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第三十三章
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テレンスは、柔らかな笑みを浮かべたまま頷いた。
「貴女も、そうお思いに?」
「貴女もって……。テレンス様にはなにかご不安があるの?」
他家のことであるし、なによりつい最近破談となったばかりの元婚約の家である。だがそんなことを忘れて、レパトロワは思わず尋ねてしまった。
そういえば、レジナルドと婚約していた一年の間、所謂、夫人教育というものを受けてこなかった。
まだ学園に入学したばかりであるからと、学業に専念してよいと言われていたのである。
ルフィールド伯爵家は堅実な領地経営で知られており、悪い噂を聞いたことはない。なによりそんなことは、とっくに父と兄が調べているはずだし、もしかしたら、父はレパトロワに伏せていた事柄があったのかもしれない。
それ以前に、なんとなくレジナルドとの関係が深まらず、そのうち彼の心は春のそよ風に乗ってプリムローズのもとへ飛んでいってしまった。
「ごめんなさい。こんなことを言っては失礼かと重々承知の上で伺いますね。もしかして、伯爵様は直接ご自身では領地経営には携わっておられませんの?」
婚約破棄の話し合いのときにも、ルフィールド伯爵は自領の経営についても「明朗会計」だとかなんとか言っていた。
「もう兄からお聞きだと思うのですが」
どうしてだろう、レパトロワにはテレンスがとても心細げに見えてしまった。彼の手を取って、なにも心配いらないのよ、と根拠のない励ましをうっかり言いそうになる。
「父は芸術家を多く支援しております。母はお抱えの歌劇団を。兄は聖女を保護したかったらしいですが」
「聖女がプリムローズのことなら、婚約できたので目標は達成なさったのね」
「どうなんでしょうね」
なんとなくわかってきた。
要は、ルフィールド伯爵夫妻は領地経営は代官か誰かに任せて、自分たちは文化振興に注力しているということなのだろう。
だが、それは決して誤った判断ではない。
正常な運営がなされているなら、下手に領主が手をつけるよりよほど具合の良いこともある。
優秀な代官や会計士がいて、領民に悪政を強いることなく、正しく納税されているのなら問題ない。
「貴方はそれで、文官を目指していらっしゃるの?その、ゆくゆくはご生家を出ようと?」
「兄の後始末に追われる人生はつまらないだろうなと思いまして」
スペアの立場とは、安定しているようで理不尽なこともあるだろう。ここはスパッと見切りをつけて、手に職をつけるのは賢い選択である。
「わ、私も見習わなくちゃ」
「どうしてレパトロワ嬢が?」
「えーと、こう言ってはなんですけれど、私、婚約が破談になったでしょう?婚約バツイチなんですの」
「ああ、それはなんと申し上げてよいのか⋯⋯」
ああ、しまった、つい自分の立場を口にしたために、このナイーブな青年の心に重石を乗せてしまったではないか。
「ああ、ごめんなさい。そんな意味ではないの。どのみち、これからのことは考えなければいけなかったの」
テレンスはすっかり眉を下げてしまって、それが哀しい鳴き声を漏らす仔犬かなんかに見えてきて、レパトロワの胸がきゅうっと痛んだ。
「その、私もようやく今になって考えてみたんです。無理に縁談に縋らずとも、職業婦人として生きる方法もあるのではないかと」
「レパトロワ様、それはまだお考えが早いのではないですか?カニング伯爵様はきっと良縁をお考えだと思いますよ」
テレンスは本当に年下男子なのだろうか。至極真っ当なことを言われて、先日まで市井で働いてみようか、兄に縁故を頼もうかなどと考えていた自分が浅はかに思えてきた。
「ですが、学ぶに越したことはないですね。レパトロワ嬢は、どんな職業をお考えだったのですか?」
まさか縁故採用とは言えないから、レパトロワは苦し紛れに答えてみた。
「ぶ、文官、でしょうか」
「レパトロワ嬢も?」
テレンスは、同じ目標を抱く同志と思ったのか、ぱあっと表情を明るくした。その晴れやかな顔が眩しくて胸が痛む。
やっぱり縁故は駄目である。正攻法で職探しをせねばなるまい。レパトロワは、来年の目標を「職探し」に決めた。
「はは、レパトロワ嬢のご冗談を聞いて、なんだか心が軽くなりました」
冗談なんかではありません、と言いかけてなぜか言えなかった。
多分、レパトロワとテレンスでは、覚悟が違うのだろう。最初から兄頼みを思いつくようでは駄目なのだ。
「来年は、いよいよ学園にも入学しますし、もしよろしければレパトロワ嬢」
テレンスは居ずまいを正してこちらを見た。
「一緒に勉強なんて如何でしょう」
「勉強?」
「ええ。学年は違いますが、情報交換ですとか試験傾向ですとか、あとはお互い頑張ろうと声掛けしたりですかね」
声掛けなんて発想が、レパトロワには新鮮だった。
「でしたら私も、兄から試験傾向と対策を聞き出してみますわ。ほら、我が家ってそういう家ですもの」
ですもの、と偉そうに言っているが、つい数分前までは縁故ありきの思考でいた。
だが、レパトロワはすっかりテレンスの実直さに触発されていた。なんだか未来はそれほど暗くはないのではと、理由なき希望が見えたようだった。
もう独身職業婦人の未来しか頭になかった。
どんな職種がよいだろうかと考えて、テレンスと足並みを揃えて文官を目指そうかと考えた。
「ですが、レパトロワ嬢」
