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『旅路の果て』
其の六
しおりを挟む「喂……男のクセに、泣くんじゃねぇよ。莫迦みてぇに大声でわめいて、見っともねぇぜ」
男の体からは、かすかな白檀香が漂っていた。
彼が手を放した瞬間……飛びすさって振り向いた茅刈は、そこに第三の男を認めたのだ。
「ああ、あ、あんただ、だ、誰なんだっ!?」
茅刈は、恐怖のあまり腰砕け。声が割れて、上手くしゃべれなかった。
小屋の中は陰鬱で、少し距離をおくと、相手の顔がまったく見えない。
茅刈は、周囲に気を配りつつ、謎の男との安全な距離を計った。
「哈哈哈、ザマァねぇな! しっかりしろよ、哥サン! ここは地獄の一丁目だぜ……まごまごしてっと、魂ぁ取られっちまうぞ?」
屋根に開いた穴から、清しい月明かりがもれてくる。
ここは、粉挽き水車小屋の跡らしい。
謎の男はケタケタと笑い、月光がさす土間の中心部へ、ひょいと顔を突き出して見せた。
「ホレ、顔見りゃ少しは、安心すんだろ?」
散切りの黒髪に、ひとふさ白い前髪がまじる男の顔は、鼻筋細く、目縁は濃く、なかなかの美丈夫だった。檀族の特異種【栴檀】に相違ない。かなりの長身で、薄紫の袍衫に裾細袴、派手な刺繡入り半被をかさね、額当を巻いた風体は、いかにも〝ヤクザ〟な遊び人めいている。優雅な白檀香とは相容れぬ、軟派な装いだ。
「あ、あなたは、せ、【栴檀族】の……?」
「ああ、この白い毛が『逆鱗』さ。無闇に暴れて、触れるなよ。あまりの激痛にトチ狂って、お前をうっかり、殺しちまうかもしれねぇぜ」
まだ、二十歳そこそこの若い男は、悪戯っぽく口の端をゆがめ、己の前髪を指し示した。
【栴檀族】の特徴である『逆鱗』は、痛覚を秘めた特殊器官だ。他者に触れられた際の激痛は言語に絶する。正気を失った挙句、信じがたい殺傷沙汰まで起こす者もいるという。
「俺ぁ《靭》って風来坊だ。仔細あって、今じゃ落ち目の三度笠よ。こんなド田舎の小汚ぇ廃村に、隠れ暮らしてるのさ。ま、他の奴らも皆、ワケありの曲者ぞろいだけどなぁ」
《靭》と名乗った檀族風来坊は、妙になれなれしい態度で、茅刈の膝へ手を乗せて来た。
「ところで、お前……新顔だな。黄金の髪に七宝眼、しかも真珠白の美貌たぁ、歩く宝箱みてぇだぜ。お前は、なんて種族の出身だい?」
茅刈を壁際に追いつめ、白い頬をなでる靭。
自分には無闇に触れるなと云ったクセに、好い加減な男である。
だが今の茅刈は、それどころでない。
次々と降りかかる凶事の連続、衝撃的な展開に疲弊しきって、考えもまとまらない。
しかし、なにはさておき、急いで判官所へ向かわねばなるまい。
彼はたった今、殺人を目撃したのだ。
龍樹に首を斬られた琉衣の死相が、まざまざと脳裏へ浮かび上がり、茅刈を震撼させた。
その上、廃村から逃げ出そうともがく茅刈を、例の緇蓮族が、確かに見すえていたのだ。
茅刈は、ザワザワと悪寒に震え、動悸も激しい。
「大変なことに……は、早く、ここから逃げなきゃ……判官所か、郡代所に、助けを……」
それだけつむぎ出すのが、やっとだった。
「なんだって? 判官所? はっ! 冗談じゃねぇや! お前、頭がイカレてんじゃねぇだろうな! 爺ぃや、白風靡族の夫婦みてぇに!」
靭の辛辣なセリフが、茅刈の乱気をあおった。
「そうだ……ここの連中は、誰も彼も狂ってる! 私は今、白風靡夫婦の家から逃げ出して来たんです! 最初は弧堵璽さん、次は龍樹さん……彼は奥方を、包丁で斬り殺した!」
靭の袍衫身頃をつかみ、真剣に訴える茅刈。
ところが靭は、彼の言葉をあっさり笑い飛ばしたのだ。しかも信じがたい軽口をそえて。
「哈哈ァ! あの夫婦、ついにヤッたか!」
茅刈は愕然とした。
思わず、すがりつきそうになった目前の男から、手を放しあとずさる。
