ビアトリスの象牙の小箱

桃井すもも

文字の大きさ
24 / 47

第二十四章

しおりを挟む
「お嬢様、数学は文学とは違いますよ。眺めるだけで解答には進みませんよ」

 ビアトリスの赤点スレスレ小テストを解き終えたマチルダが、ビアトリスに声を掛けた。

 ビアトリスはあれから邸に帰って、嬉々として小テストを解くマチルダの横で『今日からわかる基礎数学の極意』を眺めていた。

「ですが、確かに文章を読み解く力は必要ですね。設問の意味を理解できなくては何について解を求めるべきかわかりませんもの。求めずに得られる解とはなんぞや、です」

 マチルダが語ると数学がものすごく奥深いものに聞こえてくるのは気の所為だろうか。

 結局、ハロルドが書店で買い求めたのは、この参考書一冊だけだった。彼はビアトリスに参考書を選んでからは、他の棚を見ることも本を探すこともなかった。ビアトリスに「贈るよ」と言って、さっさと会計を済ませてしまった。

『わざわざ私を誘うほどのことでもなかったのでは?』

 包装された参考書を手渡されて、ビアトリスはそれを両手で胸に抱いてハロルドに尋ねた。

『君、最近外に出た?』
『先日はお茶会に行ったわ』
『それって婚約者関係だよね』

 ハロルドの言う通り、ビアトリスは休日にブラウン伯爵夫人を前に、ウォレスの不誠実の傾向と確率について弁舌を振るっていた。

『その前はどうだった?』

 ビアトリスは忘れかけた記憶を引っ張り出したが、その前の休日は、ウォレスとの茶会を朝のうちにお断りして、夕刻には両親に向かって彼の不誠実具合について熱弁を振るった記憶しかなかった。

『やだわ。私ったら家でも外でもウォレス様関係しか関わっていないわ』
『まるで婚約者に染まるような暮らしぶりだね』
『可怪しな言いまわしをしないで下さい』

 むきーっとなったビアトリスに、ハロルドは小さく笑った。

『書店に立ち寄る程度のことだけれど、偶に違う空気を吸うのも良いよね』

 確かにそうだと思った。
 書店には、ビアトリスたちのような学生らしい姿がいくつもあった。文芸書の棚のあたりにはご令嬢や婦人がたが多くいたし、経済書のところにはジェントリクラスだろうか、平民らしき紳士が数人いた。

 貴族も平民も様々で、騎士服を着た男性が昇進試験でもあるのか、過去問題集を難しい顔で眺めているのも印象的だった。

 学園からの帰り道、ほんのちょっと寄り道をした。参考書を一冊買うだけの僅かな時間だった。
 それなのに、ビアトリスの一日はいつもと違う日に感じられた。


「そんなに見つめておられては、参考書も恥ずかしくて赤くなってしまいますよ」

 表紙を開いたまま、じっと参考書を見つめるビアトリスに、マチルダは呆れたふうに言った。

 ハロルドが十一歳の頃には読み解いた参考書である。どこか感慨深く思いながら見つめていたが、見るだけで知識は得られないから眺めていても当然一つも進まない。

 ただ、ビアトリスの心の中でハロルドとの関わりが一つ増えた。
 彼が十一歳の時に読んだ本。同じ本を見つめながら、こんなささやかな気遣いをしてくれる存在に心が温かくなる。

 ウォレスからこんな感情を得ることはなかった。同じようにウォレスにも、温かくな思いやりをかけてこなかった。

 側にいるだけで心が温まり胸が弾む。アメリアとは、ウォレスにそんな温かな感情を抱かせる存在だったのだろう。

「私も大概冷たい婚約者だったわ」
「お嬢様⋯⋯」

 婚約者らしくあろうとした。だが、親愛を育もうとはしなかった。

「ウォレス様ばかりを責められないわね」

 マチルダは、ビアトリスの言葉を静かに聞いてくれた。

「お嬢様。歩み寄りとは片方だけでできるものではございません。あちらが一歩近寄ったら、こちらも一歩前に出る。お互いがそう繰り返すうちに、そのうち向き合い隣り合い、同じ風景を眺めるくらいには心も身体も近づくのでしよう」

