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【35】
宵闇が迫っている。
夜気は温度を失って、日中の汗ばむ陽気が嘘のように冷えて来た。
そうして、馬車の中の空気も冷え込んでいた。
先程までは隣には侍女が座っていたのだが、今は埃に塗れたローレンが座り、その長い足を持て余すように組んでいる。
クリスティナの向い側には変わらずイワンが座っており、侍女はその隣に青い顔で席を移していた。
護衛は今、ローレンの乗ってきた馬の背にいる。馬が初見の騎士に直ぐに懐いたのが可愛かった。
そんな事より、寒い。
クリスティナは車内にひやりと冷えを感じた。
確かに気温は下がって来たが、そこまで冷え込んでいる訳では無い。
それなら何故。
ああ、斜めに向い合う男達の態度が悪いからだ。クリスティナにはそれしか思い当たる節が無い。
顎を上げて対面するイワンを見下す仕草をするローレンと、藪睨みに睨みを利かせるイワン。
この二人の態度が悪いのだわ。
ほら、侍女まで怯えているじゃない。
何かこの冷えた空気を緩ませる話をしなければ。
姫君の移り気な性格には難なく対処が出来るクリスティナだが、殿方の心を慮る事には幼子並み、実力ゼロであるから、結局、男達二人の間で視線を行き来させる事しか出来ない。
流石、交渉の達人イワンが先制砲を放った。
「セントフォード伯爵令息殿、初めまして。私はクローム男爵家嫡子、イワンと申します。爵位が劣るところを先に名乗る無礼をお許し下さい。
私はクリスティナとは遠い血縁にありまして、これから我がクローム領へクリスティナを案内するところなのです。
さすれば、ご令息。貴殿は何用でここにいらした。」
「初めまして。クローム男爵令息殿。もう私の名はご存知の様ですが、セントフォード伯爵家嫡男のローレンと申します。どうぞローレンと名でお呼び下さい。
貴殿とは長い付き合いになるでしょうから、クリスティナ共々宜しく頼みます。」
互いに牽制し合うも、ふてぶてしさではローレンの方が上を行っているように思える。
「馬旅の疲れが出ておられる様だ。はて、ローレン殿、長い付き合いとは面白い事を仰る。貴殿のご生家であるセントフォード伯爵家と我がクローム男爵家は新たな事業提携も取引も無かった筈だが。」
「あのっ、イワン様!」
男達の戰場に、口で人を負かした事など一度も無いクリスティナが丸腰で参戦した。
「なんだい?クリスティナ。」
声音も優しげにイワンの眦が下がる。
「あの、イワン様。ローレン様はクローム領産のウイスキーを大変お気に召していられるのです。常に持ち歩く程に。ですから、きっとクローム領をご覧になられるのを楽しみになさっていらっしゃるのだと、」
「へえ、王城勤めが酒を持ち歩く?それは聞き捨てならないね。」
「ああ、いえ、そうではなくて。その、クローム領が私の血の始まりであるからと、」
「へえ...」
クリスティナは全くもって力量不足であった。舌戦の前線から撤退を余儀なくされた。
「イワン殿。ああ名でお呼びして構わないね。さて、イワン殿、余り私の婚約者を虐めないでくれないか。」
「「婚約者?!」」
イワンとクリスティナ、二人の声が仲良く重なる。
「「いつから!」」
再び重なる。
「今日から」
「「今日?!」」
流石は血縁、どこまでも息が合う。
驚き過ぎが一周回ってクリスティナは正気を取り戻した。
「ローレン様、幾つか質問をしても?」
「構わない、クリスティナ。」
「貴方様、今日は王城でお勤めであった筈。フレデリック殿下もアラン様もご不在で、貴方様が抜けられては文官の皆様もお困りでしょう。」
「新たな側近が配属されている。彼に全て任せて来た。心配は無用だ。」
「新たな?」
「ああ、君、聞いてないのか?君の兄上だ。」
「兄は陛下付きでは、」
「彼は初めから行く行くは王太子殿下に仕える事が決まっていた。フレデリック殿下が国王陛下に即位された暁には、最側近としてお仕えする。
これまでは国王陛下と君の父上、宰相閣下の下で学ばれていたのを、少しばかり早めて殿下付きとなられただけだ。」
