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【50】
高く澄んだ声音に「お前」呼びされた。
垂れ目がちの童顔であるエレノアは、小柄で可憐な見目の王女である。それでも歳はヘンリエッタの三つ上、エドワードやハロルド、それにマルクスとは同い年である。
そのエレノアは、お前と呼び止めておいて次の言葉を発しない。許しが得られないから、ヘンリエッタはカーテシーの姿勢のまま頭を垂れ続けている。陰湿な嫌がらせだ。学園の夜会でくすりと漏らした嫌な笑い、あれもやはりヘンリエッタを見下すものだったのだろう。
隣りで礼を取るマルクスも頭を垂れた姿勢から動かない。どれほどそうしていさせたいのか、エレノアは尚も声掛けをせぬままに、見ずとも解る意地悪な笑みでヘンリエッタを眺めているのだろう。
これ、キツいわ。脚に来る。揺れない様に必死にヘンリエッタは踏ん張る。
「お前、生意気なのよ。」
面を上げることを許さぬまま、エレノアは甘やかな声を冷たく潜めて言い放った。
「そんなドレスを着て、どれほどハルの気を惹きたいの?浅ましい。」
ハルとはハロルドを指しているのか。そんな事よりこの体勢の方が余程苦しい。
その時、ブンッと風音がしたと思った途端、目の前に影が差した。瞬間、ばちんっと肌を打ち付ける音が響いた。
「王女っ」
エレノアの背後に控えていた近衛騎士のアレックスが小さく叫ぶ。
「お、お前、」
慌てる様子の王女の声に、ヘンリエッタはもう許可など無用だろうと頭を上げた。
目の前にマルクスがいて、その背でヘンリエッタを庇っている。背中で解る。彼は王女から扇子で打たれたのだ。それは、エレノアがヘンリエッタを打ち据えようと振りかざした扇子を、マルクスが顔面で受け止めたのだと直ぐに解った。
「マリーっ」
「大丈夫、心配要らない。」
「だって貴女っ」
マルクスは額の左から僅かであるが出血していた。
「大変、血が出てるわっ」
これほどの傷を付ける程の力で、エレノアはヘンリエッタを打ち据えようとしたらしい。
「くっ、お、お前、」
「エレノア王女、なりません、お控え下さい。」
扇を手にわなわなと震えるエレノアを、アレックスが制している。王族に手を出せない近衛騎士も、流石にこれ以上はさせるまいと前に出ている。
「何を騒いでいる。」
「ど、どうして、」
「ん?どうしてって、婚約者が慌てて会場から出て行ったから、後を追ってきたんだよ、エレノア。」
最悪だ。コンビの片割れが来てしまった。
そんな事よりと、ヘンリエッタはハンカチでマルクスの額をそっと押さえた。
「マルクス?お前、傷を負ったのか?」
エドワードがマルクスを名呼びした。彼等は学園でも同窓であるから、予てより面識があったのだろう。
「アレックス。」
エドワードは、険しい表情で近衛騎士のアレックスに説明を求めた。
「エレノア王女殿下がヘンリエッタ嬢を打ち据えようと扇を振り下ろしたのを、マルクス殿が庇われて額に傷を。」「何!!」
アレックスが言うなりエドワードを押し退ける勢いで前に出たのはハロルドであった。
「何故、ヘンリエッタがっ、」
「落ち着け、ハロルド。」
流石は王族、多少の事で慌てない。対してハロルドは目元を真っ赤に色を変えて、そのままの顔をエレノアへ向けた。
「その娘が生意気なのよ!」
エレノアは、鈴の音の様な声を甲高く響かせて、ヘンリエッタを睨み付けた。生憎、震える王女は全く怖くはなかった。寧ろ、ヘンリエッタの冷たい視線の方が痛かろうと思われた。
「アレックス、お前が側にいてどうしてこんな事に...いや、今はよい、王女を自室へ。決して出すな。」
