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『双つの心』
其の八
《……二世の契りに弥栄張って、
此の合巹に言寿ぞ生す……》
そして今、彼女は運命の婚礼宴席に身をおいていた。『九献の言寿』は、蛍拿の挽歌だ。
……清けし月の面にも、
写す九献の面にも……
喨々たる歓楽、にぎわう祝宴。いよいよ最期の時が迫っていた。花嫁花婿の前に、契りの合巹が用意される。ナミナミと注がれた御神酒が、悪縁深き二人の男女を、否応なく結びつけてしまう。蛍拿は、楽師の寿歌が終わった瞬間、舌を噛み切ることに決めていた。
もうすぐだ。
……雄蝶雌蝶が明衣に揺れて、
箜篌や鞨鼓の音色に舞えば……
〈上……もうじき、あなたの元へ逝きます〉
碧瑠璃の瞳は泪でにじみ、もうなにも見えない。
蛍拿の心に浮かぶのは、愛しい修験者の天狗面……それにかさなる、《青耶》の天狗面。
〈青耶さんは、到頭、来てくれなかった……でも、恨んだりしない。私のために泣いてくれた、初めての人だもの。きっと、上の御霊が束の間の慰めによこした、幻だったんだわ〉
……現人神も弥栄張って、
此の合巹に言寿ぞ生す……
〈さようなら、楚白。お前との悪縁も、今宵限り……血染めの宴席で、恥をかくがいい〉
蛍拿が、皓歯で舌をはさみ、力をこめた瞬間。思いもかけぬ、不可解な現象が起こった。
……雨の夜さりに聞く声は、
耳朶を震わす哀歌なり……
高名な楽聖《吉祥参楽天》が唐突に曲目を変え、婚礼の席には不釣り合いな物悲しい旋律を、奏で始めたのだ。これには蛍拿や楚白のみならず、宴席に集まった賓客一同が仰天。
しかも、その直後。
「うぐっ……ぐはぁっ!」
合巹を落とし、楚白がもだえ苦しみ出した。
咽元や胸をかきむしり、雛壇からくずおれる。さながら、毒物に中ったような劇症だ。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!」
「若君!? どうなされたぁ!」
「まさか……合巹の瓢に、毒が!?」
「そんな莫迦な! 楚白、しっかりしろ!」
めでたい婚礼の祝宴は、蛍拿が舌を噛み切る前に、楚白の吐血で真っ赤に染まった。
大混乱の最中、誰より驚倒したのは蛍拿だった。
「何故……お前が!?」
……夏の終わりの蝉囃子、
残夢と名付けば小夜嵐……
忌まわしい哀歌『夜さりの残夢』は、まだ続いている。侍女たちは、苦痛にあえぐ楚白を介抱し、従臣たちは大わらわ。ところが、突然の凶変にもかかわらず、楽聖三人は悠々とかまえ、演奏をやめようとせぬ。媒酌人から、厳しい怒号が飛んだ。
「貴様ら! 不吉な唄は、もうやめよ!」
「なんと非常識な……疾く楽器をおけ!」
これに琵琶楽師、莞爾と微笑み、安穏と答えた。
「そうは云われましてもねぇ……あそこのお客さまより、たってのご要望でして……」と、撥で指し示した先は、中庭の鳥篭離宮だった。そこに、いるはずのない人影を見つけ、宴席の一同は悄然。中でも殊更、大きな衝撃を受けたのは、花婿の父《董朱薇》であった。
「水沫……そんな、莫迦な!」
老家宰典磨と、李蒐武官も声を上ずらせた。
「おおっ……奥方さま! 奥方さまじゃあ!」
「う、嘘だ……そんなこと、あり得ない! あの御方は疾うに、この世の人でないのだ!」
おびただしく吐血する楚白の容態は、ますます悪化の一途をたどり、すでに死相まで現れている。賓客、家臣、舞姫、楽師、高官一同が、慌ただしく入り乱れ、まさしく修羅場と化した宴席……蛍拿は、これこそ〝天譴〟に相違ない、と考えた。
〈何故こんなことに? 誰が毒を? でも今なら逃げ出せる! きっと上のご加護だ!〉
「誰ぞ! 早く医者を呼べぇ!」
「楽師どもを取り押さえろ! 毒を盛ったのは奴らかもしれんぞ! 絶対に逃がすなよ!」
蛍拿は、明衣大袖衫を脱ぎ捨て、傍仕えの童巫女を振り切り、中庭へと走り出した。
宴席では、武官や護衛官に包囲された楽聖《吉祥参楽天》が、琵琶、簫、鞨鼓を投げ捨て、大立ち回りを演じていた。鍛錬を積んだ兵法者相手に、大した奮闘ぶりである。
隠し持った短刀や黒縄、独鈷杵を用いて対峙する。
中庭の水路を渡る蛍拿は、そんな楽師の様子を訝しげに振り返り、足を止めた。
その時――、
……雨の夜さりに聞く声は、
耳朶を震わす哀歌なり……
今度は玲瓏な女声で、あの物悲しい唄が流れて来た。琵琶楽師が示した通り、鳥篭離宮の妖しい人影が、唄声をつむいでいるらしい。蛍拿には、聞き覚えのある声だった。
「水沫さん……あなたなの!?」
蛍拿の足は、自然と鳥篭離宮へ向かった。騒ぎのドサクサにまぎれ、遁走を図る花嫁の後ろ姿を、李蒐武官が目ざとく捉えた。眦吊り上げ、すかさず配下の家臣団へ、号令を放つ。
