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第十二章
マリーローズはエドワードに恋してる。
彼の気質も姿形も好ましい。
だから彼が怒りを堪える表情は、胸が苦しくなるものだった。
エドワードにそんな顔をさせてしまった。
マリーローズを見つめる表情は、こちらのほうが息が詰まるような苦しげなものだった。
彼には笑っていてほしい。せめてマリーローズと向かい合うその一瞬は、彼にとっても楽しい時間であってほしい。
春の宵は空気が柔らかで心地よい眠りが得られる。それなのに、瞼の奥にパティシアとエドワードが代わるがわる現れて、なかなか寝つくことができなかった。
パティシアとのトラブルについては、両親からは他言する必要はないと言われていた。マリーローズにしても、自分から表立って口にするつもりはなかった。
両親は、負傷をさせた令嬢とその生家がどうするかを確かめてから、貴族らしい対応をするだろう。ここまできては、もうマリーローズがどうこうできることはなかった。
学園を休む際には、季節の変わり目に風邪を引いてしまったということにしていたから、春休みに入るとすぐに、友人たちからお見舞いやお茶の誘いの手紙が届いた。
それらへは、丁寧なお断りの文を書いた。
火傷はすでに赤みも引けて、ペンを持つことも無理なくできた。外出にも差し障りはなかったのだが、カップに注がれる液体が怖かった。
熱い珈琲の感覚が記憶の奥にこびりついて、なみなみに注がれるお茶を見ると、痛みが思い出されてしまう。トラウマというほどのものではなかったか、今はまだお茶会は無理なようだった。
二日ほどは邸内でおとなしくしていたが、身体の調子は頗るよくて、むしろ体力を持て余していた。
ならば本でも読もうかと思ったが、自邸の図書室に曽祖母が遺した書物は、すでに大半を読破している。
残るは、殿方×殿方か、騎士×騎士の物語である。
いよいよアレらを読むときが来たか。
新たな分野へ舵を切るときが来たのだろうか。
だが、ずぶずぶの底なし沼にハマりまくることは目に見えていた。
匂いがするのである。好みが合致する匂いがプンプンする。
曾祖母とは好みが似ているから、残しておいた書物についても間違いなく好きなジャンルだと思った。
どうせ暇だし禁断のジャンルへ旅立とうかと思ったところで、図書室に置きっぱなしにしていた創作ノートを思い出した。
この数日はすっかり創作なんて忘れていた。時間だけはあり余っているのだから、今こそ書きどきではなかろうか。
学園には寮生がおり、図書室といった学園の施設は休みの間も開放されている。それは休暇中に領地へ帰らない生徒が一定数いるためだった。
そうであるなら、これから図書室に行って創作ノートを回収してこようか。
ノートなら買い足したばかりで売るほどあるから、わざわざそのために学園まで行く必要はなかった。
だが、書き始めたばかりの物語を別々のノートに分けることは、几帳面なマリーローズにはどうにも気持ちがよくなかった。
「取りに行こうかしら」
学園まではそれほど距離はないのだし、図書室からノートを取ってきたらすぐに帰ろう。
一度そう思ったら、もうそのために身体が動いていたのである。
学園の廊下はひっそりとしていた。
寮生らは残っていても、それで皆が皆、わざわざ校舎を歩いたりしない。
ひと気のない廊下はまるで、知らない世界のようだった。そんな不思議な感覚に、マリーローズは自分こそ物語の世界に入り込んだような気持ちになった。
図書室に足を踏み入れると、自習なのか読書なのか、まばらになって寮生と思われる生徒たちが座っていた。
入り口で司書に会釈をすれば、声をかけられることもない。
窓際奥の通路に面した書架へ行き、最下段の端を覗けば薄い背表紙が見えた。
「あった」
そこにあってもらわねば困るのだが、数日ぶりにノートを見て、忘れていた創作熱が湧いてくる。
それからマリーローズは、書架からノートを抜き取り、そそくさと図書室を出た。そのまま誰に会うこともなく帰路に就いた。
「なんだか秘密のミッションを一つクリアした気分だわ」
半刻もかからず私室に戻ると、マリーローズは早速ノートを開いた。
どこまで書いたか読み返すと、改めて現実との不可思議な一致に驚いてしまった。
だが当然ながら、妄想と現実は異なっている。結果的には、現実での出来事のほうがエキサイティングなものだった。
自分があれほど明確な悪意を向けられて、それで負傷するとは思っていなかったし、エドワードの憤怒の形相を目にすることもそうだった。
物語のお終わりは幸福なものであってほしい。
それはマリーローズの唯一の拘りだったから、ハッピーなエンディングに繋がる続きのストーリーを考えながらペンを取った。
――「その……。この上がカフェになってるのを知ってる?」
「え、ええ。ここでお買い物をしたときには、時折立ち寄っておりますの」
「このあと、どう?」
僕と一緒にお茶とか。とエドワードは言った。
それから二人でノートの会計を済ませて、奥にある階段を登る。
「急だから気をつけて」
後ろからそう声をかけられて、一歩一歩、階段を登りながら、マリーローズは心ここにあらずとなっていた。
カフェは混み合っていたが、運よく窓際に二人席が空いていた。
「行き成り誘ってしまって申し訳ない。迷惑だった?」
「いいえ、そんなことごさいませんわ」――
書き進めた場面は、数日前に体験したことそのままだった。これでは創作ではなく備忘録のようではないか?
