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第三十三章
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舞踏会の後、程なくして、ヒルデガルドがラドモンド伯爵家次期当主として正式に届け出がなされた。
ローレンは嫡男であるが、未成年のうちはと後継者として国への届けはまだなされていなかった。
一族傘下貴族へは、次期当主と周知されてはいたが、幼い頃から病弱なローレンが後継であることを危惧する声がなかったわけではない。
だからこそ、健康なヒルデガルドが後継に差し替えられたことは、概ね好事として受けとめられた。
同時に、傘下貴族で親戚筋にあたる子爵家のアトレイと婚約したことも、定まりきらない伯爵家の基盤が、ようやく固まったと安堵されたようだった。
ヒルデガルドの世界は一転した。
令嬢として他家に娶られる立場から、一族を担う立場に変わり、足を踏み入れる社交場もまた、嘗てのものとは変わっていた。
前世のヒルデガルドのフィールドは、侯爵家の世界だった。傘下貴族は末端まで含めれば伯爵家のそれとは比べられるものではない。
ヒルデガルドは主に、それらの家々の夫人らの上に立つ立場にあった。
だが、それがどれほど高みにあっても、夫人の域を出るものではなかった。
侯爵家の家政を差配していたヒルデガルドは、それなりに有能だったと思う。そう思えるくらいには努力を重ねたし、使用人たちとも信頼関係を深めていた。
一方で、生家のことには些か疎かった。
ローレンの体調も、特に家を継いでからのことは心配だったのに、生家から足が遠のいていた。それほどに、我がことに忙殺されていた。
ローレンには婚約者がいなかった。爵位を継承しても、ローレンには血を残す術がなかった。それが益々一族の不安を募らせ、ローレンの負担となっていたのは間違いない。
ヒルデガルドは、自分が正式に次期当主と定められたときに、肩に伸し掛かる責務の重さを改めて感じていた。
自ら望んで覚悟を決めて、両親や一族の総意を得てその立場を得たというのに、足元から震えが這い上がる、恐れとも興奮ともつかない感覚に、言いようのない心細さを感じたのは本当のことである。
この重責を、病弱なローレンが背負い続けていたことこそ、彼が短命であった理由の一つと思わずにいられない。
「ローレン。無理してない?楽しいからと根を詰めてはいけないわ」
ローレンは年齢の割に聡明で、勤勉さが後押しをして賢明でもある。
そのローレンが、ヴィンセントに学び始めてから明らかに変わった。
教師は他にもつけているし、彼らから教授されることを、ローレンは粛々と学んでいる。だが、ヴィンセントと学んだ後は、明らかに様子が違った。
まるで乾いた大地が水を吸うように、ヴィンセントから授けられる知識を、天から降る雨水を迎え入れる花のように受け止めている。
晩餐の席でも、ヴィンセントから教わった知識を嬉々として家族に披露した。
その姿が眩しくて、ヒルデガルドは期待せずにはいられない。
寿命とは、初めから神が与えてくれたものなのだろう。だとしたら、ローレンは前世でそれを予定よりもずっと早く消費してしまったのではないだろうか。今世でこそ、本当の寿命を生きることができるのではないだろうか。
あの葬儀の晩に、死を願って本当に良かった。
ヒルデガルドは心からそう思っていた。
前の世でのヒルデガルドの後悔は、クリスフォードの妻になったことだった。それで、あの葬儀の夜に死に戻りを神に願ったのである。
死に戻った先に願ったことはもう一つ、最期の時までローレンを見守ることだった。
今度はローレンを最期の最期まで、アトレイと一緒に見守り支えることができる。
気がつけば、死に戻った春から僅かな期間で、ヒルデガルドは目的を二つとも果たしていた。
「人生って、なんなのかしら。二十年戦ってきたのよ。二十年戦争と名をつけても良いわ。悩みなんて日常だったわ。悩みのない日のほうが物足りなく感じたものよ。まあ、そんな毎日も嫌いではなかったけれど。忙しく立ち回るのは案外楽しかったし、なにより使用人に恵まれた人生だった。一番は、やっぱりオースティンに巡り合えたことよね」