その言葉に、すかさずアレックスが王女を促す。しかし、エレノアは足に根が張ってしまった様に微動だにしない。尚も青い顔でヘンリエッタを睨みつける王女に、アレックスは終いにはその肩に手を添えてその場から退かせた。
「触るな!無礼であるぞ!」
「王女、部屋に行かれよ。」
甲高く声を上げたエレノアを、エドワードの声が制する。その途端、まるで糸の切れた操り人形の様に、エレノアは声を失い表情を無くした。
アレックスがゆっくりと王女を誘い、やがて王女は回廊の奥へと連れられて行った。
「大丈夫?マリー、」
「大丈夫よ。それより、」
ハンカチを押し当てるヘンリエッタの手をそっと外して、マルクスは前を向く。
「エドワード王子殿下、王女の奇行をお止め頂き感謝致します。」
「耳が痛いな。」
真逆のマルクスの皮肉に、エドワードは素直に詫びる様子を見せた。
「マルクス、申し訳無かった。だが、君が扇を受け止めてくれて感謝する。その傷をヘンリエッタ嬢の顔を負わせていたなどと考えたら...。ヘンリエッタ嬢、大丈夫であったか。」
全然大丈夫じゃありません!どうせ貴方は軍馬の心配をしているのでしょう。そんな事より貴方の駄馬を何とかして頂戴!どうしてくれるのよっ、マリーが怪我しちゃったじゃない!
「いや、全くもって返す言葉も無い。済まない。」
あれ?胸の内で怒った筈だが、何故だかエドワードに謝られた。
「あ、あれ?」
「ヘンリエッタ、私の為に怒ってくれるのね。」
「え、」
心の声はしっかり口から出ていたらしい。
不味い、今なに言ったっけ?とヘンリエッタは慌てるも、言ってしまったものは今更取り消せない。
「全くだ。駄馬の所業の責は私にある。」
エドワードの言葉に今度はヘンリエッタが青くなる。
腐っても隣国王女(不敬)を駄馬呼ばわりしてしまった。
お前呼ばわりされるより余程失礼な事よね、そう思うも何故か後悔の気持ちは少しも起こらなかった。
垂れ目がちの童顔であるエレノアは、小柄で可憐な見目の王女である。それでも歳はヘンリエッタの三つ上、エドワードやハロルド、それにマルクスとは同い年である。
そのエレノアは、お前と呼び止めておいて次の言葉を発しない。許しが得られないから、ヘンリエッタはカーテシーの姿勢のまま頭を垂れ続けている。陰湿な嫌がらせだ。学園の夜会でくすりと漏らした嫌な笑い、あれもやはりヘンリエッタを見下すものだったのだろう。
隣りで礼を取るマルクスも頭を垂れた姿勢から動かない。どれほどそうしていさせたいのか、エレノアは尚も声掛けをせぬままに、見ずとも解る意地悪な笑みでヘンリエッタを眺めているのだろう。
これ、キツいわ。脚に来る。揺れない様に必死にヘンリエッタは踏ん張る。
「お前、生意気なのよ。」
面を上げることを許さぬまま、エレノアは甘やかな声を冷たく潜めて言い放った。
「そんなドレスを着て、どれほどハルの気を惹きたいの?浅ましい。」
ハルとはハロルドを指しているのか。そんな事よりこの体勢の方が余程苦しい。
その時、ブンッと風音がしたと思った途端、目の前に影が差した。瞬間、ばちんっと肌を打ち付ける音が響いた。
「王女っ」
エレノアの背後に控えていた近衛騎士のアレックスが小さく叫ぶ。
「お、お前、」
慌てる様子の王女の声に、ヘンリエッタはもう許可など無用だろうと頭を上げた。
目の前にマルクスがいて、その背でヘンリエッタを庇っている。背中で解る。彼は王女から扇子で打たれたのだ。それは、エレノアがヘンリエッタを打ち据えようと振りかざした扇子を、マルクスが顔面で受け止めたのだと直ぐに解った。
「マリーっ」
「大丈夫、心配要らない。」
「だって貴女っ」
マルクスは額の左から僅かであるが出血していた。
「大変、血が出てるわっ」