そう思えて、マリーローズはストーリーを現実とは逆にしようと考えた。
――「ここは珈琲が美味しいのですが、エドワード様も如何でしょう」
マリーローズがそう言うと、エドワードは「そうなの?」と尋ねてきた。
「実は恥ずかしいのだが、僕は珈琲の苦味が不得手なんだ。けれど、」
けれど、君が美味しいというのなら、きっと本当に美味なんだろうね。
エドワードの言葉が嬉しくて、マリーローズは給仕に珈琲とタルトを頼んだ。タルトは春らしいルバーブとアーモンドクリームを選んだ。
「もしよろしければ、こちらを乗せてみてください。ほんのり甘くてまろやかになりましてよ?」
そう言って、別に頼んでいたクリームを勧めてみた。ホイップされたクリームをスプーンで掬うと、先に自分のカップの珈琲に浮かべて見せた。
熱い珈琲の上で冷たいホイップクリームが溶けていく。
「君の言う通りだね。なんだかとても美味しそうだ」――
物語の中のエドワードは、まるで現実の彼そのものだった。
エドワードはホイップを浮かべた珈琲をひと口すすると、「本当だ、美味いね」と言って眩しい笑みを見せてくれた。
楽しげに細められた青い瞳には、マリーローズが映っていた。
彼の気質も姿形も好ましい。
だから彼が怒りを堪える表情は、胸が苦しくなるものだった。
エドワードにそんな顔をさせてしまった。
マリーローズを見つめる表情は、こちらのほうが息が詰まるような苦しげなものだった。
彼には笑っていてほしい。せめてマリーローズと向かい合うその一瞬は、彼にとっても楽しい時間であってほしい。
春の宵は空気が柔らかで心地よい眠りが得られる。それなのに、瞼の奥にパティシアとエドワードが代わるがわる現れて、なかなか寝つくことができなかった。
パティシアとのトラブルについては、両親からは他言する必要はないと言われていた。マリーローズにしても、自分から表立って口にするつもりはなかった。
両親は、負傷をさせた令嬢とその生家がどうするかを確かめてから、貴族らしい対応をするだろう。ここまできては、もうマリーローズがどうこうできることはなかった。
学園を休む際には、季節の変わり目に風邪を引いてしまったということにしていたから、春休みに入るとすぐに、友人たちからお見舞いやお茶の誘いの手紙が届いた。
それらへは、丁寧なお断りの文を書いた。
火傷はすでに赤みも引けて、ペンを持つことも無理なくできた。外出にも差し障りはなかったのだが、カップに注がれる液体が怖かった。
熱い珈琲の感覚が記憶の奥にこびりついて、なみなみに注がれるお茶を見ると、痛みが思い出されてしまう。トラウマというほどのものではなかったか、今はまだお茶会は無理なようだった。
二日ほどは邸内でおとなしくしていたが、身体の調子は頗るよくて、むしろ体力を持て余していた。
ならば本でも読もうかと思ったが、自邸の図書室に曽祖母が遺した書物は、すでに大半を読破している。
残るは、殿方×殿方か、騎士×騎士の物語である。
いよいよアレらを読むときが来たか。
新たな分野へ舵を切るときが来たのだろうか。
だが、ずぶずぶの底なし沼にハマりまくることは目に見えていた。
匂いがするのである。好みが合致する匂いがプンプンする。
曾祖母とは好みが似ているから、残しておいた書物についても間違いなく好きなジャンルだと思った。
どうせ暇だし禁断のジャンルへ旅立とうかと思ったところで、図書室に置きっぱなしにしていた創作ノートを思い出した。
この数日はすっかり創作なんて忘れていた。時間だけはあり余っているのだから、今こそ書きどきではなかろうか。
学園には寮生がおり、図書室といった学園の施設は休みの間も開放されている。それは休暇中に領地へ帰らない生徒が一定数いるためだった。
そうであるなら、これから図書室に行って創作ノートを回収してこようか。
ノートなら買い足したばかりで売るほどあるから、わざわざそのために学園まで行く必要はなかった。
