ビアトリスの象牙の小箱

桃井すもも

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第三十三章

 廊下の先に彼女を見つけて、ビアトリスは早足になってその背中を追った。

「エレン様」

 赤みのある栗色の髪は、遠目でもわかりやすい。彼女はそんな自分の髪色を地味だと言って、いつだかそれで婚約者の心を掴めないのだと哀しい顔をしたことがある。ビアトリスは、手入れの行き届いた深みのある髪を綺麗だと思っている。

「ビアトリス様」

 ビアトリスに呼ばれて振り返ったエレンは、柔らかな笑みを見せた。

「ご婚約、おめでとうございます」

 ビアトリスがそう言うと、エレンは笑みを深めて、恥ずかしそうに目を伏せた。

 エレンは先日、婚約したばかりだった。前の婚約者であるティムズは騎士を目指していたが、新たな婚約者は王城勤めの文官だという。

「その、私からお祝いを言うのもなんですけれど⋯⋯」
「ビアトリス様からのお言葉は、なんだって嬉しいわ」

 ウォレスとの婚約は破談となった。
 学園を休むように言われたあの日、両親はブラウン伯爵夫妻にウォレスとの婚約の破棄を求めた。

 それはビアトリスにとって、とても意外なことだった。日和見な父であるから、穏便に解消を求めるのだと思っていた。

 観劇の演目に感化されたのか、その後アメリアに付き添うウォレスの姿を目にしたからか、母は仲の良かった友人夫妻に破棄だけは譲れないと言ったという。

 婚約は破棄となったが、両親は金銭的な補償は求めなかった。それで両家の関係が決裂ではない幕引きにしたようだった。

 ウォレスは一週間ほど学園に姿を現さなかった。二人の破談は直ぐに周囲に知れたが、元から良好とは言えない関係だったために驚きはなかったようだった。

 ウォレスはビアトリスとの婚約破棄のあと、エリックの側近候補を辞した。ティムズに続いてウォレスまで破談となっては、エリックに悪影響があってはならないと考えたブラウン伯爵の判断だろう。

 アメリアが一緒にいることが、既に十年前の騒動を彷彿とさせているのだが、エリックたちは今も変わらずにいる。
 だがその辺りのことは、もうビアトリスには無関係なことだった。

 ウォレスとの縁は切れた。
 彼とはひと言も言葉を交わさないうちに、大人たちが決めたことだった。幼い頃から知る彼と、ビアトリスはとうとう他人になった。

 思い返せば呆れることは多かったが、忌み嫌った青年ではなかった。だからだろうか、僅かな哀しみを感じたあとに、

「さっぱりしました」

 結局スッキリしたのである。

「ふふ、さっぱりなさったのね」
「ええ。スッキリさっぱりですわ」

 数日前からウォレスは学園に通い始めて、ビアトリスの周辺は、この頃になって漸く収まりをみせていた。

 流行中の演劇の影響もあり、今はアメリアに注目が集まっている。
 だが、彼女の魅力に惹かれて婚約者を蔑ろにしたのは令息側に非があることで、アメリア自身は本来無関係である。

 可憐なことは罪には問えない。
 だからだろうが、アメリアは今も堂々としたものである。

「ご婚約者様のこと、どんなお方か伺っても?」
「え?ええ、勿論ですわ」

 廊下を並んで歩きながら、ビアトリスはエレンの新たな婚約者について尋ねた。
 彼女と婚約者は、年齢が少しばかり離れている。勤めに忙殺されるうちに婚期を逃しかけていたのだと、彼は笑って言ったらしい。

「優しいお方ですわ」
「それはポイント大ですね」
「ふふ、本当に。この髪を綺麗だと言って下さったの」
「素敵。大人の男性はそこが違います。自分の好みを優先して、それに合致しない令嬢を下に見るのは、未熟な輩のすることですわ」

 ビアトリスは、何気にティムズとウォレスをこき下ろしてみた。

 ふと見たエレンの横顔は、穏やかななかに華やぎが感じられた。愛情をかけられる花が大輪に開くことを、目の前で見たような気がした。


「問題、解けた?」

 ぼおっと参考書を眺めていたビアトリスは、ハロルドの声に振り返った。

 ハロルドはあれからも、数学と相性の悪いビアトリスにお勧め参考書を貸してくれる。だが、本人にやる気がないのだから成果はかんばしくない。

「商売をなさるお家に縁付くなら頑張れるんでしょうけれど、ほら私、独り身確定ですし」
「ええ?ご両親がそうはさせないよ」

 ウォレスとの婚約がなくなったことで、ビアトリスは婚ぎ先を失った。卒業は目前で、このまま行けば独り身確定である。文官女官の採用試験ははなから無理だと諦めている。なにせ数学が弱いのである。

 ならば尚のこと今からでも学ぶべきなのに、ビアトリスは今、完全燃焼して燃えカスのように腑抜けになっていた。
 長年の悩み事ウォレスから解放されたことは、胸にぽっかり空間ができたような空虚な感覚を伴った。

「商売をする家なら頑張るんだ」
「ええ、そうですね。生業となれば死活問題ですもの、そりゃあ頑張ります」
「はは、そりゃあ頑張らないとね」

 若干ヤサグレ口調になったビアトリスを、ハロルドは可笑しそうに笑った。

 ビアトリスは思う。
 この笑みをいつまで見られるのだろう。いつまでもではないのはわかっている。彼は来春には隣国に帰る。こんな気安い会話も彼の笑みも、もうきっと二度と見ることはなくなるだろう。

「お父上には話してみた?」
「え?なにを?」
「叔母上に会いたいって言ってたろう?婚約が片づいたら」
「ああ、そうだわ」

 ウォレスとの婚約を解いたなら、父に頼みたいと思っていた。叔母に会いに隣国へ行きたいと。

「忘れてたの?」
「⋯⋯そういうわけでは」
「忘れてたんだ」
「⋯⋯」

 ハロルドはそこでビアトリスを覗き見た。

「酷いな」
「え?」
「僕は忘れてなかったよ」

 胸がバクバクする。
 ハロルドの深翠の瞳が細められて、ビアトリスは脈打つ胸を思わず両手で押さえた。

 海のある国に生まれたハロルドは、瞳に海を内包している。細められた瞳を見つめて、そんな突拍子もないことを考えた。


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