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【14】
「クリスティナ、大丈夫?」
ノックの音に扉を開くと、アリシアが立っていた。手にはトレイを持っている。
「食べられるかしら。料理長が柔らかい物を作ってくれたの。少しでも口に入れられると良いのだけれど。無理をしないでね。」
クリスティナはその日、勤めを休んだ。
朝、目が赤く腫れて顔が浮腫んだ。
アリシアがその顔を見て、絶対に休みなさいと侍女頭に申し伝えてくれた。
風邪でも眼の病でも無い。
ほんのちょっとの飲み過ぎと泣き過ぎただけである。
ただ、心のダメージは軽くなくて、クリスティナは起き上がる事が出来なかった。いつもの時間に現れないクリスティナを心配して、アリシアが様子を確かめに来るまで、クリスティナは天井を見上げたまま何も考えられずにいた。
何も考えず、そうしていつまでも眠っていたかった。
「有難う、アリシア。迷惑を掛けてしまったわ。明日は大丈夫だと侍女頭様へ伝えて頂戴。それから料理長へ有難うと。」
分かったわ無理しないでねと、アリシアが念を押しながら扉を閉めた。
クリスティナはゆっくり鍵を閉める。
食欲は無い。けれども料理長が折角作ってくれたから、少しだけでも口に入れよう。
机の上に食事が乗っているトレイを置く。
ミルク粥とチキンスープであった。
スープを一口啜ると塩分を控えた優しい味がした。食欲は無かった筈なのに、ひと口食べればまたひと口と、ゆっくりと食欲が湧いて来る。
「ふふ、病気ではないのだもの美味しい筈だわ。」
結局、アリシアが持って来てくれた食事はペロリと平らげてしまった。
なんだか呆気無いものである。悩んでも悩まなくても、人は腹が減るし食事が出来る。
「私が図太いだけかしら。」
家族と離れて王城住まいになってから、独り言が増えた様に思う。
こうやって一日一日過ごしながら、そのうちお婆さんになってしまうのだろうか。一生自分で自分に話し掛けて、たった独りで生きてゆくのだろうか。
兄とイワンと食事を囲んで、飲み慣れないお酒に気持ち良く酔って、良く食べて笑ってお喋りした。
あんな日は、もう二度と来ないのだろうか。ローレンはそれをまるで罪の様にクリスティナを責め抜いた。ローレンこそクリスティナを好きに扱って、そうして今頃は王太子の御前に何も無かった顔をして侍っているのに。
なんて勝手な人なのだろう。
それなのにローレンを憎み切れない自分自身が憎らしい。
初めから可怪しいかったのだ。
そもそも学園の一室で身体を暴かれる事が有ってはならない事なのに、それを親にも教師にも告白も相談も出来ずにその後も過ごして、王城に勤めてからは益々距離が近付いて、まるでローレンの付属品の様に扱われている。
それを可怪しい事だと解った上で、呼ばれるままに付いていく。
ローレンはクリスティナを雌犬だと言った。
本当に犬みたい。どんな酷い主人にも懐いて縋る犬の様だ。酷い扱いを受けているのを理解しながら離れられない。
どうしてこれ程までにローレンに囚われるのか。
理由は分かっているのに言葉に出来ない。言葉にしてしまえば、あとは絶望しか無いのだから。
ローレンが純粋な愛情を捧げるのはテレーゼ王女唯一人で、あとはみんな雌犬なのだ。不純な欲や感情は全て犬達に向けるのだ。
テレーゼ王女の清らかさは、側に侍るクリスティナには良く解る。一点の汚れも無い至宝の珠。愛される為に生まれて来た可憐な王女。
だから、ローレンに愛を求めたら絶望しか残らないのだと解るのだ。
広いこの世界でたった一人でも、クリスティナを必要としてくれる人に会えたなら、そのまま付いて行こうか。
ここにいてもどのみち犬であるならば、自由気ままな野良犬にでもなって、旅の道連れを探している旅人に付いて行くのも良いかもしれない。
アリシアのお蔭で空腹が満たされると、悲壮感も絶望も薄まる様に思えた。
ぽっかり空いた心の穴には、いつか自由な旅人との暮らしが待っているように思えて、今ならそのいつかを楽しみに待てるような気がした。
あれほど泣いて見苦しい姿を晒したのだから、もうローレンは面倒なクリスティナに構う事も無くなるだろう。
テレーゼ王女は日に日に花が開くように美しさを増している。
ローレンの犬との戯れもそろそろ仕舞いだろう。清廉な王女には誠実に向き合わねばならないのだから。
いつまた揺らぐか分からぬままに、クリスティナは心に区切りを付けた。そうして本当に旅に出てみたいと思った。王都を出て、王国の知らない場所を旅してみたい。
「そんな事、私に出来るかしら。」
秋の日は短い。茜色が見えたと思ったらあっという間に宵闇に染まる。
窓辺に立って初秋の夕暮れに染まる空を見上げながら、クリスティナは茜空の向こう側に思いを馳せた。
「クリスティナ、もう体調は大丈夫なの?」
「はい、テレーゼ様。ご心配をお掛けして申し訳ございません。」
翌日には、クリスティナは常と変わらず勤務に戻った。瞼の赤みも顔の浮腫もすっかり癒えた。考え過ぎたあれこれも労働で身体を動かしている方が紛れる様に思えた。
テレーゼの散策に侍って秋の庭園を歩く途中で、剣の稽古の帰りらしいフレデリックの一団と出会うも、常と変わらず礼をしてテレーゼの後ろに侍った。
ローレンとは終始視線は合わせなかった。元より居ないものと視野から外した。
去り際フレデリックが、体調を崩したそうだが大丈夫かと問うて来たのに、お気遣い頂き勿体ない事ですと答えて頭を垂れた。