「マチルダ⋯⋯。凄いわマチルダ。貴女、理数系侍女だと思っていたけれど、文学の才もあるのね。なんかぐっときたわ。ここ最近で一番感動したかも」

「お褒め頂き痛み入ります」

 マチルダは腰を折って深々と頭を下げた。その姿は、理系と文系の入り交じる理知的な後光が差すようで、

「もっと勉強しよう」

既に卒業を半年後に控えていながら、ビアトリスはそんなことを呟いた。


「ビアトリス」
「まあ、ルーファスお久しぶり」

 朝夕一緒に食事をとっているのだが、学園では最近会うことがなかったので、ルーファスから声を掛けられるのは久しぶりな気がした。

「街へ行ってたの?」
「ええ、書店へ」
「見たよ」

 食堂に向かうところでルーファスと一緒になって、二人はごく自然に並び歩く。

「見た?どこで?」
「書店から出てくるところ」
「まあ」

 ハロルドから参考書を買ってもらって、確か⋯⋯。

 そうだ。ハロルドがビアトリスの分も鞄を持っていてくれたのだ。なにせビアトリスは両手で胸に参考書を抱いていたから。

「あの留学生と親しいんだね」
「私は一応、彼のお世話係ですもの。今日は書店をご案内してたのよ」
「あんな蕩けるような顔をして?」
「は?」

 ビアトリスは思わず立ち止まった。一緒に生まれたのにビアトリスが見上げるほど背が伸びた弟を見た。

「あんな顔、いつも彼に見せているの?」
「⋯⋯あんな顔って、」
「僕も父上も母上も知らない顔かな。もちろん、ウォレスは見たことなんてなかったろうな」

 一体どんな顔をしていたのだろう。いつからそんな顔をしていたのだろう。

 いつからそんな顔を、ハロルドに向けていたのだろうとビアトリスは考えた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!? 「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」 不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。

結婚後、訳もわからないまま閉じ込められていました。

しゃーりん
恋愛
結婚して二年、別邸に閉じ込められていたハリエット。 友人の助けにより外に出ることができ、久しぶりに見た夫アルバートは騎士に連行されるところだった。 『お前のせいだ!』と言われても訳がわからなかった。 取り調べにより判明したのは、ハリエットには恋人がいるのだとアルバートが信じていたこと。 彼にその嘘を吹き込んだのは、二人いたというお話です。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

【完結160万pt】王太子妃に決定している公爵令嬢の婚約者はまだ決まっておりません。王位継承権放棄を狙う王子はついでに側近を叩き直したい

宇水涼麻
恋愛
 ピンク髪ピンク瞳の少女が王城の食堂で叫んだ。 「エーティル様っ! ラオルド様の自由にしてあげてくださいっ!」  呼び止められたエーティルは未来の王太子妃に決定している公爵令嬢である。  王太子と王太子妃となる令嬢の婚約は簡単に解消できるとは思えないが、エーティルはラオルドと婚姻しないことを軽く了承する。  その意味することとは?  慌てて現れたラオルド第一王子との関係は?  なぜこのような状況になったのだろうか?  ご指摘いただき一部変更いたしました。  みなさまのご指摘、誤字脱字修正で読みやすい小説になっていっております。 今後ともよろしくお願いします。 たくさんのお気に入り嬉しいです! 大変励みになります。 ありがとうございます。 おかげさまで160万pt達成! ↓これよりネタバレあらすじ 第一王子の婚約解消を高らかに願い出たピンクさんはムーガの部下であった。 親類から王太子になることを強要され辟易しているが非情になれないラオルドにエーティルとムーガが手を差し伸べて王太子権放棄をするために仕組んだのだ。 ただの作戦だと思っていたムーガであったがいつの間にかラオルドとピンクさんは心を通わせていた。

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...