「だけ...」
「それと君が今ここにいるのと何の関係が?」
息まで沈んだクリスティナに代わって、イワンが大切な事を確認してくれた。そう、そう、それよとクリスティナも頷く。
「言っただろう。婚約者が男と旅に出るのを放置する程、私は寛容では無い。」
「あの、イワン様は親戚筋の方ですわ。父にも兄にも許しを得て「私は許していないよ、クリスティナ。」
「婚約者とは何だ、巫山戯(ふざけ)ているのか?」
「巫山戯て執務を放り出す程、私は阿呆では無い。」
「え?やっぱり放り出したの?」
「引き継ぎはした。君の兄に。」
兄の顔が思い浮かぶ。可哀想に。
「戯けた話も大概にしてくれ。それでどうして君がクリスティナの婚約者になるんだ。」
「本日許しを得たからだ。」
「「誰に??」」
再三仲良く声を重ねるイワンとクリスティナに、ローレンは眉を顰めた。
「何度も言わせないでくれないか。私とクリスティナは、本日婚約を交わした。クリスティナ、待たせたね。君は私の妻になる。」
ローレンは、今まで一度も見せたことの無い胡散臭い笑顔をクリスティナに向けた。
「君等が恥ずかしげも無く私に無断で出立した後、私は君の父上に君との婚約を申し込んだ。」
「父はお勤め中であったのでは?」
「ああ、そうだ。陛下の執務室を訪ねたよ。」
「陛下の??!!」
「トーマス殿から旅に出た事を聞いてから、その足で訪ねた。」
「へ、陛下は、」
「いらっしゃったよ。当然だろう。」
「当然...」
「あ、あの、何と父に、」
「そろそろ責任を果たさせて欲しいと。」
「えっ!」
「身も心も私が既に奪っているからと。」
クリスティナは死にたくなった。
国王陛下の御前で、乙女の貞操が奪われた事実を暴露され、よりによって暴露した男は令嬢を暴いた本人で、それを宰相のいる面前で父に婚約を申し込む。
陛下の執務室には数多くの文官が勤めている。彼等にもこの話が伝わったのか。
終わった。
乙女としても貴族令嬢としても、王城勤めの侍女としても、いや人生そのものが終わってしまった。
夜気は温度を失って、日中の汗ばむ陽気が嘘のように冷えて来た。
そうして、馬車の中の空気も冷え込んでいた。
先程までは隣には侍女が座っていたのだが、今は埃に塗れたローレンが座り、その長い足を持て余すように組んでいる。
クリスティナの向い側には変わらずイワンが座っており、侍女はその隣に青い顔で席を移していた。
護衛は今、ローレンの乗ってきた馬の背にいる。馬が初見の騎士に直ぐに懐いたのが可愛かった。
そんな事より、寒い。
クリスティナは車内にひやりと冷えを感じた。
確かに気温は下がって来たが、そこまで冷え込んでいる訳では無い。
それなら何故。
ああ、斜めに向い合う男達の態度が悪いからだ。クリスティナにはそれしか思い当たる節が無い。
顎を上げて対面するイワンを見下す仕草をするローレンと、藪睨みに睨みを利かせるイワン。
この二人の態度が悪いのだわ。
ほら、侍女まで怯えているじゃない。
何かこの冷えた空気を緩ませる話をしなければ。
姫君の移り気な性格には難なく対処が出来るクリスティナだが、殿方の心を慮る事には幼子並み、実力ゼロであるから、結局、男達二人の間で視線を行き来させる事しか出来ない。
流石、交渉の達人イワンが先制砲を放った。
「セントフォード伯爵令息殿、初めまして。私はクローム男爵家嫡子、イワンと申します。爵位が劣るところを先に名乗る無礼をお許し下さい。
私はクリスティナとは遠い血縁にありまして、これから我がクローム領へクリスティナを案内するところなのです。
さすれば、ご令息。貴殿は何用でここにいらした。」
「初めまして。クローム男爵令息殿。もう私の名はご存知の様ですが、セントフォード伯爵家嫡男のローレンと申します。どうぞローレンと名でお呼び下さい。
貴殿とは長い付き合いになるでしょうから、クリスティナ共々宜しく頼みます。」
互いに牽制し合うも、ふてぶてしさではローレンの方が上を行っているように思える。
