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俯いたアリアドネからひと粒雫が落ちた。
「ア、」
ハデスは、究極の一文字しか言葉を発しなかった。
アリアドネの生家ルーズベリー侯爵邸は王城に近い。馬車は既に侯爵邸の敷地に入っていた。
「アリアドネ、」
今度は最後まで名を呼んだハデスに答えず、アリアドネは窓を見た。涙は未だ止まらない。止める事が出来ない。
御者が扉を開けたと同時に、アリアドネは馬車から飛び出す勢いでステップを降りた。
ダンス好きのアリアドネにとって、これくらいの段数は手を借りずとも降りられる。
「アリアドネ!」
後ろにハデスの声が聞こえたが、アリアドネは構わず走った。
玄関ポーチにいる執事と侍女の影が見える。走り出したアリアドネに驚いたのか、わらわらと使用人達が集まって来るのが見て取れた。
アリアドネはそのまま勢いを失う事なく扉まで一気に駆けた。
玄関ポーチの扉は開け放たれており、使用人が数人、こちらへ走り出したのが分かった。
息を切らすアリアドネを受け止める勢いで飛び出して来たのは父の侍従であった。
アリアドネの肩を抱きながら、侍従がアリアドネを中に引き入れる。
「アリアドネ!」
後ろを追いかけて来たらしいハデスが、使用人達に引き止められるのが気配で分かった。
「離してくれ!アリアドネっ!」
扉が閉められ、ハデスの声を聞いたのはそこまでだった。
「何があったの?アリアドネ。」
ドレスを脱ぎ捨て化粧を落として、アリアドネは寝台の中、掛け布に包まっていた。
その寝台に腰掛けて、母が掛け布の上からアリアドネの背を撫でる。
「私のアリアドネが泣くだなんて。いつぶりかしらね。」
母の手が温かい。
アリアドネの背を擦りながら、
「何があったの?」
もう一度優しく問うて来た。
アリアドネは、馬車での会話を話した。
話して見れば、なんだそんな事かと言われそうなほどのものである。
「貴女はとても美くしかったわ、アリアドネ。」
「いいえ、お母様。これはほんのひと欠片のことですわ。ハデス様はもっとずっと前から私にご不満がお有りだったのだもの。」
「それではハデス様のお好みとは、妙ちくりんな幼女の様な令嬢なのかしらね。」
どうやら母は、ファニー嬢の一件を観ていたらしい。多分、父も一緒であったろう。
「淑女の貴女にそんな言葉を掛けるなど、評判の貴公子ハデス様が真の紳士とは思えないわね。貴女の魅力に気付きもせずに、ご自分の好みのままに不用意な言葉を投げ付けるのなら、グラントン侯爵家の教育を疑わねばならないでしょうね。」
「良いわ。お父様には私からお話ししておきます。けれどもアリアドネ。貴女が婚約の解消を望んでも、多分そうはならないでしょう。ただ、私は胸に刻みましたから。お父様の様に甘くはなくてよ。」
母はそれからお休みと言って部屋を出た。
屋敷の中は結構な騒動となっていたから当然父の耳にも入っており、翌日には父から何があったのかを聞かれる事となった。
赤く腫れた瞼の娘を前に、父は流石に思うところがあったと見える。
けれども、
「アリアドネ。お前の気持ちが解らない訳ではない。私もアレは見ていたし、ハデス殿の判断は正しいものであった。彼はお前を蔑ろにした訳では無い。
それから、その、なんだ、お前の体型を批判したらしいが、それは私としても許せぬ事だが、アリアドネ。それだけで婚約解消の理由にはならない。解るな?」
「お父様。ハデス様のお役目も私の立場も、私達の成さねばならない事も解っているつもりです。ですが、」
まだ心の傷が癒え切らないアリアドネは、そこまで話すだけで涙が滲む。けれども、今、言わなければ元の木阿弥になってしまう。
「ですが、お父様。ハデス様が真実私をお望みでないのだとしたら。何より私達には心はおろか言葉の交流すら無いのです。
アンネマリー様の為に行動するのにそれが適わなくて、私はアベマール伯爵令息様のお力をお借りする事を頼んだのですから。」
「なんだと?その話しは。アリアドネ、何故アベマール伯爵令息に頼る必要があったのだ。」
そこでアリアドネは、アンネマリーの一件からパトリシアに情報収集が必要だと提案されるも、極端に会話の無いハデスとの間では無理だと判断した事、偶々隣の席であったロジャーが相談に乗ってくれたことから協力を頼んだ事を説明した。
「うむ。確かにあの家は代々文官を務める家系であるから、子息も才があるのだろうな。それで、アリアドネ。お前は彼とは話しが出来ると言うのか?」
「はい。挨拶に始まり日常の他愛の無い事も。昨晩の夜会ではダンスのお誘いまでお受けしました。けれどもお父様。ロジャー様が特別なのでは無いのです。私とハデス様の関係が破綻しているのです。」
父はそこで瞼を閉じた。何かを考える風であった。