「喂々、そう身がまえるなって。あの白夫婦が異常だってのは、だいぶ前から知ってたモンでねぇ。いつかは、そうなるんじゃねぇかって……へへ、ここはクズの寄せ集めだし」
靭は少しも動じず悪びれず、茅刈の頬を軽く叩く。茅刈は緊張続きで、めまいを覚えた。
「あなたも、どうかしてる! だって、殺人ですよ!? 僕の目前で、夫が妻の首を刎ねたんだ! お役人に報せるのは、当然でしょう!」
「俺にゃあ、関係ねぇな……だが、お前!」
靭は突然、茅刈の衿首をつかんだ。
「もしやと思って、不意打ち喰らわしてみたが案の定か! やっぱり、そうなんだな!?」
壁板に叩きつけられ、茅刈は前後不覚だ。
「痛っ……一体、な、なんのことですか!?」
目前に迫る靭の凶相は、妖しい邪気を宿していた。物凄い膂力で、茅刈の首を掌握する。
「とぼけるなよ、クソッたれが! 役人なんざ、呼ばれてたまるか! 善人ぶっても、俺にゃあ判るんだぜ! 殺人だの、首を刎ねるだのと、回りくどいセリフばかり、並べ立てやがって! 本当の狙いは……俺の〝賞金首〟なんだろ!」
茅刈は、絶句した。この男は、凶状持ちだったのだ。
しかも殺気立った目で、茅刈の咽元に匕首を突きつけてきた。どこまで不運は続くのか。
「ち、ちがうっ……誤解だ! 僕はただの、行商人で……名は《茅刈》……南方燦皓から」
「黙れ! 嘘は聞きたくねぇ! てめぇの正体は賞金稼ぎだ! この《死屍食み岱賦》さまの首はなぁ! 五千螺宜なんて端金じゃあ、勿体なくて、とても盆暗クソ役人になんぞ、譲れるかってんだ! こんな間抜けな密偵よこしやがって! 巫山戯た莫迦畜生がぁ!」
靭……いや、本名《死屍食み岱賦》なるお尋ね者は、怒り心頭で茅刈の頬を殴打した。
茅刈は鼻血を噴き、土間へ転がった。
両手を合わせ、懇願したが、岱賦の拳は執拗だ。茅刈を傷め、散々にいたぶり続けた。
終いには、かたわらの石臼へ茅刈の頭を叩きこむ。
傍若無人な蛮行に、茅刈は半死半生である。
「お、お願いだっ……話を……ぐふっ!」
強打された頭が、視界をグラグラ揺るがす。
耳鳴りが酷くなり、茅刈は血まじりの吐瀉物をまき散らした。
激痛で全身焼けるようだ。もう動けない。逃げられない。ここで死ぬ。
理不尽な暴虐に晒されながら、茅刈の意識は徐々に霞み始めた。彼の胸の奥……静謐に広がる水面がザワザワと波打った。透き通った上澄みに、浮かんでは消える懐かしい面々。
――妻女の真魚――恩人の胡坐和尚――世話になった寺男や守役――行商仲間――薬種問屋の頑固親爺――お得意先の客――定宿の主人――陽気でかしましい長屋の住民たち――巡礼――そして、まだ見ぬ愛しい吾子――
だがその水面は今や、岱賦が加える凄烈な拳によって、激しく撹拌され……水底に沈んでいた暗い澱を、湧き起こしてしまう。この三年間、《茅刈》と呼ばれた清い水面は、たちまち濁って汚染され、元の泥水へと変貌する。そう、茅刈川は二層の泥沼だ……深く黒く、よどんだ心……消え往く《茅刈》とは裏腹に、見てはいけない、暗黒世界が黄泉還る。
――吠えつく犬――立ちすくむ少女――初老の猟師――
茅刈はもだえ、
頭をかきむしり、
うめきながらうずくまる。
――むつみ合う男女――断末魔の悲鳴――赤と白の鮮烈な対比――女の哀切な泪――
茅刈はおびえ、
悪寒に震え、
記憶の闇を振り払う。
――ほとばしる鮮血――赤く穢れた土壌――転がる半被に袍衫姿――入りまじる白檀香と死臭――男の悲痛な叫哭――黒尽くめの殺手が振りかざす刃――
最後の映像が起爆剤となり、茅刈は発奮した。岱賦を突き放し、猛然と立ち上がる。
岱賦が生きて、ここにいる以上、ただ今、茅刈の脳裏をかすめたものは、おそらく〝予知夢〟だろう。茅刈は怖気も、苦痛も忘れ、大音声を発した。
「あんた、殺されるぞ! あの、緇蓮族に!」
岱賦の拳が、ピタリと止まった。
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