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第十九章
その日は朝から小雨が降っていた。
夏は過ぎて、秋の初めとなっていた。
季節なんて、はっきり今日から秋だとわかるものでもないだろうが、朝一番で窓から外を眺めたときに、ふと漂う空気の匂いが違うと思った。
そういえば、春の初めに風が温む瞬間がある。あれも季節の変わり目なのだろう。
今日は、レイモンドは義父とともに出掛けていた。義母は夕べから寒気がすると言って、今朝は朝餉の席でも食が進まないようだった。
華やぎのある義母の元気がなくなると、邸内にも淋しさが漂うように思えた。
薄暗い自室で、ロウェナは窓際に椅子を移して、仕掛りだった刺繍を手に取った。
ロウェナは雨の日に刺繍を刺すのが好きである。チャコールグレーの厚地の布に白い花を刺していた。
白い花といえば真っ先に白紫陽花が思い浮かぶ。穢れを知らない乳白色の花弁が無数に集まり、鞠のように咲く姿は、儚く可憐であるのにどこか素朴な逞しさがある。
折角好きな花なのに、学園での記憶から、あまり真近で観ることはなくなっていた。
先週から、秋明菊が咲き始めていた。
侯爵家の庭園には、八重と一重の二種類の秋明菊が植えられている。ピンク色の品種もあるけれど、ロウェナは純白の一重が好きだった。
それで濃い灰色の布にぴったりだと思い、刺繍の図案に秋明菊を選んだ。
刺し始めてどれくらい経ったろう。ロウェナは無心になって針を刺していた。青みを帯びた白い糸と生成り色を二本取りにして、深みのある白い花弁を刺繍していた。
「ロウェナ様」
そこでロウェナを呼んだのは、ルイーズではなくクロエだった。
ロウェナは顔を上げてクロエを見た。
「どうしたの?お義母様のお加減がよくないの?」
朝に会った義母の様子を思い出して、熱が出てしまったのかと思ったのだ。
「お客様です」
どうやら義母の不調ではなく、来客のようだった。今日の予定で先触れのある客はいなかった。
侍女頭のクロエが呼びにきたということは、それはきっと大切な客か面倒な客のどちらかだろう。
普段なら、面倒な客にも義母がいてくれるだけで心強く思えたが、今日は無理をさせたくなかった。クロエもきっと、同じことを思ってロウェナを呼びにきたのだろう。
だが、そんなロウェナの予想は外れてしまった。
「ロウェナ様にお会いしたいと仰っておられます」
クロエはそこで声を落とした。
「ですが、お断りなさっても失礼にはなりませんでしょう」
「どういうこと?先触れがなかったから?」
クロエはそこで、言い淀んだ。それは、いつもキビキビとした彼女らしくない姿だった。
それでようやくロウェナは思い当たった。
「今は誰が応対しているのかしら」
「エドガー様が」
エドガーと聞いて、執事が対応しているというよりも、彼が押し留めているのではないかと思った。
「お義母様には知らせなくても良いわ。お耳を汚すだけですもの」
「……はい」
ロウェナを見つめていたクロエは、そこで頷くと廊下に下がった。
ロウェナは刺繍道具はそのままにして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
来客の馬車の音は聞こえなかった。雨音で掻き消されたのかと窓辺に寄って階下を見下ろした。
ここからは玄関ポーチがよく見える。いつもは帰宅するレイモンドを待って、ここから馬車が着くのを見ていた。
見下ろした先に、馬車はなかった。まさか彼女は乗り合い馬車でここまで来たのか?