「ア、」
ハデスは、究極の一文字しか言葉を発しなかった。
アリアドネの生家ルーズベリー侯爵邸は王城に近い。馬車は既に侯爵邸の敷地に入っていた。
「アリアドネ、」
今度は最後まで名を呼んだハデスに答えず、アリアドネは窓を見た。涙は未だ止まらない。止める事が出来ない。
御者が扉を開けたと同時に、アリアドネは馬車から飛び出す勢いでステップを降りた。
ダンス好きのアリアドネにとって、これくらいの段数は手を借りずとも降りられる。
「アリアドネ!」
後ろにハデスの声が聞こえたが、アリアドネは構わず走った。
玄関ポーチにいる執事と侍女の影が見える。走り出したアリアドネに驚いたのか、わらわらと使用人達が集まって来るのが見て取れた。
アリアドネはそのまま勢いを失う事なく扉まで一気に駆けた。
玄関ポーチの扉は開け放たれており、使用人が数人、こちらへ走り出したのが分かった。
息を切らすアリアドネを受け止める勢いで飛び出して来たのは父の侍従であった。
アリアドネの肩を抱きながら、侍従がアリアドネを中に引き入れる。
「アリアドネ!」
後ろを追いかけて来たらしいハデスが、使用人達に引き止められるのが気配で分かった。
「離してくれ!アリアドネっ!」
扉が閉められ、ハデスの声を聞いたのはそこまでだった。
「何があったの?アリアドネ。」
ドレスを脱ぎ捨て化粧を落として、アリアドネは寝台の中、掛け布に包まっていた。
その寝台に腰掛けて、母が掛け布の上からアリアドネの背を撫でる。
「私のアリアドネが泣くだなんて。いつぶりかしらね。」
母の手が温かい。
アリアドネの背を擦りながら、
「何があったの?」
もう一度優しく問うて来た。
アリアドネは、馬車での会話を話した。
話して見れば、なんだそんな事かと言われそうなほどのものである。
「貴女はとても美くしかったわ、アリアドネ。」
「いいえ、お母様。これはほんのひと欠片のことですわ。ハデス様はもっとずっと前から私にご不満がお有りだったのだもの。」
「それではハデス様のお好みとは、妙ちくりんな幼女の様な令嬢なのかしらね。」
どうやら母は、ファニー嬢の一件を観ていたらしい。多分、父も一緒であったろう。
「淑女の貴女にそんな言葉を掛けるなど、評判の貴公子ハデス様が真の紳士とは思えないわね。貴女の魅力に気付きもせずに、ご自分の好みのままに不用意な言葉を投げ付けるのなら、グラントン侯爵家の教育を疑わねばならないでしょうね。」
「良いわ。お父様には私からお話ししておきます。けれどもアリアドネ。貴女が婚約の解消を望んでも、多分そうはならないでしょう。ただ、私は胸に刻みましたから。お父様の様に甘くはなくてよ。」
母はそれからお休みと言って部屋を出た。
屋敷の中は結構な騒動となっていたから当然父の耳にも入っており、翌日には父から何があったのかを聞かれる事となった。
赤く腫れた瞼の娘を前に、父は流石に思うところがあったと見える。
けれども、
「アリアドネ。お前の気持ちが解らない訳ではない。私もアレは見ていたし、ハデス殿の判断は正しいものであった。彼はお前を蔑ろにした訳では無い。
それから、その、なんだ、お前の体型を批判したらしいが、それは私としても許せぬ事だが、アリアドネ。それだけで婚約解消の理由にはならない。解るな?」
「お父様。ハデス様のお役目も私の立場も、私達の成さねばならない事も解っているつもりです。ですが、」
まだ心の傷が癒え切らないアリアドネは、そこまで話すだけで涙が滲む。けれども、今、言わなければ元の木阿弥になってしまう。
「ですが、お父様。ハデス様が真実私をお望みでないのだとしたら。何より私達には心はおろか言葉の交流すら無いのです。
アンネマリー様の為に行動するのにそれが適わなくて、私はアベマール伯爵令息様のお力をお借りする事を頼んだのですから。」
「なんだと?その話しは。アリアドネ、何故アベマール伯爵令息に頼る必要があったのだ。」
そこでアリアドネは、アンネマリーの一件からパトリシアに情報収集が必要だと提案されるも、極端に会話の無いハデスとの間では無理だと判断した事、偶々隣の席であったロジャーが相談に乗ってくれたことから協力を頼んだ事を説明した。
「うむ。確かにあの家は代々文官を務める家系であるから、子息も才があるのだろうな。それで、アリアドネ。お前は彼とは話しが出来ると言うのか?」
「はい。挨拶に始まり日常の他愛の無い事も。昨晩の夜会ではダンスのお誘いまでお受けしました。けれどもお父様。ロジャー様が特別なのでは無いのです。私とハデス様の関係が破綻しているのです。」
父はそこで瞼を閉じた。何かを考える風であった。
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