「オースティンが誰なのか知ったこっちゃないが、私の前で他の男の名を楽しげに呟かないでほしいかな」
ヒルデガルドの大き過ぎる独り言は、死に戻ってからも健在である。もうこれは魂に刷り込まれた習性なのだと思う。
アトレイは、春から急に老成したようなヒルデガルドに戸惑いを覚えながら、それが成人を迎える令嬢の心情の変化なのだと思っているようである。
「失礼。でもオースティンはそんなのではないのよ。敢えて言うなら、忘れ難い物語の、大切な登場人物といったところかしら」
「益々わけがわからないな」
意外なことに、アトレイはヒルデガルドの周囲に異性を感じると、途端にしつこくなる。
それが甘酸っぱい感傷を呼び起こして、ヒルデガルドの胸を疼かせた。
こんな初々しい恋愛をアトレイと体験するなんて、思ってもみなかった。
二つの人生を生きるヒルデガルドは、二度目の青春の大波にあっぷあっぷになりながら、実のところ喜んで溺れていた。
「来週の茶会、衣装を合わせよう」
「ええ?そこまでしなくても大丈夫よ。夜会ではないのよ、昼間のお茶会よ?」
最近のヒルデガルドは忙しい。次期当主として公になり、招かれる茶会は前世の乙女の頃とは様相を変えていた。
嘗て母と参加した夫人らの集まりは、嫁ぐ身としての地均しのためであった。それが今では、当主としての繋がりを深めるものに変わっていた。その証拠に、アトレイがパートナーとして同伴する。
アトレイは、子爵家のスペアであった。当然、兄のように社交場に出ることはなかったし、なにより春に学園に入ったばかりの青年である。
彼もまた、ヒルデガルド同様に立場を変えた。
そのアトレイが、来週の茶会に力むのにはわけがある。招かれた先が、侯爵家、クリスフォードの家だった。
招待状を持ってきたのがヴィンセントで、ローレンを前に無下に断ることが出来なかった。
これが侯爵家の使用人が携えてきたなら、それらしい理由をつけて断っていただろう。
こういうところがクリスフォードは抜かりない。
前の世で知り尽くした、嘗ての夫を用心する日が来るなんて。
そこそこ波乱含みの前世を生きたつもりでいたが、ヒルデガルドは死に戻って、人生の更なる深淵を見せられるような気持ちになった。
ローレンは嫡男であるが、未成年のうちはと後継者として国への届けはまだなされていなかった。
一族傘下貴族へは、次期当主と周知されてはいたが、幼い頃から病弱なローレンが後継であることを危惧する声がなかったわけではない。
だからこそ、健康なヒルデガルドが後継に差し替えられたことは、概ね好事として受けとめられた。
同時に、傘下貴族で親戚筋にあたる子爵家のアトレイと婚約したことも、定まりきらない伯爵家の基盤が、ようやく固まったと安堵されたようだった。
ヒルデガルドの世界は一転した。
令嬢として他家に娶られる立場から、一族を担う立場に変わり、足を踏み入れる社交場もまた、嘗てのものとは変わっていた。
前世のヒルデガルドのフィールドは、侯爵家の世界だった。傘下貴族は末端まで含めれば伯爵家のそれとは比べられるものではない。
ヒルデガルドは主に、それらの家々の夫人らの上に立つ立場にあった。
だが、それがどれほど高みにあっても、夫人の域を出るものではなかった。
侯爵家の家政を差配していたヒルデガルドは、それなりに有能だったと思う。そう思えるくらいには努力を重ねたし、使用人たちとも信頼関係を深めていた。
一方で、生家のことには些か疎かった。
ローレンの体調も、特に家を継いでからのことは心配だったのに、生家から足が遠のいていた。それほどに、我がことに忙殺されていた。
ローレンには婚約者がいなかった。爵位を継承しても、ローレンには血を残す術がなかった。それが益々一族の不安を募らせ、ローレンの負担となっていたのは間違いない。
ヒルデガルドは、自分が正式に次期当主と定められたときに、肩に伸し掛かる責務の重さを改めて感じていた。
自ら望んで覚悟を決めて、両親や一族の総意を得てその立場を得たというのに、足元から震えが這い上がる、恐れとも興奮ともつかない感覚に、言いようのない心細さを感じたのは本当のことである。