これほどの傷を付ける程の力で、エレノアはヘンリエッタを打ち据えようとしたらしい。
「くっ、お、お前、」
「エレノア王女、なりません、お控え下さい。」
扇を手にわなわなと震えるエレノアを、アレックスが制している。王族に手を出せない近衛騎士も、流石にこれ以上はさせるまいと前に出ている。
「何を騒いでいる。」
「ど、どうして、」
「ん?どうしてって、婚約者が慌てて会場から出て行ったから、後を追ってきたんだよ、エレノア。」
最悪だ。コンビの片割れが来てしまった。
そんな事よりと、ヘンリエッタはハンカチでマルクスの額をそっと押さえた。
「マルクス?お前、傷を負ったのか?」
エドワードがマルクスを名呼びした。彼等は学園でも同窓であるから、予てより面識があったのだろう。
「アレックス。」
エドワードは、険しい表情で近衛騎士のアレックスに説明を求めた。
「エレノア王女殿下がヘンリエッタ嬢を打ち据えようと扇を振り下ろしたのを、マルクス殿が庇われて額に傷を。」「何!!」
アレックスが言うなりエドワードを押し退ける勢いで前に出たのはハロルドであった。
「何故、ヘンリエッタがっ、」
「落ち着け、ハロルド。」
流石は王族、多少の事で慌てない。対してハロルドは目元を真っ赤に色を変えて、そのままの顔をエレノアへ向けた。
「その娘が生意気なのよ!」
エレノアは、鈴の音の様な声を甲高く響かせて、ヘンリエッタを睨み付けた。生憎、震える王女は全く怖くはなかった。寧ろ、ヘンリエッタの冷たい視線の方が痛かろうと思われた。
「アレックス、お前が側にいてどうしてこんな事に...いや、今はよい、王女を自室へ。決して出すな。」
その言葉に、すかさずアレックスが王女を促す。しかし、エレノアは足に根が張ってしまった様に微動だにしない。尚も青い顔でヘンリエッタを睨みつける王女に、アレックスは終いにはその肩に手を添えてその場から退かせた。
「触るな!無礼であるぞ!」
「王女、部屋に行かれよ。」
甲高く声を上げたエレノアを、エドワードの声が制する。その途端、まるで糸の切れた操り人形の様に、エレノアは声を失い表情を無くした。
アレックスがゆっくりと王女を誘い、やがて王女は回廊の奥へと連れられて行った。
「大丈夫?マリー、」
「大丈夫よ。それより、」
ハンカチを押し当てるヘンリエッタの手をそっと外して、マルクスは前を向く。
「エドワード王子殿下、王女の奇行をお止め頂き感謝致します。」
「耳が痛いな。」
真逆のマルクスの皮肉に、エドワードは素直に詫びる様子を見せた。
「マルクス、申し訳無かった。だが、君が扇を受け止めてくれて感謝する。その傷をヘンリエッタ嬢の顔を負わせていたなどと考えたら...。ヘンリエッタ嬢、大丈夫であったか。」
全然大丈夫じゃありません!どうせ貴方は軍馬の心配をしているのでしょう。そんな事より貴方の駄馬を何とかして頂戴!どうしてくれるのよっ、マリーが怪我しちゃったじゃない!
「いや、全くもって返す言葉も無い。済まない。」
あれ?胸の内で怒った筈だが、何故だかエドワードに謝られた。
「あ、あれ?」
「ヘンリエッタ、私の為に怒ってくれるのね。」
「え、」
心の声はしっかり口から出ていたらしい。
不味い、今なに言ったっけ?とヘンリエッタは慌てるも、言ってしまったものは今更取り消せない。
「全くだ。駄馬の所業の責は私にある。」
エドワードの言葉に今度はヘンリエッタが青くなる。
腐っても隣国王女(不敬)を駄馬呼ばわりしてしまった。
お前呼ばわりされるより余程失礼な事よね、そう思うも何故か後悔の気持ちは少しも起こらなかった。
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