すっかり心は定まったのに、「ですが」と言って、テレンスはレパトロワの浮かれポンチな思考に待ったを掛けた。
「貴女も、そうお思いに?」
「貴女もって……。テレンス様にはなにかご不安があるの?」
他家のことであるし、なによりつい最近破談となったばかりの元婚約の家である。だがそんなことを忘れて、レパトロワは思わず尋ねてしまった。
そういえば、レジナルドと婚約していた一年の間、所謂、夫人教育というものを受けてこなかった。
まだ学園に入学したばかりであるからと、学業に専念してよいと言われていたのである。
ルフィールド伯爵家は堅実な領地経営で知られており、悪い噂を聞いたことはない。なによりそんなことは、とっくに父と兄が調べているはずだし、もしかしたら、父はレパトロワに伏せていた事柄があったのかもしれない。
それ以前に、なんとなくレジナルドとの関係が深まらず、そのうち彼の心は春のそよ風に乗ってプリムローズのもとへ飛んでいってしまった。
「ごめんなさい。こんなことを言っては失礼かと重々承知の上で伺いますね。もしかして、伯爵様は直接ご自身では領地経営には携わっておられませんの?」
婚約破棄の話し合いのときにも、ルフィールド伯爵は自領の経営についても「明朗会計」だとかなんとか言っていた。
「もう兄からお聞きだと思うのですが」
どうしてだろう、レパトロワにはテレンスがとても心細げに見えてしまった。彼の手を取って、なにも心配いらないのよ、と根拠のない励ましをうっかり言いそうになる。
「父は芸術家を多く支援しております。母はお抱えの歌劇団を。兄は聖女を保護したかったらしいですが」
「聖女がプリムローズのことなら、婚約できたので目標は達成なさったのね」
「どうなんでしょうね」
なんとなくわかってきた。
要は、ルフィールド伯爵夫妻は領地経営は代官か誰かに任せて、自分たちは文化振興に注力しているということなのだろう。
だが、それは決して誤った判断ではない。
正常な運営がなされているなら、下手に領主が手をつけるよりよほど具合の良いこともある。
優秀な代官や会計士がいて、領民に悪政を強いることなく、正しく納税されているのなら問題ない。
「貴方はそれで、文官を目指していらっしゃるの?その、ゆくゆくはご生家を出ようと?」
「兄の後始末に追われる人生はつまらないだろうなと思いまして」
スペアの立場とは、安定しているようで理不尽なこともあるだろう。ここはスパッと見切りをつけて、手に職をつけるのは賢い選択である。
「わ、私も見習わなくちゃ」
「どうしてレパトロワ嬢が?」
「えーと、こう言ってはなんですけれど、私、婚約が破談になったでしょう?婚約バツイチなんですの」
「ああ、それはなんと申し上げてよいのか⋯⋯」
ああ、しまった、つい自分の立場を口にしたために、このナイーブな青年の心に重石を乗せてしまったではないか。
「ああ、ごめんなさい。そんな意味ではないの。どのみち、これからのことは考えなければいけなかったの」
テレンスはすっかり眉を下げてしまって、それが哀しい鳴き声を漏らす仔犬かなんかに見えてきて、レパトロワの胸がきゅうっと痛んだ。
「その、私もようやく今になって考えてみたんです。無理に縁談に縋らずとも、職業婦人として生きる方法もあるのではないかと」
「レパトロワ様、それはまだお考えが早いのではないですか?カニング伯爵様はきっと良縁をお考えだと思いますよ」
テレンスは本当に年下男子なのだろうか。至極真っ当なことを言われて、先日まで市井で働いてみようか、兄に縁故を頼もうかなどと考えていた自分が浅はかに思えてきた。
「ですが、学ぶに越したことはないですね。レパトロワ嬢は、どんな職業をお考えだったのですか?」
まさか縁故採用とは言えないから、レパトロワは苦し紛れに答えてみた。
「ぶ、文官、でしょうか」
「レパトロワ嬢も?」
テレンスは、同じ目標を抱く同志と思ったのか、ぱあっと表情を明るくした。その晴れやかな顔が眩しくて胸が痛む。
やっぱり縁故は駄目である。正攻法で職探しをせねばなるまい。レパトロワは、来年の目標を「職探し」に決めた。
「はは、レパトロワ嬢のご冗談を聞いて、なんだか心が軽くなりました」
冗談なんかではありません、と言いかけてなぜか言えなかった。
多分、レパトロワとテレンスでは、覚悟が違うのだろう。最初から兄頼みを思いつくようでは駄目なのだ。
「来年は、いよいよ学園にも入学しますし、もしよろしければレパトロワ嬢」
テレンスは居ずまいを正してこちらを見た。
「一緒に勉強なんて如何でしょう」
「勉強?」
「ええ。学年は違いますが、情報交換ですとか試験傾向ですとか、あとはお互い頑張ろうと声掛けしたりですかね」
声掛けなんて発想が、レパトロワには新鮮だった。
「でしたら私も、兄から試験傾向と対策を聞き出してみますわ。ほら、我が家ってそういう家ですもの」
ですもの、と偉そうに言っているが、つい数分前までは縁故ありきの思考でいた。
だが、レパトロワはすっかりテレンスの実直さに触発されていた。なんだか未来はそれほど暗くはないのではと、理由なき希望が見えたようだった。
もう独身職業婦人の未来しか頭になかった。
どんな職種がよいだろうかと考えて、テレンスと足並みを揃えて文官を目指そうかと考えた。
「ですが、レパトロワ嬢」
すっかり心は定まったのに、「ですが」と言って、テレンスはレパトロワの浮かれポンチな思考に待ったを掛けた。
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