黒革の日記

桃井すもも

文字の大きさ
68 / 68

【68】

しおりを挟む
クロノスは十三歳となった秋、帝国の寄宿制の学園に入学した。帝国の学園は秋が年度の始まりであった。彼はこれから父が長く辣腕を振るった大国で、思いっ切り自由に伸び伸びと、その才を開花させることだろう。


キャスリーンはクロノスの出立を見送って、それから離れの私室を閉じた。

ジェントルはその頃には小鳥の寿命を遥かに超えた大層長生きの老鳥となって、一日の大半を羽に頭を埋めて眠って過ごしている。


部屋へ入ると真正面、そこには変わらず赤髪の令嬢アマンダがいる。その横にキャスリーンとアダム。両脇を先々代、先代の侯爵夫人。

彼女等は十七年余りを夫人の部屋に共にいて、キャスリーンとその子供達、度々ちょいちょい訪れるアダムとの暮らしを見つめて来た。

またいつかここに夫人の肖像画が連なる事になるだろう。それはニクスが迎える妻であろうが、妾に追いやられてなんて事ではなくて、細部まで造り込まれた繊細な造形美を誇るこの邸を、夫人の館と愛して住まってほしいものである。

ニクスのみを侯爵家に残して、キャスリーンはアダムの邸に移る。娘、デメーテルが共に付いてくる。

ニクスは侯爵家の嫡男である。
建国以来続いた貴族の名家ノーマン侯爵家を新生させる立役者である。

彼には全てを話して聞かせた。母が出会った令嬢アマンダの人生、曾祖母と祖母の覚悟、アルフォンと愛人の関係、アマンダとキャスリーンに愛された実父アダム、そしてアダムの血を引く自身の価値と託された願い。

夜の申し子ニクスは、未だ完成を迎えない美貌の影に夜の暗さを飲み込んで、全てを承知して侯爵家に一人残った。彼はこれまで住まった離れの邸を変わらず住処として、ここで新たな侯爵家の礎となる。

本邸には、年を経ても変わらず男爵令嬢であるアマンダがいるが、彼女の事はアルフォンに任せていたから、後はフランツがニクスを護ってくれるだろう。

「遊びに来て頂戴ね、ニクス。」

「母様、どんな遠くへ行くつもりで仰っておられるのかな?馬車で10分ですよ、父上の邸宅までは。学園よりも近いのですよ。父上と母上は勿論ですが、年寄りのジェントルも気になるし。」

「お兄様、酷い!私を忘れているの?」

「お前とは学園で会うだろう。」

「そ・れ・で・も!私にも会いにいらしてね!」

ぷりぷりとデメーテルが怒るのを、ニクスは面白がってその頬を撫でた。

「可愛いデメーテル。早速今週の休みに会いに行くよ。父上と母上とジェントルに会いに行くついでに。」
「まあ!お兄様、酷いっ!」

兄と妹が戯れ合うのをキャスリーンは眩しく見つめていた。

それからデメーテルと玄関ホールに向かえば、アダムとフランツが待っていた。

「アダム様、お待たせしました。さあ、参りましょう。フランツ、ニクスを宜しくお願いしますね。あの子は本当は寂しがり屋ですから。」

「お任せ下さい。馬車で僅か10分のお住いです。ニクス様がお寂しい時には私がアダム様の邸まで送り迎えを致します。」

つい先程聞いた様な台詞をフランツが言って、キャスリーンはニクスとフランツの心の近さに安堵した。
信を置く使用人達は、全てここに残していく。彼等はきっとニクスを大切にして仕えてくれる事だろう。

アダムが手を取って先にデメーテルを馬車に乗せた。それからジェントルの鳥籠を揺らさぬようにそっと娘に手渡して、そうしてキャスリーンの手を取った。

「奥方殿、準備は宜しいか。」
老成して益々渋みを増した美丈夫の笑み。深く刻まれた目尻の皺も嘗ての黒髪から白銀が増えた光る髪も愛おしい。何処までも温かく頼もしくキャスリーンを包み込む。

「万事滞りございませんわ、旦那様。」
キャスリーンは差し出された手をぎゅと握り返した。

アルフォンには昨晩の内に別れを告げた。帰った本邸で彼が独り涙したのをキャスリーンは知らない。けれども彼には感謝をしていた。

今日までの日々、アダムを愛するキャスリーンを認めてくれたのはアルフォンである。
始まりをすれ違ってしまった二人だが、今、侯爵家にはニクスがいる。彼が新しい未来を築くのを、アルフォンは全力で手助けしてくれる事だろう。

アダムは既に、外務大臣を退いている。そうして宰相職に就いていた。アルフォンとは王城にいて国王陛下となったアンソニーを共に支える立場にある。

先触れと言う言葉の存在を忘却の彼方に押しやって、勝手気ままに離れの邸を訪れたアンソニーは、遂には孤高の存在として国の頂点にいる。
そうして虎視眈々とデメーテルを狙っている。
何時ぞやの夜会の折に、

「私は年上の妻を得て大層幸せであった。市井では何と言ったか、そうそう姉さん女房と言うらしいな。お前んとこのデメーテル幾つになった、なんだ末王子にぴったりじゃないか。」とほざいた。

戯けた知能犯は放っておいて、くるり背を向けた背中に何か聞こえたのも丸っと無視したキャスリーンであった。


人生は短い。
その短い人生で十七年余りの歳月をアダムは只管待っていてくれた。世間の目も口も、もう二人を咎めることはない。
アダムとこれからの人生を生きる為に、キャスリーンはアマンダと暮らした邸を後にした。

アマンダ、貴女は私達と一緒にいるの?それとも彼処に残ったの?

何故かしら、キャスリーンには後者の様に思えた。
長い年月の内に彼女の魂の傷が癒えて、キャスリーンと共に生きる内に恋した心を慰めて、そうして母と慕った夫人と共にあの美しい離れの邸に今尚残っている、そんな風にキャスリーンには思えるのだった。

半身を失い軽くなった身体である。
二つから一つになったその全身で、残る生涯全てを掛けてアダムを愛し抜こう。

デメーテルが呆れる眼差しを向けるのにも長く連れ添った夫婦はどこ吹く風で、互いの手を絡め合うのであった。

夫人の持ち出した僅かな荷には、あの黒革の日記が黒光りする背表紙を覗かせていた。



                           完


 
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

行ってらっしゃい旦那様、たくさんの幸せをもらった私は今度はあなたの幸せを願います

木蓮
恋愛
サティアは夫ルースと家族として穏やかに愛を育んでいたが彼は事故にあい行方不明になる。半年後帰って来たルースはすべての記憶を失っていた。 サティアは新しい記憶を得て変わったルースに愛する家族がいることを知り、愛しい夫との大切な思い出を抱えて彼を送り出す。 記憶を失くしたことで生きる道が変わった夫婦の別れと旅立ちのお話。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

王子様への置き手紙

あおた卵
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯

処理中です...