ノックの音に扉を開くと、アリシアが立っていた。手にはトレイを持っている。
「食べられるかしら。料理長が柔らかい物を作ってくれたの。少しでも口に入れられると良いのだけれど。無理をしないでね。」
クリスティナはその日、勤めを休んだ。
朝、目が赤く腫れて顔が浮腫んだ。
アリシアがその顔を見て、絶対に休みなさいと侍女頭に申し伝えてくれた。
風邪でも眼の病でも無い。
ほんのちょっとの飲み過ぎと泣き過ぎただけである。
ただ、心のダメージは軽くなくて、クリスティナは起き上がる事が出来なかった。いつもの時間に現れないクリスティナを心配して、アリシアが様子を確かめに来るまで、クリスティナは天井を見上げたまま何も考えられずにいた。
何も考えず、そうしていつまでも眠っていたかった。
「有難う、アリシア。迷惑を掛けてしまったわ。明日は大丈夫だと侍女頭様へ伝えて頂戴。それから料理長へ有難うと。」
分かったわ無理しないでねと、アリシアが念を押しながら扉を閉めた。
クリスティナはゆっくり鍵を閉める。
食欲は無い。けれども料理長が折角作ってくれたから、少しだけでも口に入れよう。
机の上に食事が乗っているトレイを置く。
ミルク粥とチキンスープであった。
スープを一口啜ると塩分を控えた優しい味がした。食欲は無かった筈なのに、ひと口食べればまたひと口と、ゆっくりと食欲が湧いて来る。
「ふふ、病気ではないのだもの美味しい筈だわ。」
結局、アリシアが持って来てくれた食事はペロリと平らげてしまった。
なんだか呆気無いものである。悩んでも悩まなくても、人は腹が減るし食事が出来る。
「私が図太いだけかしら。」
家族と離れて王城住まいになってから、独り言が増えた様に思う。
こうやって一日一日過ごしながら、そのうちお婆さんになってしまうのだろうか。一生自分で自分に話し掛けて、たった独りで生きてゆくのだろうか。
兄とイワンと食事を囲んで、飲み慣れないお酒に気持ち良く酔って、良く食べて笑ってお喋りした。
あんな日は、もう二度と来ないのだろうか。ローレンはそれをまるで罪の様にクリスティナを責め抜いた。ローレンこそクリスティナを好きに扱って、そうして今頃は王太子の御前に何も無かった顔をして侍っているのに。
なんて勝手な人なのだろう。
それなのにローレンを憎み切れない自分自身が憎らしい。
初めから可怪しいかったのだ。
そもそも学園の一室で身体を暴かれる事が有ってはならない事なのに、それを親にも教師にも告白も相談も出来ずにその後も過ごして、王城に勤めてからは益々距離が近付いて、まるでローレンの付属品の様に扱われている。
それを可怪しい事だと解った上で、呼ばれるままに付いていく。
ローレンはクリスティナを雌犬だと言った。
本当に犬みたい。どんな酷い主人にも懐いて縋る犬の様だ。酷い扱いを受けているのを理解しながら離れられない。
どうしてこれ程までにローレンに囚われるのか。
理由は分かっているのに言葉に出来ない。言葉にしてしまえば、あとは絶望しか無いのだから。
ローレンが純粋な愛情を捧げるのはテレーゼ王女唯一人で、あとはみんな雌犬なのだ。不純な欲や感情は全て犬達に向けるのだ。
テレーゼ王女の清らかさは、側に侍るクリスティナには良く解る。一点の汚れも無い至宝の珠。愛される為に生まれて来た可憐な王女。
だから、ローレンに愛を求めたら絶望しか残らないのだと解るのだ。
広いこの世界でたった一人でも、クリスティナを必要としてくれる人に会えたなら、そのまま付いて行こうか。
ここにいてもどのみち犬であるならば、自由気ままな野良犬にでもなって、旅の道連れを探している旅人に付いて行くのも良いかもしれない。
アリシアのお蔭で空腹が満たされると、悲壮感も絶望も薄まる様に思えた。
ぽっかり空いた心の穴には、いつか自由な旅人との暮らしが待っているように思えて、今ならそのいつかを楽しみに待てるような気がした。
あれほど泣いて見苦しい姿を晒したのだから、もうローレンは面倒なクリスティナに構う事も無くなるだろう。
テレーゼ王女は日に日に花が開くように美しさを増している。
ローレンの犬との戯れもそろそろ仕舞いだろう。清廉な王女には誠実に向き合わねばならないのだから。
いつまた揺らぐか分からぬままに、クリスティナは心に区切りを付けた。そうして本当に旅に出てみたいと思った。王都を出て、王国の知らない場所を旅してみたい。
「そんな事、私に出来るかしら。」
秋の日は短い。茜色が見えたと思ったらあっという間に宵闇に染まる。
窓辺に立って初秋の夕暮れに染まる空を見上げながら、クリスティナは茜空の向こう側に思いを馳せた。
「クリスティナ、もう体調は大丈夫なの?」
「はい、テレーゼ様。ご心配をお掛けして申し訳ございません。」
翌日には、クリスティナは常と変わらず勤務に戻った。瞼の赤みも顔の浮腫もすっかり癒えた。考え過ぎたあれこれも労働で身体を動かしている方が紛れる様に思えた。
テレーゼの散策に侍って秋の庭園を歩く途中で、剣の稽古の帰りらしいフレデリックの一団と出会うも、常と変わらず礼をしてテレーゼの後ろに侍った。
ローレンとは終始視線は合わせなかった。元より居ないものと視野から外した。
去り際フレデリックが、体調を崩したそうだが大丈夫かと問うて来たのに、お気遣い頂き勿体ない事ですと答えて頭を垂れた。
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