貴族の夫人がそんなことをするのは、家人に黙って家を出るときくらいだろう。
ロウェナはエメラルド色の瞳を思い出していた。小雨とはいえ雨の日に、彼女は一人でここまで来たのだろうか。
舞踏会の夜に会ったエイブリンの顔を思い浮かべた。
廊下に出ると、クロエとルイーズが待っていた。
「お一人なの?」
「はい」
「侍女は?」
「一人きりでいらっしゃいました」
クロエは、エイブリンが使用人も付けずに一人でやってきたと言った。
「ゴドリック子爵様は、」
大変ね、そう言いかけてやめにした。
学生時代から続く恋人の家に、夫人となってからも単身で乗り込むような妻を得て、苦労していないなんて、そんなことはないだろう。
ゴドリック子爵家には幼い息子がいるはずで、彼女は生さぬ仲とはいえ母親である。
子爵家は大丈夫なのかと思ったところで、一番渦中にいるのは自分だと思った。
「はあ」
使用人の前だというのに、大きな溜め息が出てしまった。
「お帰りいただきますか?」
クロエはそんなロウェナを気遣っている。会わずに帰したとしても、それでエイブリンは文句を言えない。そもそも約束なんてしていない。
「レイモンド様に会いに来たのではないのでしょう?」
クロエはその問いかけには、頷いて答えた。
ウルスラ様。貴女のお力をお貸しください。私が負けそうになったなら、貴女が私を叱ってください。気弱なことでどうすると、叱咤してくださいませ。
心の中で、ウルスラに呼びかけた。ウルスラとは会ったこともなかったし、彼女は今もオーランドの元にいるだろう。
けれども呼びかけるだけで、少しは彼女の根性を分けてもらえるような気がした。
「さあ、行きましょうか」
そう言ってから、ロウェナは廊下を歩き出した。単身で訪れたエイブリンが、なにを言うのか考えたが、思い浮かんだことはどれも気持ちのよいものではなかった。
そもそも彼女と対面して、心地好かったことなど一度もない。
ロウェナは人の好き嫌いは、それほど多いほうではない。だが、エイブリンだけは駄目だった。
どうしてレイモンドが彼女に惹かれるのか、もうそれは本人の好みとしか言いようがない。
結婚して半年足らずで、夫の愛人と対峙することになるなんて。そんなのウルスラの助けを借りなければ、対処なんて無理だろう。
一歩一歩、エイブリンの待っている玄関ホールに向かった。クロエの言葉では、どうやらエドガーはエイブリンを客人とは見なさずに、応接室には通さなかったらしい。
玄関ホールのソファに座らせて、待たせているのだという。その意味を、エイブリンは理解しているのだろうか。
エイブリンの頭の中もレイモンドの心中も、ロウェナにはさっぱり理解ができなかった。
夏は過ぎて、秋の初めとなっていた。
季節なんて、はっきり今日から秋だとわかるものでもないだろうが、朝一番で窓から外を眺めたときに、ふと漂う空気の匂いが違うと思った。
そういえば、春の初めに風が温む瞬間がある。あれも季節の変わり目なのだろう。
今日は、レイモンドは義父とともに出掛けていた。義母は夕べから寒気がすると言って、今朝は朝餉の席でも食が進まないようだった。
華やぎのある義母の元気がなくなると、邸内にも淋しさが漂うように思えた。
薄暗い自室で、ロウェナは窓際に椅子を移して、仕掛りだった刺繍を手に取った。
ロウェナは雨の日に刺繍を刺すのが好きである。チャコールグレーの厚地の布に白い花を刺していた。
白い花といえば真っ先に白紫陽花が思い浮かぶ。穢れを知らない乳白色の花弁が無数に集まり、鞠のように咲く姿は、儚く可憐であるのにどこか素朴な逞しさがある。
折角好きな花なのに、学園での記憶から、あまり真近で観ることはなくなっていた。
先週から、秋明菊が咲き始めていた。
侯爵家の庭園には、八重と一重の二種類の秋明菊が植えられている。ピンク色の品種もあるけれど、ロウェナは純白の一重が好きだった。
それで濃い灰色の布にぴったりだと思い、刺繍の図案に秋明菊を選んだ。
刺し始めてどれくらい経ったろう。ロウェナは無心になって針を刺していた。青みを帯びた白い糸と生成り色を二本取りにして、深みのある白い花弁を刺繍していた。
「ロウェナ様」
そこでロウェナを呼んだのは、ルイーズではなくクロエだった。
ロウェナは顔を上げてクロエを見た。
「どうしたの?お義母様のお加減がよくないの?」
朝に会った義母の様子を思い出して、熱が出てしまったのかと思ったのだ。
「お客様です」