だが、書き始めたばかりの物語を別々のノートに分けることは、几帳面なマリーローズにはどうにも気持ちがよくなかった。
「取りに行こうかしら」
学園まではそれほど距離はないのだし、図書室からノートを取ってきたらすぐに帰ろう。
一度そう思ったら、もうそのために身体が動いていたのである。
学園の廊下はひっそりとしていた。
寮生らは残っていても、それで皆が皆、わざわざ校舎を歩いたりしない。
ひと気のない廊下はまるで、知らない世界のようだった。そんな不思議な感覚に、マリーローズは自分こそ物語の世界に入り込んだような気持ちになった。
図書室に足を踏み入れると、自習なのか読書なのか、まばらになって寮生と思われる生徒たちが座っていた。
入り口で司書に会釈をすれば、声をかけられることもない。
窓際奥の通路に面した書架へ行き、最下段の端を覗けば薄い背表紙が見えた。
「あった」
そこにあってもらわねば困るのだが、数日ぶりにノートを見て、忘れていた創作熱が湧いてくる。
それからマリーローズは、書架からノートを抜き取り、そそくさと図書室を出た。そのまま誰に会うこともなく帰路に就いた。
「なんだか秘密のミッションを一つクリアした気分だわ」
半刻もかからず私室に戻ると、マリーローズは早速ノートを開いた。
どこまで書いたか読み返すと、改めて現実との不可思議な一致に驚いてしまった。
だが当然ながら、妄想と現実は異なっている。結果的には、現実での出来事のほうがエキサイティングなものだった。
自分があれほど明確な悪意を向けられて、それで負傷するとは思っていなかったし、エドワードの憤怒の形相を目にすることもそうだった。
物語のお終わりは幸福なものであってほしい。
それはマリーローズの唯一の拘りだったから、ハッピーなエンディングに繋がる続きのストーリーを考えながらペンを取った。
――「その……。この上がカフェになってるのを知ってる?」
「え、ええ。ここでお買い物をしたときには、時折立ち寄っておりますの」
「このあと、どう?」
僕と一緒にお茶とか。とエドワードは言った。
それから二人でノートの会計を済ませて、奥にある階段を登る。
「急だから気をつけて」
後ろからそう声をかけられて、一歩一歩、階段を登りながら、マリーローズは心ここにあらずとなっていた。
カフェは混み合っていたが、運よく窓際に二人席が空いていた。
「行き成り誘ってしまって申し訳ない。迷惑だった?」
「いいえ、そんなことごさいませんわ」――
書き進めた場面は、数日前に体験したことそのままだった。これでは創作ではなく備忘録のようではないか?
そう思えて、マリーローズはストーリーを現実とは逆にしようと考えた。
――「ここは珈琲が美味しいのですが、エドワード様も如何でしょう」
マリーローズがそう言うと、エドワードは「そうなの?」と尋ねてきた。
「実は恥ずかしいのだが、僕は珈琲の苦味が不得手なんだ。けれど、」
けれど、君が美味しいというのなら、きっと本当に美味なんだろうね。
エドワードの言葉が嬉しくて、マリーローズは給仕に珈琲とタルトを頼んだ。タルトは春らしいルバーブとアーモンドクリームを選んだ。
「もしよろしければ、こちらを乗せてみてください。ほんのり甘くてまろやかになりましてよ?」
そう言って、別に頼んでいたクリームを勧めてみた。ホイップされたクリームをスプーンで掬うと、先に自分のカップの珈琲に浮かべて見せた。
熱い珈琲の上で冷たいホイップクリームが溶けていく。
「君の言う通りだね。なんだかとても美味しそうだ」――
物語の中のエドワードは、まるで現実の彼そのものだった。
エドワードはホイップを浮かべた珈琲をひと口すすると、「本当だ、美味いね」と言って眩しい笑みを見せてくれた。
楽しげに細められた青い瞳には、マリーローズが映っていた。
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