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左道四天王見参 《第八章》
其の六
しおりを挟むさて、騒乱から一刻ほどのち――、
夜明け間近の波打ち際に、ひっそりと寄りそう、不可思議な影があった。
一人は華奢な少女のもの……だが、もうひとつは、人間のものではなかった。
八尺を優に超す異様な巨体は、まるで〝鬼〟のようである。しかし少女の影は、まったく恐れることなく、異形の影に、もたれかかっていた。
そう……影の正体は、恣拿耶と三日月だ。
「恣拿耶……ごめんなさいね。私の力では、もう……」
疲弊しきった体に鞭打ち、懸命に神通力を用いる三日月だったが、完全に『鬼化』した恣拿耶を元に戻すことは……いや、それどころか、傷を癒すことさえできなくなっていた。
恣拿耶は、横臥する彼の胸に顔をうずめ、すすり泣く三日月を、心底愛しいと思った。
彼女のお陰で、心までは鬼業に侵されずにすんだらしい。
『三日月……もう泣くな。お前は一人でも大丈夫だ……その力が、天帝が、きっとお前を、これからも守ってくれる……たとえ俺がいなくなっても、お前は、一人で生き抜ける……』
すでに恣拿耶は、己の死期を予感していた。地獄枘から逃れるのに無茶をしたせいで、体はズタズタ、躯幹は穴だらけで、臓物はこぼれ、生きているのが、不思議なくらいだった。
三日月にも、彼の死が最早、避けられぬものであることは、痛いほど判っていた。
けれど三日月は、恣拿耶に絶望したまま、一人で逝って欲しくはなかった。
「嫌よ……そんなこと云わないで! あなたは董嗎さんの至心まで、無碍にする気なの?」
『董嗎の……至心?』
三日月が発した幼馴染みの名に反応し、恣拿耶は深紅の瞳を開いた。
三日月は続ける。
「私……岬の番小屋で、董嗎さんに捕らわれる前、彼に聞いたのです」
――董嗎さんは、何故こんなにも、私たちに、よくしてくださるのですか?――
――前にも少し話したと思うけど、俺は恣拿耶に恩があるんだ。ガキの頃、『藍睡江』で遊んでた時、溺れかけて、それをあいつに助けてもらったのさ。ほら、云っただろ? あの大河には魔物がひそんでるって。あの時、俺の足をつかんで深みに引きずりこんだのも、その魔物なんだ。まぁ、なんにせよ、あいつは不愛想で、不器用で、色々誤解を受けることもあるだろうけど、三日月さんだけは、いつも味方でいてやってくれよ。頼んだぜ――
『董嗎が、そんなことを……』
驚き目を瞠る恣拿耶。
董嗎の至心に、ようやく気づき、胸が熱くなった。
『すまない、董嗎……すまない、柚摩……結局、お前たちのこと、救ってやれなかった』
やがて、恣拿耶の瞳は、あふれ出る泪に浄化され、元の美しい黒瞳に、戻っていった。
三日月は安堵し、さらに彼の心を癒そうと、慈愛に満ちた声音で語り続けた。
「あの言葉に、嘘はなかったと思います。董嗎さんは心底、あなたを大切な親友だと思っていらしたのです。だからこそ最期に私の居所を、あなたに教えたのではないでしょうか」
恣拿耶は彼女の言葉を噛みしめるように、無言でうなずいた。しかし、完全に『鬼化』してしまった今、恣拿耶には、どうしても、あきらめなくてはならないものがあった。
誰よりも大切で、生涯をともに歩みたかった者……運命は残酷だ。
もうじき、永遠の別れを告げなければ、ならないのだ。
『だが、俺は……もう』と、苦痛に満ちた表情で、云いかけた時、
「判っています……恣拿耶。だから……」
三日月は、醜く変貌した恣拿耶の頬に口づけし、そっと己の頬を押し当てた。
「お願い、恣拿耶……私をあなたの往くところへ、お供させて欲しいの。そこが壊劫穢土でも、かまわない。あなたと離れる方が、私にとっては地獄だから、なにも怖くないわ」
三日月は、とうに覚悟を決めていた。
泪を流しながらも、幸せそうな笑顔で云う。
けれど恣拿耶は逡巡した。いや、彼女を害することなど到底、考えられなかった。
