・バードランド』

 まだあった。大好きだった喫茶店が。
 自然と私は店の中へ引き込まれていった。



 木の扉を開けるとチリン、とドアベルの音。ジャズが流れる店内にはカウンターとテーブル席が数席、そのどれもが看板と同じ深い焦げ茶色の木で出来てる。あちこちにある本棚には古いアート系の雑誌が綺麗に並べてあって、そんなところも変わらない。
 でも昔はクリーム色だった壁紙は煙草かコーヒーの色かわからないがすっかり飴色になっていて、相応の時間の経過を物語る。時を重ねた、大事な綺麗な色だ。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな男性の声がした。途端に心臓が軽く波打つ。
 通いつめていた頃は親子がこの店を切り盛りしていたはずだ。ママさんと、私よりちょっと年上の息子さんで。
 来客に気がついてカウンターから覗いた顔に見覚えがあった。

 それは記憶よりも少し落ち着いた雰囲気になった息子さんだった。目尻にうっすら皺が寄っているのが見える。冬の日の日だまりみたいにホッとする笑顔はあの頃と変わらない。店内には数名の客がいるけれど、ママさんは見当たらなかった。お元気なのだろうか。
 私は昔いつも座っていたカウンターの奥から二番目の席に座った。すぐに年季の入ったメニューと細いグラスに入ったお冷が出てくる。メニュー、昔のままずっと使っているんだろうか?

 二種類あるブレンドから深煎りのブレンドを注文した。ちなみにもう一つは浅煎り。実は酸味の強い浅煎りは苦手なんだ。

 ――――あいつは最後までそれをわかってくれなかった。

 目の前の厨房で、注ぎ口の細いケトルが火にかけられる。ドリッパーには私の注文したコーヒー豆が、きちんと計量されて入れられる。
 そのようすをぼんやりと眺めていた。




『何でも流行りに乗るの、嫌なんだよ。深煎り深煎りって、ブームなだけだろ。俺は断然浅煎り派。酸味と苦味のバランスが……おい喜美きみ、聞いてるか?』

 哲夫はいつもそうやって私のすることを、好みを、考えを浅はかだとまず決めつけてきた。最初は知識の深い人だと耳を傾けてきたが、どんどん鼻につくようになってくる。
 結局、哲夫はいつでも自分が他者より優位に立っていないと満足できないタイプの人間だったのだ。だから他人を否定して回っている。一度そう感じてしまえば彼を尊敬できなくなってきて、だんだんデートの回数も減ってきた。





 こぽこぽこぽ。

 ケトルの細い注ぎ口からゆっくりとドリッパーにお湯が落ちる。軽く湿らせたくらいで一度注ぐのをやめて、豆を蒸らすのだ。ふわりと漂う香ばしい香りにふっと気持ちが緩む。
 緩んで、考えたくないことを思い起こしてしまう。







 無条件で自分を崇め奉ってくれる存在が必要だったのだろう、ちょっと会わないうちに哲夫は新人の女の子に手を出して出来ちゃった婚と相成った。社内でも有名な恋人同士だったはずの私は、周りの人の同情と興味本位と嘲笑の視線に耐えられず、すごすごと会社を辞めてしまったのだ。

 哲夫に裏切られたこと自体は悲しくなかった。つまるところ私も哲夫も既に気持ちは終わっていたのだろう。けれど全く傷つかなかったわけではない。そこから奮起して頑張るには私は疲れ切ってしまっていた。
 何を支えに頑張ればいいのかわからなくなっていたのだ。







 時間にして二、三十秒。
 蒸した豆に細く熱湯が注がれる。フィルターには触れないようにのの字を描くと、ぶわあっと豆が膨れ上がる。この豆が膨らむのを見るのが好きだ。どこかワクワクする。
 数回に分けて熱湯が注がれたら、あとはドリップが終わるのを待つばかり。
 白地に青い花が描かれた小ぶりのコーヒーカップにゆったりと注がれたコーヒーが目の前に置かれた。

「お待たせしました」
「――――いい香り」

 息子さんは目尻にしわを寄せながらにっこりと微笑んでくれる。そうだね、今は嫌な記憶なんて忘れてこのコーヒーに癒やされよう。
 少しだけ啜ると口に広がる芳醇な香り、鮮烈な苦味。変わらない、ブレンドの味。

「よかったらこちらもどうぞ」

 ことん、とカップの横に小皿が置かれた。小皿の上には小さなクッキーが二つ。上にオレンジピールが乗った、丸いクッキーだ。

「あの、これは?」
「卵とか小麦粉のアレルギーがなかったら、試して感想を聞かせていただけませんか? コーヒーに合うように作った試作品なんです」

 今日は皆さんにお願いして聞いてまわってるんですよ、とにっこり笑いじわ。私も思わずにっこりしてしまう。

「ありがとうございます。いただきます」

 指先でそっと摘む。口の中でさっくりと割れほろりとほどけるクッキーは、甘酸っぱいオレンジの香りがふんわりと漂う上品な甘さだ。続けてコーヒーを一口。コーヒーとオレンジの香りがそっと絡み合って、その後コーヒーの爽やかな苦味がすっきりと甘みを流してくれた。

