ビアトリスの象牙の小箱

桃井すもも

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第三十二章

 帰りの馬車は、母が手配していた。
 劇場の馬車寄せには既に生家の馬車が待っており、母は恐縮するハロルドを学園まで送ると言った。

「まあ、そうですの。やはり隣国は違いますわね」

 馬車の中で、母は隣国の暮らしや文化についてをしきりにハロルドに尋ねた。世間話の割には細かなところを聞いたりで、ビアトリスは演劇に影響されて本気で母が亡命を考えているのかと心配になった。

 母は、舞台の王子をバカ王子呼ばわりした。だが、現実の王子であるエリックは優秀と評判であるから、亡命の心配なんてない。

 風土から始まり特産物や食材や、衣装の流行から信仰まで。母の質問は多岐に渡った。
 ハロルドはそれらを面倒がることなく、ひとつひとつ丁寧に答えてくれた。時折は、冗談を交えて母を笑わせたりした。
 
 隣国は海に面している。この国よりも南に位置して、気候は温暖である。叔母が婚約者から贈られた耳飾りの真珠も、隣国の特産品の一つである。
 
 朗らかな叔母であったから、そんな隣国での暮らしはきっと性に合っているだろう。
 母とハロルドの会話を聞きながら、ビアトリスは懐かしい叔母を思い浮かべた。

「お送り頂き申し訳ございません。ご婦人をお送りせねばならないのは私のほうですのに」

「お世話になったのは私たちのほうですわ。得難いひと時を頂戴できたのですもの。ハロルド様、ありがとうございました。また貴方のお国のお話を聞かせて頂けると嬉しいわ」

 母は馬車を降りたハロルドに、そう言って微笑んだ。

「ハロルド様、ありがとうございました。とても楽しかったわ、観劇なんて久しぶりだったの」
「それは良かった。ビアトリス嬢、また学園で」

 ハロルドは、いつもと変わらない笑みで別れの挨拶をした。街頭の灯りが背中にあって、彼の表情はよく見えなかった。声音だけが耳の奥に滲むように聞こえた。

 エリックにもアメリアにも、ウォレスのことにも誰も触れることはなかった。ただ観劇を楽しんで心地よい会話を交わした、そんな夜で終わった。


 馬車が離れてハロルドの姿が見えなくなって、二人になってからも、母は演劇の感想をつらつらと話すばかりだった。

 だが、邸の門扉を通り抜けてエントランスが見えてくると、母は無言になってホールの明かりを見つめた。

 ビアトリスが先に馬車から降りて、母がステップを降りるのを待っていると、足下から視線を上げた母はビアトリスを見た。

「貴女の苦悩を知らずにいて、ごめんなさいね」

 母はそれだけ言うと、玄関ホールに入っていった。そのまま着替えもせずに、真っ直ぐ父の執務室へ向かった。それからいつまで父と母が話していたのかは、ビアトリスにはわからなかった。

 ドレスから寝間着に着替えて、マチルダも下がって一人きりになってから、ビアトリスは小箱を手に取った。

 乳白色の象牙の小箱は、日中よりも夜のほうが白く見える。淡く仄かに光を放つ小箱は、月灯りの下では尚更美しく見えた。

 ビアトリスは今宵のことを思い浮かべた。
 ハロルドが迎えにきて、母と一緒に馬車に乗った。久しぶりの劇場に足を踏み入れ、階下を見渡せるバルコニー席に座った。

 それからのことを、今また目の前で舞台を観るように思い浮かべた。緞帳どんちょうが降りて拍手が聞こえて、ハロルドがこちらを振り向いて、それから彼の背中を頼りに歩いた。

 最後は、学園の門扉の奥で薄暗がりに小さくなるハロルドの姿を思い浮かべて、ビアトリスは瞳を閉じた。

 それから、手の平に両手で包み込んでいた小箱の蓋を開けて、

「――――」

 瞳を閉じたままビアトリスは囁いた。




「ビアトリス。今日は学園に行かずともよい。外出せずに部屋にいなさい」

 朝餉の席で父にそう言われて、ビアトリスは静かに頷いた。父も母も、その後はいつもと変わらない様子で、直ぐに別の話に移った。

「ビアトリス」
「ルーファス」

 食事を終えて食堂を出ると、ルーファスに呼ばれた。

「大体のことはわかってるよ」
「そう」

 ルーファスは、彼の侍従から詳細を聞いたのだろう。もしかしたらビアトリスよりも詳しいことを把握しているかもしれない。

 学園が休みだった昨日、ルーファスは婚約者と会っていた。彼の婚約も、家同士の繋がりに益をみた政略によるものである。
 だがルーファスは、彼なりに婚約者を大切にしており、定例の茶会をすっぽかすなんてことはない。

 エリックは、側近候補たちに無理強いをしているわけではない。貴族の婚約を軽んじることを望んでいない。だから、令嬢たちとの約束を反故にしてまで自分に侍らせているわけではない。

 ルーファスもそうだが、エリックに侍る側近候補たちは飽くまでも候補でしかない。エリックには、正式な侍従もいれば補佐官もいる。側近候補たちは、エリックに自由を拘束されているわけではないのである。
 結局のところウォレスもティムズも、アメリアの側にいたいがために、自分の意思で婚約者と疎遠になっていた。

 宰相の令息であるブライアンは少しばかり役割が違うが、側近候補とは、学園にいる間エリックと行動をともにして、休みの日には侍従といった既にいる側近たちの見習いという、そういう立場でしかないのである。
 
「落ち着いてるね」
「ええ、まあ」
「僕も休んじゃおうかな」
「ええ?ズル休み?良いかも。そんな経験、なかなかできないわよ」

 一人だけ学園を休むのは、なんとなく落ち着かない。この際、ルーファスも巻き添えにしたかった。

 果たしてルーファスは、「偵察してくるよ」と言って、いつものように登校した。

 あとに残されたビアトリスは、象牙の小箱を膝に置いて、一日が過ぎるのを静かに待った。


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