どうやら義母の不調ではなく、来客のようだった。今日の予定で先触れのある客はいなかった。
侍女頭のクロエが呼びにきたということは、それはきっと大切な客か面倒な客のどちらかだろう。
普段なら、面倒な客にも義母がいてくれるだけで心強く思えたが、今日は無理をさせたくなかった。クロエもきっと、同じことを思ってロウェナを呼びにきたのだろう。
だが、そんなロウェナの予想は外れてしまった。
「ロウェナ様にお会いしたいと仰っておられます」
クロエはそこで声を落とした。
「ですが、お断りなさっても失礼にはなりませんでしょう」
「どういうこと?先触れがなかったから?」
クロエはそこで、言い淀んだ。それは、いつもキビキビとした彼女らしくない姿だった。
それでようやくロウェナは思い当たった。
「今は誰が応対しているのかしら」
「エドガー様が」
エドガーと聞いて、執事が対応しているというよりも、彼が押し留めているのではないかと思った。
「お義母様には知らせなくても良いわ。お耳を汚すだけですもの」
「……はい」
ロウェナを見つめていたクロエは、そこで頷くと廊下に下がった。
ロウェナは刺繍道具はそのままにして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
来客の馬車の音は聞こえなかった。雨音で掻き消されたのかと窓辺に寄って階下を見下ろした。
ここからは玄関ポーチがよく見える。いつもは帰宅するレイモンドを待って、ここから馬車が着くのを見ていた。
見下ろした先に、馬車はなかった。まさか彼女は乗り合い馬車でここまで来たのか?
貴族の夫人がそんなことをするのは、家人に黙って家を出るときくらいだろう。
ロウェナはエメラルド色の瞳を思い出していた。小雨とはいえ雨の日に、彼女は一人でここまで来たのだろうか。
舞踏会の夜に会ったエイブリンの顔を思い浮かべた。
廊下に出ると、クロエとルイーズが待っていた。
「お一人なの?」
「はい」
「侍女は?」
「一人きりでいらっしゃいました」
クロエは、エイブリンが使用人も付けずに一人でやってきたと言った。
「ゴドリック子爵様は、」
大変ね、そう言いかけてやめにした。
学生時代から続く恋人の家に、夫人となってからも単身で乗り込むような妻を得て、苦労していないなんて、そんなことはないだろう。
ゴドリック子爵家には幼い息子がいるはずで、彼女は生さぬ仲とはいえ母親である。
子爵家は大丈夫なのかと思ったところで、一番渦中にいるのは自分だと思った。
「はあ」
使用人の前だというのに、大きな溜め息が出てしまった。
「お帰りいただきますか?」
クロエはそんなロウェナを気遣っている。会わずに帰したとしても、それでエイブリンは文句を言えない。そもそも約束なんてしていない。
「レイモンド様に会いに来たのではないのでしょう?」
クロエはその問いかけには、頷いて答えた。
ウルスラ様。貴女のお力をお貸しください。私が負けそうになったなら、貴女が私を叱ってください。気弱なことでどうすると、叱咤してくださいませ。
心の中で、ウルスラに呼びかけた。ウルスラとは会ったこともなかったし、彼女は今もオーランドの元にいるだろう。
けれども呼びかけるだけで、少しは彼女の根性を分けてもらえるような気がした。
「さあ、行きましょうか」
そう言ってから、ロウェナは廊下を歩き出した。単身で訪れたエイブリンが、なにを言うのか考えたが、思い浮かんだことはどれも気持ちのよいものではなかった。
そもそも彼女と対面して、心地好かったことなど一度もない。
ロウェナは人の好き嫌いは、それほど多いほうではない。だが、エイブリンだけは駄目だった。
どうしてレイモンドが彼女に惹かれるのか、もうそれは本人の好みとしか言いようがない。
結婚して半年足らずで、夫の愛人と対峙することになるなんて。そんなのウルスラの助けを借りなければ、対処なんて無理だろう。
一歩一歩、エイブリンの待っている玄関ホールに向かった。クロエの言葉では、どうやらエドガーはエイブリンを客人とは見なさずに、応接室には通さなかったらしい。
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エイブリンの頭の中もレイモンドの心中も、ロウェナにはさっぱり理解ができなかった。
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