32 / 47
第三十二章
帰りの馬車は、母が手配していた。
劇場の馬車寄せには既に生家の馬車が待っており、母は恐縮するハロルドを学園まで送ると言った。
「まあ、そうですの。やはり隣国は違いますわね」
馬車の中で、母は隣国の暮らしや文化についてをしきりにハロルドに尋ねた。世間話の割には細かなところを聞いたりで、ビアトリスは演劇に影響されて本気で母が亡命を考えているのかと心配になった。
母は、舞台の王子をバカ王子呼ばわりした。だが、現実の王子であるエリックは優秀と評判であるから、亡命の心配なんてない。
風土から始まり特産物や食材や、衣装の流行から信仰まで。母の質問は多岐に渡った。
ハロルドはそれらを面倒がることなく、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。時折は、冗談を交えて母を笑わせたりした。
隣国は海に面している。この国よりも南に位置して、気候は温暖である。叔母が婚約者から贈られた耳飾りの真珠も、隣国の特産品の一つである。
朗らかな叔母であったから、そんな隣国での暮らしはきっと性に合っているだろう。
母とハロルドの会話を聞きながら、ビアトリスは懐かしい叔母を思い浮かべた。
「お送り頂き申し訳ございません。ご婦人をお送りせねばならないのは私のほうですのに」
「お世話になったのは私たちのほうですわ。得難いひと時を頂戴できたのですもの。ハロルド様、ありがとうございました。また貴方のお国のお話を聞かせて頂けると嬉しいわ」
母は馬車を降りたハロルドに、そう言って微笑んだ。
「ハロルド様、ありがとうございました。とても楽しかったわ、観劇なんて久しぶりだったの」
「それは良かった。ビアトリス嬢、また学園で」
ハロルドは、いつもと変わらない笑みで別れの挨拶をした。街頭の灯りが背中にあって、彼の表情はよく見えなかった。声音だけが耳の奥に滲むように聞こえた。
エリックにもアメリアにも、ウォレスのことにも誰も触れることはなかった。ただ観劇を楽しんで心地よい会話を交わした、そんな夜で終わった。
馬車が離れてハロルドの姿が見えなくなって、二人になってからも、母は演劇の感想をつらつらと話すばかりだった。
だが、邸の門扉を通り抜けてエントランスが見えてくると、母は無言になってホールの明かりを見つめた。
ビアトリスが先に馬車から降りて、母がステップを降りるのを待っていると、足下から視線を上げた母はビアトリスを見た。
「貴女の苦悩を知らずにいて、ごめんなさいね」
母はそれだけ言うと、玄関ホールに入っていった。そのまま着替えもせずに、真っ直ぐ父の執務室へ向かった。それからいつまで父と母が話していたのかは、ビアトリスにはわからなかった。
ドレスから寝間着に着替えて、マチルダも下がって一人きりになってから、ビアトリスは小箱を手に取った。
乳白色の象牙の小箱は、日中よりも夜のほうが白く見える。淡く仄かに光を放つ小箱は、月灯りの下では尚更美しく見えた。
ビアトリスは今宵のことを思い浮かべた。
ハロルドが迎えにきて、母と一緒に馬車に乗った。久しぶりの劇場に足を踏み入れ、階下を見渡せるバルコニー席に座った。
それからのことを、今また目の前で舞台を観るように思い浮かべた。緞帳が降りて拍手が聞こえて、ハロルドがこちらを振り向いて、それから彼の背中を頼りに歩いた。
最後は、学園の門扉の奥で薄暗がりに小さくなるハロルドの姿を思い浮かべて、ビアトリスは瞳を閉じた。
それから、手の平に両手で包み込んでいた小箱の蓋を開けて、
「――――」
瞳を閉じたままビアトリスは囁いた。
「ビアトリス。今日は学園に行かずともよい。外出せずに部屋にいなさい」
朝餉の席で父にそう言われて、ビアトリスは静かに頷いた。父も母も、その後はいつもと変わらない様子で、直ぐに別の話に移った。
「ビアトリス」
「ルーファス」
食事を終えて食堂を出ると、ルーファスに呼ばれた。
「大体のことはわかってるよ」
「そう」
ルーファスは、彼の侍従から詳細を聞いたのだろう。もしかしたらビアトリスよりも詳しいことを把握しているかもしれない。
学園が休みだった昨日、ルーファスは婚約者と会っていた。彼の婚約も、家同士の繋がりに益をみた政略によるものである。
だがルーファスは、彼なりに婚約者を大切にしており、定例の茶会をすっぽかすなんてことはない。
エリックは、側近候補たちに無理強いをしているわけではない。貴族の婚約を軽んじることを望んでいない。だから、令嬢たちとの約束を反故にしてまで自分に侍らせているわけではない。
ルーファスもそうだが、エリックに侍る側近候補たちは飽くまでも候補でしかない。エリックには、正式な侍従もいれば補佐官もいる。側近候補たちは、エリックに自由を拘束されているわけではないのである。
結局のところウォレスもティムズも、アメリアの側にいたいがために、自分の意思で婚約者と疎遠になっていた。