『三日月……俺には、できない。お前を、殺すことなんて……できるわけがない』
三日月は首を振り、確たる信念と、強い愛情を持って、恣拿耶にこう告げた。
「心配しないで、恣拿耶。私は自分の身の処し方くらい、なんとでもできます。ただ、約束して欲しいの。死んでも決して離れないと……そして、生まれ変わることができたなら、もう一度、私を愛し、必ず妻にすると……それだけでいい……もう、なにも要りません」
徐々に仄暗くなる視界に、最愛の女だけを映し、恣拿耶は誠心誠意で誓った。
『啊……三日月、約束する。必ず、お前を、妻に……愛して、いる……』
恣拿耶は、この上ない幸せを、そして三日月を感じながら、静かに息を引き取った。
三日月は浜辺に打ち上げられた小刀を拾うと、恣拿耶の耳元へ、そっとささやきかけた。
「恣拿耶……私も、すぐに逝きます……」
夜明けの海に漂う二つの遺体……どちらも人間のものである。しっかりと互いの体を帯で結びつけ、死後も決して離れまいと、誓い合った男女の愛情が、あまりにも切なかった。
恣拿耶の体からは、鬼業が完全に消失し、元の端整な姿に戻っていた。
三日月は、己の咽を突いたらしく、鎖骨のくぼみに血だまりができていた。
しかし二人とも、実に安らかで、穏やかで、幸せそうな死に顔であった。
「三日月さん……恣拿耶さん……」
波打ち際に、二人を見つけた途端、太毬は愕然と震え、その場にくずおれた。
常に明るく気丈な氷澪も、今度ばかりは泪をこらえきれず、妥由羅の肩でむせび泣いた。
滅多に見せぬ【泪麻族】の貴重な泪が、白銀に煌めいて美しい。その妥由羅も、呆然自失で、珍しく瞳をうるませては、水際に佇立していた。
そして、《左道四天王》も……。
「……間に合わんかったか」
杏瑚は、一言つぶやき、静かに瞑目……合掌する。
「……こういうのって、なんか、嫌だよ」
彗侑は、顔をしかめ、そっぽを向き、長嘆息する。
「……勝手に幕引きして、卑怯だぞ」
栄碩は、イラ立たしげに、波を蹴り、目を伏せる。
「……結局、綺麗なまんま、逝っちまったな」
倖允は、落胆して、背中を向けたまま、項垂れる。
執拗に追いかけ、『殺す』だの『復讐』だのと、なんだかんだ云いつつ《左道四天王》も、結局のところは、心中などという、悲惨な最期を望んでいたわけではなかったらしい。
実に不思議なものである。
自分たちが痛めつける分には、まったく気にならないクセに、他者に痛めつけられている誰かを見ると、どうにも気に喰わない。それが何故なのかは、四悪党にも判らなかった。
ただ、一時は、あれほど願っていた恣拿耶と三日月の死が、今はどうにも許容しがたく、こうなる原因の一端を担った自分たちの行動さえ、今となっては腹立たしく感じるのだ。
やがて妥由羅の命令で、太毬がどこからか、小舟を一艘、用意して来た。
水漬けのままでは、あまりにも憐れだ。二人の遺体を、そっと小舟に乗せてやる。
そうして、妥由羅、太毬、氷澪は、ゆっくりと小舟を、外海の方に出してやった。
朝陽に照らされ、徐々に遠ざかる精霊舟……三人は泪をこらえ、それを見送った。
氷澪が切なげな目をして、ポツリとつぶやく。
「あのまま、閻浮提まで、往き着ければいいわね……」
妥由羅が、そんな氷澪の肩をポンと叩き、大きくうなずく。
「そうだね……でも心配ないよ、姐さん。あの二人なら、もう決して離れることはないさ。これから何度、生まれ変わっても、きっと……そう、七生だってともにするだろう。必ず」
「七生をともにする、か……なんだか、うらやましいわ。ねぇ、ヤブ先生……先生?」
うっとりとした泪目で、杏瑚を振り返った氷澪。ところが四悪党は、何故かあらぬ方を向いている。こんな時まで、雰囲気を台なしにして……と、憤り、太毬が怒鳴った途端!
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