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第六章
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「どうしたんだ?」
アルバートは、レベッカに呼び止められて、何事か起こったのかと思ったらしい。早足になってこちらへ歩み寄ってきた。
「おはようございます」
つい一刻ほど前に、寝台の中で目覚めのおはようを言い合ったのだが、ここは儀礼的に二度目のおはようを言う。
「ああ、おはよう。ん? 元気がないな。あ、ああ、昨夜は無理をさせてしまったか」
こんな朝っぱらの廊下のど真ん中で、使用人に囲まれて、この夫、なんてことを言うんだ。
元より眠気はなかったが、改めて目が覚めてしまうような夫の破廉恥発言に、その足を踏んでやりたくなった。
そんな羞恥をどうにか収めて、夫の姿を見上げた。
マルガレーテは随分と、夫の装いについて情けないと言っていた。だが目の前の夫は、髪も肌も艶々で、なんなら昨日よりも元気に見える。
それに例の消炭色のジャケット姿、全然いやらしくなんてない。成金の風はどこへ行ったの?
スンスンと鼻を鳴らしたレベッカに、アルバートが尋ねた。
「ん? どうしたんだ?」
廊下に突っ立って、二人仲良く見つめ合う。使用人たちは目のやり場に困っている。
王城生活で人目に晒されることに慣れているレベッカは、そんな周囲を気にすることなかった。まじまじと、夫の頭から爪先までを舐めるように眺めた。
「素敵」
「あ、ああ……」
旦那様、とっても超絶格好良い。
でもなんだろう。このほんのりと残念な気持ち。
折角、素敵な夫の姿を見たのに、レベッカはどこかで「成金ダサダサ」な夫の姿を期待していた。ちなみに、マルガレーテは成金ともダサダサとも一言も言っていない。
「ねえ、旦那様。ちょっとそちらに寄ってもよろしい?」
返事を聞く前に、レベッカは一歩二歩とアルバートに歩み寄った。数時間前には素肌で抱き締め合っていたのに、こんな歩み寄りがなんだか少々気恥ずかしい。
夫の胸元まで近寄れば、なるほど、件のボタンが目に入った。
「確かに」
「え? 何が?」
「『洗練された爽やかな風を感じさせながら、正統かつ伝統的。これぞ旦那様という金ボタン』。正しくそうだわ」
「え? 何が? いや、よくわからないがありがとう」
意味がわからぬまま、どうやら褒められたらしいと察したアルバートは、素直に礼を言った。
レベッカは、後ろに控えるフランツを見た。
彼にはちゃんと通じており、
《妻の審美眼をお褒め頂き恐縮です》
と、心の声が届いた。どうやらアンネマリーの以心伝心術は、この父親からの遺伝らしい。
ボタンを替えただけなのに、こんなに素敵になるものなのね。
流石に生地は上質で、濃い消炭色も落ち着きのある夫に更なる落ち着きを加味して、とっても落ち着き払っている。
マルガレーテの目利きによって格調高く補正されたジャケットは、アルバートにとてもよく似合っていた。
流行に乗っかった華美なシルエットが些か気になるが、それは流行りであるから、まあよいだろう。
揃いで衣装を作る時には、彼に似合う洗練された衣装を作ってあげよう。なんだったかしら、風、えーと洗練された爽やかな風が感じられるお衣装を、とレベッカは思うのだった。
どことなくご機嫌なアルバートは、見送りをするレベッカに、行って参りますのキスをして出て行った。
だがそのキスはいつもと違って、頬ではなくて唇だった。背後からアンネマリーの《きゃー》という心の声は、聞こえなかったことにした。
朝から甘い空気が飛び交った邸内であったが、すぐに落ち着きを取り戻した。それで早速レベッカは、生家に宛てて文を書いた。
家族は皆、心配していることだろう。格下の伯爵家へ嫁いだ娘。だが実情は、夫は王太子の側近で、しかも娘はほんのちょっと前まで王太子の妃だった。
王家に嫁いでから、生家の家族とは公式の夜会や茶会で顔を合わせるだけだった。
これ見よがしな権力の誇示を避けて、両親は王家への挨拶の時に少ない言葉を交わすに留めて、レベッカとの接触は遠慮をしていた。
もちろん、母とは定期的に文を交わしてはいたけれど、それは離縁が決まったことを知らせる文が最後だった。
アルバートが生家との交流を嫌ったわけではなかったが、どこか遠慮が拭えずに、そのうちひと月も経ってしまった。
王城には次の妃のシンシアが、すでに部屋を与えられている。来月の婚礼の儀、エドモンドにとっては二度目の婚姻式には、両親も参列する。当然、臣下のアルバートとレベッカも同じである。
娘のあまりに変わり果てた身の上に、きっと母は夜も眠れずにいるだろう。ゆっくり会いたいと思っていたから、先にアルバートのほうから許しをくれて助かった。
レベッカは、久しぶりに便箋を取り出した。春の盛りだから、インクは紺碧色にしよう。書いたばかりのうちは青味が強いが、紙の上で時間が経つと深い緑色に変化する。
母の手元に届くころには、山野の緑を思わせる春らしい風を届けてくれるだろう。
今日のレベッカのテーマは「風」だった。
「爽やかな風」を纏って王城へ向かう夫の背中を思い出して、ふふっと笑みが零れた。
王城でレベッカが使うインクと言えば黒だった。ブルーブラックも多かった。たまに青も使うが頻度は低い。
そういえば、この紺碧色のインクはだいぶ古いものである。エドモンドに嫁ぐ直前に買ったものだ。三年経っても大して量は減っていない。それほど使っていなかったということだろう。
紺碧色は、二度目の夫アルバートの瞳の色である。最初の夫のエドモンドは、澄んだ青い瞳だった。
アルバートは、レベッカに呼び止められて、何事か起こったのかと思ったらしい。早足になってこちらへ歩み寄ってきた。
「おはようございます」
つい一刻ほど前に、寝台の中で目覚めのおはようを言い合ったのだが、ここは儀礼的に二度目のおはようを言う。
「ああ、おはよう。ん? 元気がないな。あ、ああ、昨夜は無理をさせてしまったか」
こんな朝っぱらの廊下のど真ん中で、使用人に囲まれて、この夫、なんてことを言うんだ。
元より眠気はなかったが、改めて目が覚めてしまうような夫の破廉恥発言に、その足を踏んでやりたくなった。
そんな羞恥をどうにか収めて、夫の姿を見上げた。
マルガレーテは随分と、夫の装いについて情けないと言っていた。だが目の前の夫は、髪も肌も艶々で、なんなら昨日よりも元気に見える。
それに例の消炭色のジャケット姿、全然いやらしくなんてない。成金の風はどこへ行ったの?