宰相の令息であるブライアンは少しばかり役割が違うが、側近候補とは、学園にいる間エリックと行動をともにして、休みの日には侍従といった既にいる側近たちの見習いという、そういう立場でしかないのである。
「落ち着いてるね」
「ええ、まあ」
「僕も休んじゃおうかな」
「ええ?ズル休み?良いかも。そんな経験、なかなかできないわよ」
一人だけ学園を休むのは、なんとなく落ち着かない。この際、ルーファスも巻き添えにしたかった。
果たしてルーファスは、「偵察してくるよ」と言って、いつものように登校した。
あとに残されたビアトリスは、象牙の小箱を膝に置いて、一日が過ぎるのを静かに待った。
劇場の馬車寄せには既に生家の馬車が待っており、母は恐縮するハロルドを学園まで送ると言った。
「まあ、そうですの。やはり隣国は違いますわね」
馬車の中で、母は隣国の暮らしや文化についてをしきりにハロルドに尋ねた。世間話の割には細かなところを聞いたりで、ビアトリスは演劇に影響されて本気で母が亡命を考えているのかと心配になった。
母は、舞台の王子をバカ王子呼ばわりした。だが、現実の王子であるエリックは優秀と評判であるから、亡命の心配なんてない。
風土から始まり特産物や食材や、衣装の流行から信仰まで。母の質問は多岐に渡った。
ハロルドはそれらを面倒がることなく、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。時折は、冗談を交えて母を笑わせたりした。
隣国は海に面している。この国よりも南に位置して、気候は温暖である。叔母が婚約者から贈られた耳飾りの真珠も、隣国の特産品の一つである。
朗らかな叔母であったから、そんな隣国での暮らしはきっと性に合っているだろう。
母とハロルドの会話を聞きながら、ビアトリスは懐かしい叔母を思い浮かべた。
「お送り頂き申し訳ございません。ご婦人をお送りせねばならないのは私のほうですのに」
「お世話になったのは私たちのほうですわ。得難いひと時を頂戴できたのですもの。ハロルド様、ありがとうございました。また貴方のお国のお話を聞かせて頂けると嬉しいわ」
母は馬車を降りたハロルドに、そう言って微笑んだ。
「ハロルド様、ありがとうございました。とても楽しかったわ、観劇なんて久しぶりだったの」
「それは良かった。ビアトリス嬢、また学園で」
ハロルドは、いつもと変わらない笑みで別れの挨拶をした。街頭の灯りが背中にあって、彼の表情はよく見えなかった。声音だけが耳の奥に滲むように聞こえた。
エリックにもアメリアにも、ウォレスのことにも誰も触れることはなかった。ただ観劇を楽しんで心地よい会話を交わした、そんな夜で終わった。
馬車が離れてハロルドの姿が見えなくなって、二人になってからも、母は演劇の感想をつらつらと話すばかりだった。
だが、邸の門扉を通り抜けてエントランスが見えてくると、母は無言になってホールの明かりを見つめた。
ビアトリスが先に馬車から降りて、母がステップを降りるのを待っていると、足下から視線を上げた母はビアトリスを見た。
「貴女の苦悩を知らずにいて、ごめんなさいね」
母はそれだけ言うと、玄関ホールに入っていった。そのまま着替えもせずに、真っ直ぐ父の執務室へ向かった。それからいつまで父と母が話していたのかは、ビアトリスにはわからなかった。
ドレスから寝間着に着替えて、マチルダも下がって一人きりになってから、ビアトリスは小箱を手に取った。
乳白色の象牙の小箱は、日中よりも夜のほうが白く見える。淡く仄かに光を放つ小箱は、月灯りの下では尚更美しく見えた。
ビアトリスは今宵のことを思い浮かべた。
ハロルドが迎えにきて、母と一緒に馬車に乗った。久しぶりの劇場に足を踏み入れ、階下を見渡せるバルコニー席に座った。
それからのことを、今また目の前で舞台を観るように思い浮かべた。緞帳が降りて拍手が聞こえて、ハロルドがこちらを振り向いて、それから彼の背中を頼りに歩いた。
最後は、学園の門扉の奥で薄暗がりに小さくなるハロルドの姿を思い浮かべて、ビアトリスは瞳を閉じた。
それから、手の平に両手で包み込んでいた小箱の蓋を開けて、
「――――」
瞳を閉じたままビアトリスは囁いた。
「ビアトリス。今日は学園に行かずともよい。外出せずに部屋にいなさい」
朝餉の席で父にそう言われて、ビアトリスは静かに頷いた。父も母も、その後はいつもと変わらない様子で、直ぐに別の話に移った。
「ビアトリス」
「ルーファス」
食事を終えて食堂を出ると、ルーファスに呼ばれた。
「大体のことはわかってるよ」
「そう」
ルーファスは、彼の侍従から詳細を聞いたのだろう。もしかしたらビアトリスよりも詳しいことを把握しているかもしれない。
学園が休みだった昨日、ルーファスは婚約者と会っていた。彼の婚約も、家同士の繋がりに益をみた政略によるものである。