「戴星姫が逃げるぞ! あの女こそ、若君に毒を盛った犯人だ! 疾く、捕まえろぉ!」
板輿に載せられた楚白は、典磨老と侍女連中に、奥の間へ連れ去られる。残る家臣は賓客や芸人どもを落ち着かせ、一隅へ追いつめた楽聖三人を、槍矛で威嚇する。
李蒐と護衛官十数名が、逃げた花嫁へ懸命に追いすがった。
「多分、水沫さまの幽霊騒ぎも……あの女の怪しい魔力に相違ない! 場合如何では、捕らえ次第、殺してかまわん! 生きて、董家敷地からは出すなよ! 【戴星姫】だか、なんだかしらんが……疫病神め! 若君をまんまと誑しこみ、篭絡し、挙句の果て、お命を狙うとは……許しがたい所業! すぐに化けの皮をはいでやるぞ!」
李蒐の隻眼は、憤激で赤く充血していた。武官筆頭の怨言が終わらぬ内、蛍拿は呆気なく、追跡隊十数名に取り囲まれてしまった。丁度、鳥篭離宮の真下、深池の淵である。
「薄汚い非人卑族め! 到頭、尻尾を出したな! もう、逃げられんぞ! 観念しろ!」
蛍拿は、水際へ追いつめられ、逼迫した。土壌をほぼ円形にくりぬいた人口の池は、淵からいきなり深く、水中には数多の忍び逆刺がひそんでいる。
誤って落ちれば、たった一足で深々と沈みこみ、鋭い鉄柵が串刺しにする。
「お願い……もう、自由にさせて! 私は毒など盛っていないし……楚白との婚儀だって、ハナから望んでいなかった! あなただって、知ってるはずよ! あいつが勝手に話を推し進め、こばんだ私を無理やり……ここへ幽閉した!」
蛍拿は、頭上の鳥篭離宮を振り仰ぎ、李蒐の厳しい顔と見比べながら、必死に釈明した。
「水沫さまと、同じだな……董朱薇は、己の不貞を棚に挙げ、奥方さまに間男がいると断じた。そして、あの人をここへ閉じこめたのだ。可哀そうな水沫さま……【唯族】の彼女は夜盲症で、当主が浮気相手の元へ出かけた夜分、一人寝の閨房に忍びこんだ相手が誰なのか、確信が持てなかった。きっと、薄々は感づいていたはずなのに……その男をかばったのだ。それが余計に、嫉妬深い朱薇の怒りを買った! あんなに、清楚で美しく、心優しい人は、この世に二人といなかったろうに……莫迦な男だ!」
李蒐の片目は、哀切な泪でにじんでいた。その怒りは、誰に向けられたものなのか。
水沫を監禁した朱薇か、それとも……蛍拿は、水沫に対する李蒐の激しい愛慕と、背後で佇立する《董朱薇》の蒼白顔を、恐々と見比べた。
驚愕する配下に続き、李蒐も駆けつけた朱薇の存在に、ようやく気づいたらしい。
「李蒐……貴様だったのか!? 水沫に狼藉を働いた奸臣は……なんたることだ、啊っ!」
声を震わす董家当主は、恐ろしい真相に慄然。怨嗟にゆがむ顔で、若い李蒐を睨めすえた。しかし李蒐は、少しも動じず悪びれず、主人『闈司太保』に、口汚い罵声を浴びせた。
「そうだ! 俺は、まだ幼い頃から、水沫さまが好きだった! あんたみたいに、浮ついた放埓者が、妻にするには到底、勿体ない御方だったんだ! なのに彼女は、あんたを心底愛していた! 一人寝の寂しさをわぎらわすために、毎夜『夜さりの残夢』を口ずさんでいたよ! あの晩も……自害なさった晩も……ずっと、ずっと、ずっとだ!」
「李蒐ぅぅ! 貴様という奴はぁぁぁあ!」
「やめてぇぇぇぇぇえ!」
抜刀し、斬りかかる朱薇と、迎撃する李蒐。
配下一同、呆然自失で立ち尽くす中、蛍拿だけが必死に、二人の間へ割って入った。
不穏な雲行き、閃く遠雷、ポツリ、ポツリ――、
……妻問婚の蚊帳の宴、
酒酌む朱盃に泪落つ……
突如、篠でつくような豪雨が降り始め、水面が赤く細波立った。
赤い雨粒……いや、ちがう。それは、頭上の鳥篭離宮から落ちて来る。
「水沫……水沫ぁぁぁあ!」
血まみれの手を格子から差し出し、水沫は艶然と微笑んでいる。朱薇は狂喜し、叫んだ。
「お前になんか、逝かせないぞ!」
半狂乱で駆け出す朱薇を斬り伏せ、李蒐が水沫の元へ先駆けた。
配下一同が止める間もなく、身を躍らせた李蒐。
水音が響き、飛沫が上がり……深池はたちまち、真っ赤に染まった。
「嫌あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
水沫の手招きに誘われるまま、まるで悪夢のように、李蒐武官は黄泉へ飛びこんだのだ。
次の瞬間、凄まじい雷鳴がとどろき、閃光が一同の目をくらませた。
稲妻が、鳥篭離宮を直撃したらしい。
男たちの悲鳴、バリバリと空間を断ち割る破砕音、記憶の闇間を照らす光明……蛍拿は、何者かの力強い腕力に引っ張られ、白濁した世界から、ついにすくい上げられたのだ。
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