この重責を、病弱なローレンが背負い続けていたことこそ、彼が短命であった理由の一つと思わずにいられない。
「ローレン。無理してない?楽しいからと根を詰めてはいけないわ」
ローレンは年齢の割に聡明で、勤勉さが後押しをして賢明でもある。
そのローレンが、ヴィンセントに学び始めてから明らかに変わった。
教師は他にもつけているし、彼らから教授されることを、ローレンは粛々と学んでいる。だが、ヴィンセントと学んだ後は、明らかに様子が違った。
まるで乾いた大地が水を吸うように、ヴィンセントから授けられる知識を、天から降る雨水を迎え入れる花のように受け止めている。
晩餐の席でも、ヴィンセントから教わった知識を嬉々として家族に披露した。
その姿が眩しくて、ヒルデガルドは期待せずにはいられない。
寿命とは、初めから神が与えてくれたものなのだろう。だとしたら、ローレンは前世でそれを予定よりもずっと早く消費してしまったのではないだろうか。今世でこそ、本当の寿命を生きることができるのではないだろうか。
あの葬儀の晩に、死を願って本当に良かった。
ヒルデガルドは心からそう思っていた。
前の世でのヒルデガルドの後悔は、クリスフォードの妻になったことだった。それで、あの葬儀の夜に死に戻りを神に願ったのである。
死に戻った先に願ったことはもう一つ、最期の時までローレンを見守ることだった。
今度はローレンを最期の最期まで、アトレイと一緒に見守り支えることができる。
気がつけば、死に戻った春から僅かな期間で、ヒルデガルドは目的を二つとも果たしていた。
「人生って、なんなのかしら。二十年戦ってきたのよ。二十年戦争と名をつけても良いわ。悩みなんて日常だったわ。悩みのない日のほうが物足りなく感じたものよ。まあ、そんな毎日も嫌いではなかったけれど。忙しく立ち回るのは案外楽しかったし、なにより使用人に恵まれた人生だった。一番は、やっぱりオースティンに巡り合えたことよね」
「オースティンが誰なのか知ったこっちゃないが、私の前で他の男の名を楽しげに呟かないでほしいかな」
ヒルデガルドの大き過ぎる独り言は、死に戻ってからも健在である。もうこれは魂に刷り込まれた習性なのだと思う。
アトレイは、春から急に老成したようなヒルデガルドに戸惑いを覚えながら、それが成人を迎える令嬢の心情の変化なのだと思っているようである。
「失礼。でもオースティンはそんなのではないのよ。敢えて言うなら、忘れ難い物語の、大切な登場人物といったところかしら」
「益々わけがわからないな」
意外なことに、アトレイはヒルデガルドの周囲に異性を感じると、途端にしつこくなる。
それが甘酸っぱい感傷を呼び起こして、ヒルデガルドの胸を疼かせた。
こんな初々しい恋愛をアトレイと体験するなんて、思ってもみなかった。
二つの人生を生きるヒルデガルドは、二度目の青春の大波にあっぷあっぷになりながら、実のところ喜んで溺れていた。
「来週の茶会、衣装を合わせよう」
「ええ?そこまでしなくても大丈夫よ。夜会ではないのよ、昼間のお茶会よ?」
最近のヒルデガルドは忙しい。次期当主として公になり、招かれる茶会は前世の乙女の頃とは様相を変えていた。
嘗て母と参加した夫人らの集まりは、嫁ぐ身としての地均しのためであった。それが今では、当主としての繋がりを深めるものに変わっていた。その証拠に、アトレイがパートナーとして同伴する。
アトレイは、子爵家のスペアであった。当然、兄のように社交場に出ることはなかったし、なにより春に学園に入ったばかりの青年である。
彼もまた、ヒルデガルド同様に立場を変えた。
そのアトレイが、来週の茶会に力むのにはわけがある。招かれた先が、侯爵家、クリスフォードの家だった。
招待状を持ってきたのがヴィンセントで、ローレンを前に無下に断ることが出来なかった。
これが侯爵家の使用人が携えてきたなら、それらしい理由をつけて断っていただろう。
こういうところがクリスフォードは抜かりない。
前の世で知り尽くした、嘗ての夫を用心する日が来るなんて。
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