だがルーファスは、彼なりに婚約者を大切にしており、定例の茶会をすっぽかすなんてことはない。
エリックは、側近候補たちに無理強いをしているわけではない。貴族の婚約を軽んじることを望んでいない。だから、令嬢たちとの約束を反故にしてまで自分に侍らせているわけではない。
ルーファスもそうだが、エリックに侍る側近候補たちは飽くまでも候補でしかない。エリックには、正式な侍従もいれば補佐官もいる。側近候補たちは、エリックに自由を拘束されているわけではないのである。
結局のところウォレスもティムズも、アメリアの側にいたいがために、自分の意思で婚約者と疎遠になっていた。
宰相の令息であるブライアンは少しばかり役割が違うが、側近候補とは、学園にいる間エリックと行動をともにして、休みの日には侍従といった既にいる側近たちの見習いという、そういう立場でしかないのである。
「落ち着いてるね」
「ええ、まあ」
「僕も休んじゃおうかな」
「ええ?ズル休み?良いかも。そんな経験、なかなかできないわよ」
一人だけ学園を休むのは、なんとなく落ち着かない。この際、ルーファスも巻き添えにしたかった。
果たしてルーファスは、「偵察してくるよ」と言って、いつものように登校した。
あとに残されたビアトリスは、象牙の小箱を膝に置いて、一日が過ぎるのを静かに待った。
あなたにおすすめの小説
結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です
柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。
そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。
真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。
けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。
「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」
彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。
アンリは実は、亡き国王の婚外子。
皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?
碧井 汐桜香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。
まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。
様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。
第二王子?いりませんわ。
第一王子?もっといりませんわ。
第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は?
彼女の存在意義とは?
別サイト様にも掲載しております
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜
恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」
不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。
結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、
「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。
元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。
独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場!
無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。
記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける!
※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる
物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
愛する人の手を取るために
碧水 遥
恋愛
「何が茶会だ、ドレスだ、アクセサリーだ!!そんなちゃらちゃら遊んでいる女など、私に相応しくない!!」
わたくしは……あなたをお支えしてきたつもりでした。でも……必要なかったのですね……。