スンスンと鼻を鳴らしたレベッカに、アルバートが尋ねた。
「ん? どうしたんだ?」
廊下に突っ立って、二人仲良く見つめ合う。使用人たちは目のやり場に困っている。
王城生活で人目に晒されることに慣れているレベッカは、そんな周囲を気にすることなかった。まじまじと、夫の頭から爪先までを舐めるように眺めた。
「素敵」
「あ、ああ……」
旦那様、とっても超絶格好良い。
でもなんだろう。このほんのりと残念な気持ち。
折角、素敵な夫の姿を見たのに、レベッカはどこかで「成金ダサダサ」な夫の姿を期待していた。ちなみに、マルガレーテは成金ともダサダサとも一言も言っていない。
「ねえ、旦那様。ちょっとそちらに寄ってもよろしい?」
返事を聞く前に、レベッカは一歩二歩とアルバートに歩み寄った。数時間前には素肌で抱き締め合っていたのに、こんな歩み寄りがなんだか少々気恥ずかしい。
夫の胸元まで近寄れば、なるほど、件のボタンが目に入った。
「確かに」
「え? 何が?」
「『洗練された爽やかな風を感じさせながら、正統かつ伝統的。これぞ旦那様という金ボタン』。正しくそうだわ」
「え? 何が? いや、よくわからないがありがとう」
意味がわからぬまま、どうやら褒められたらしいと察したアルバートは、素直に礼を言った。
レベッカは、後ろに控えるフランツを見た。
彼にはちゃんと通じており、
《妻の審美眼をお褒め頂き恐縮です》
と、心の声が届いた。どうやらアンネマリーの以心伝心術は、この父親からの遺伝らしい。
ボタンを替えただけなのに、こんなに素敵になるものなのね。
流石に生地は上質で、濃い消炭色も落ち着きのある夫に更なる落ち着きを加味して、とっても落ち着き払っている。
マルガレーテの目利きによって格調高く補正されたジャケットは、アルバートにとてもよく似合っていた。
流行に乗っかった華美なシルエットが些か気になるが、それは流行りであるから、まあよいだろう。
揃いで衣装を作る時には、彼に似合う洗練された衣装を作ってあげよう。なんだったかしら、風、えーと洗練された爽やかな風が感じられるお衣装を、とレベッカは思うのだった。
どことなくご機嫌なアルバートは、見送りをするレベッカに、行って参りますのキスをして出て行った。
だがそのキスはいつもと違って、頬ではなくて唇だった。背後からアンネマリーの《きゃー》という心の声は、聞こえなかったことにした。
朝から甘い空気が飛び交った邸内であったが、すぐに落ち着きを取り戻した。それで早速レベッカは、生家に宛てて文を書いた。
家族は皆、心配していることだろう。格下の伯爵家へ嫁いだ娘。だが実情は、夫は王太子の側近で、しかも娘はほんのちょっと前まで王太子の妃だった。
王家に嫁いでから、生家の家族とは公式の夜会や茶会で顔を合わせるだけだった。
これ見よがしな権力の誇示を避けて、両親は王家への挨拶の時に少ない言葉を交わすに留めて、レベッカとの接触は遠慮をしていた。
もちろん、母とは定期的に文を交わしてはいたけれど、それは離縁が決まったことを知らせる文が最後だった。
アルバートが生家との交流を嫌ったわけではなかったが、どこか遠慮が拭えずに、そのうちひと月も経ってしまった。
王城には次の妃のシンシアが、すでに部屋を与えられている。来月の婚礼の儀、エドモンドにとっては二度目の婚姻式には、両親も参列する。当然、臣下のアルバートとレベッカも同じである。
娘のあまりに変わり果てた身の上に、きっと母は夜も眠れずにいるだろう。ゆっくり会いたいと思っていたから、先にアルバートのほうから許しをくれて助かった。
レベッカは、久しぶりに便箋を取り出した。春の盛りだから、インクは紺碧色にしよう。書いたばかりのうちは青味が強いが、紙の上で時間が経つと深い緑色に変化する。
母の手元に届くころには、山野の緑を思わせる春らしい風を届けてくれるだろう。
今日のレベッカのテーマは「風」だった。
「爽やかな風」を纏って王城へ向かう夫の背中を思い出して、ふふっと笑みが零れた。
王城でレベッカが使うインクと言えば黒だった。ブルーブラックも多かった。たまに青も使うが頻度は低い。
そういえば、この紺碧色のインクはだいぶ古いものである。エドモンドに嫁ぐ直前に買ったものだ。三年経っても大して量は減っていない。それほど使っていなかったということだろう。
紺碧色は、二度目の夫アルバートの瞳の色である。最初の夫のエドモンドは、澄んだ青い瞳だった。
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