「すごい、美味しいです。コーヒーにすごく合います」
「よかった」
「これ、ここのお店で出すんですか」
「好評なら出そうと思ってます。でも、お客さんの顔を見ていると売れそうな予感がしますね」

 言われて思わす自分の顔を押さえてしまった。そんなにわかりやすい顔をしていただろうか。

「売れますよ。とっても美味しいですもん」
「本当ですか、うれしいですね」

 息子さんの笑顔を見ていると、ささくれだっていた感情が収まっていくみたいだ。すごいな、これはこの店が何年経ってもなくならないわけだ。
 いつの間にか私も笑顔になっていた。

「――――あの、ところで」

 他のお客さんがいなくなって、たまたま客が私だけになったのを見計らって息子さんが話しかけてきた。

「間違っていたらすみません。お客さん、ひょっとして随分前にうちにいらっしゃってませんでした?」
「え」

 突然の質問に目を見開いてしまう。

「――――ええ、はい。学生時代ですから十年は前になりますけど、よくお邪魔してました」
「やっぱり!」

 息子さんが晴れ晴れしい笑顔を見せる。そして「ちょっと待ってくださいね」とカウンターの下から出してきたのは、一冊の本だ。
 見覚えがある。学生時代に気に入って読んでいた、女流作家のエッセイだ。そういえばいつの間にか手元からなくなっていたんだっけ。裏表紙をめくれば端っこに小さくK.Mのイニシャルが書いてある。本橋喜美もとはしきみ――――私のイニシャルだ。

「これ、忘れ物だと思います。次にいらっしゃったらお返ししようと思っていたんですが、それきりお見かけしなくなったので」
「保管してくださってたんですか?」
「ええ、もちろん」

 そのかわり、こっそり読ませていただきましたと頭を下げられた。

「ありがとうございます、好きな本だったんです。でも、男の方には甘ったるいんじゃないですか?」
「ええまあそうですが、でも、本って自分の知らない世界を知るのが面白いじゃないですか。人は百人いれば百通りの考えがありますものね。だから、知らない考え方が読めて興味深かったですよ」

 私は目を見張った。哲夫なら「ダメダメ、こんな甘っちょろい考えなんて読むに値しないよ」なんて本を投げ出しそうだ。

 ――――馬鹿だな、哲夫と比べてどうするんだ、私。ごく一般的に、社交辞令的に同意してくれただけだ。そう考えているのに、目頭が熱くなる。

 嬉しかったんだ。十年も経って覚えてくれていたことが、忘れ物をずっと取っておいてくれたことが、私の考えに頷いてくれたことが。相手は客商売だからなんだろうけど、そんなことで胸が暖かくなってくる。

 思っていたより疲れてたんだな、私。久しぶりに心から笑顔ができた気がする。次に恋するならこんな穏やかな人がいいな。ふとそんなことを考えて、慌てて頭の中から打ち消した。
 思考の奥の奥にぽつりと灯った暖かい光は、今になって思えば10年前のあの頃にも実は灯っていたような気がする。ひょっとして淡い初恋みたいなものだったのかもしれない。だからこそこんな失恋したばかりのときにそんなことを考えるのは、ただ優しくされて流されているみたいで、大切な思い出を汚してしまうような気がしたからだ。


 チリン、とドアベルが鳴り、誰かが入ってきた。

瑠偉るい、お待たせ――――あら、失礼しました。いらっしゃいませ」

 カウンターの中に入ってきたのは初老の女性。髪は白くなったけど間違いない、ママさんだ。買い物をしてきたのだろう、たくさん品物の詰まった袋をキッチンに置いて、それからしげしげと私と彼を見比べる。

「何か、お邪魔だったかしら」
「ち、違うよ母さん! ほら、あの本の忘れ物の主だよ」
「え? あのエッセイ? まあ、まあまあ! よくいらしてくれたわね、待っていたのよ」

 そこからはママさん――――明子さんの怒涛の質問攻撃に、私はあのあと就職して忙しくなり、職場と逆方向のこの街から足が遠のいてしまったこと、この年になっても独身なことなどなど、気がついたらぺろっと喋らされていた。

 さんざん長居をして、二杯目のコーヒーもいただいてやっと腰を上げた。
 その頃には明子さんとも、息子さん――――瑠偉さんともすっかり打ち解けて、私はまた来ると約束をした。

 店を出たらもう空は茜色。
 ああ、居心地が良かった。すごく元気をもらった。そうだ、少しのんびりしたら新しい仕事はこの街の近くで探そうかな。

 そんなふうに考えながらぽつりぽつりと明かりのつき始めた商店街を歩き始めた。







「母さん、やめてよその顔」
「まあねえ、十年も片思いしてたんだからねえ」
「そんなんじゃないって何回言えばわかるんだよ」
「でも、何だっけ? 喜美ちゃんにはクッキー試食してもらったんだって? お客さん皆に試食してもらってるって、いつそんな話になったんだっけ?」
「だってさ、あんなに疲れて悲しそうな顔してるんだもん。甘いものくらい」
「はいはいはい、あんたの顔を立ててクッキーもメニューに入れましょうかねえ。さて、彼女、次はいつ来てくれるかしらね?」
「――――近いうちに来てくれるよ、きっと」

 本に挟まった革のしおりを返しに。
 わざとそれを挟んだまま本を返した瑠偉は、磨いていたグラスをそっと棚に戻した。




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