「馬旅の疲れが出ておられる様だ。はて、ローレン殿、長い付き合いとは面白い事を仰る。貴殿のご生家であるセントフォード伯爵家と我がクローム男爵家は新たな事業提携も取引も無かった筈だが。」
「あのっ、イワン様!」
男達の戰場に、口で人を負かした事など一度も無いクリスティナが丸腰で参戦した。
「なんだい?クリスティナ。」
声音も優しげにイワンの眦が下がる。
「あの、イワン様。ローレン様はクローム領産のウイスキーを大変お気に召していられるのです。常に持ち歩く程に。ですから、きっとクローム領をご覧になられるのを楽しみになさっていらっしゃるのだと、」
「へえ、王城勤めが酒を持ち歩く?それは聞き捨てならないね。」
「ああ、いえ、そうではなくて。その、クローム領が私の血の始まりであるからと、」
「へえ...」
クリスティナは全くもって力量不足であった。舌戦の前線から撤退を余儀なくされた。
「イワン殿。ああ名でお呼びして構わないね。さて、イワン殿、余り私の婚約者を虐めないでくれないか。」
「「婚約者?!」」
イワンとクリスティナ、二人の声が仲良く重なる。
「「いつから!」」
再び重なる。
「今日から」
「「今日?!」」
流石は血縁、どこまでも息が合う。
驚き過ぎが一周回ってクリスティナは正気を取り戻した。
「ローレン様、幾つか質問をしても?」
「構わない、クリスティナ。」
「貴方様、今日は王城でお勤めであった筈。フレデリック殿下もアラン様もご不在で、貴方様が抜けられては文官の皆様もお困りでしょう。」
「新たな側近が配属されている。彼に全て任せて来た。心配は無用だ。」
「新たな?」
「ああ、君、聞いてないのか?君の兄上だ。」
「兄は陛下付きでは、」
「彼は初めから行く行くは王太子殿下に仕える事が決まっていた。フレデリック殿下が国王陛下に即位された暁には、最側近としてお仕えする。
これまでは国王陛下と君の父上、宰相閣下の下で学ばれていたのを、少しばかり早めて殿下付きとなられただけだ。」
「だけ...」
「それと君が今ここにいるのと何の関係が?」
息まで沈んだクリスティナに代わって、イワンが大切な事を確認してくれた。そう、そう、それよとクリスティナも頷く。
「言っただろう。婚約者が男と旅に出るのを放置する程、私は寛容では無い。」
「あの、イワン様は親戚筋の方ですわ。父にも兄にも許しを得て「私は許していないよ、クリスティナ。」
「婚約者とは何だ、巫山戯(ふざけ)ているのか?」
「巫山戯て執務を放り出す程、私は阿呆では無い。」
「え?やっぱり放り出したの?」
「引き継ぎはした。君の兄に。」
兄の顔が思い浮かぶ。可哀想に。
「戯けた話も大概にしてくれ。それでどうして君がクリスティナの婚約者になるんだ。」
「本日許しを得たからだ。」
「「誰に??」」
再三仲良く声を重ねるイワンとクリスティナに、ローレンは眉を顰めた。
「何度も言わせないでくれないか。私とクリスティナは、本日婚約を交わした。クリスティナ、待たせたね。君は私の妻になる。」
ローレンは、今まで一度も見せたことの無い胡散臭い笑顔をクリスティナに向けた。
「君等が恥ずかしげも無く私に無断で出立した後、私は君の父上に君との婚約を申し込んだ。」
「父はお勤め中であったのでは?」
「ああ、そうだ。陛下の執務室を訪ねたよ。」
「陛下の??!!」
「トーマス殿から旅に出た事を聞いてから、その足で訪ねた。」
「へ、陛下は、」
「いらっしゃったよ。当然だろう。」
「当然...」
「あ、あの、何と父に、」
「そろそろ責任を果たさせて欲しいと。」
「えっ!」
「身も心も私が既に奪っているからと。」
クリスティナは死にたくなった。
国王陛下の御前で、乙女の貞操が奪われた事実を暴露され、よりによって暴露した男は令嬢を暴いた本人で、それを宰相のいる面前で父に婚約を申し込む。
陛下の執務室には数多くの文官が勤めている。彼等にもこの話が伝わったのか。
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