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第2話 死の森の奥で見つけた竜の棲家
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夜の森は、まるで巨大な生き物の腹の中のように静かだった。
木々の葉がざわめき、小動物の足音が時おり響く。
それ以外は、風の音すら吸い込まれるかのように消えていく。
焚き火の前で、俺は一人、簡素な野営の準備を整えていた。
神竜との契約を終えて一日。
あの瞬間以降、胸の奥に熱のような光が宿っている。
意識を向けるとそれが脈打つように動き、肉体の隅々にまで力が染み渡る感覚がした。
なるほど――神話の竜との契約とはこういうことか。
火の粉が舞い上がり、夜空へと消えていく。
星が見えないのは、森の木々があまりにも高いからだ。
神竜アルディネアの棲むこの森は、王国では「死の森」と呼ばれていた。
魔獣が徘徊し、入った者は帰らない。
だが、こうして身を置いてみれば、恐怖よりも静けさの方が勝る。
むしろ、心が妙に落ち着く。
『眠らぬのか、人の子。』
低く響く声が頭の中に流れ込んできた。
焚き火の明かりの影で、巨大な竜の金の瞳がゆらりと瞬いている。
洞窟の入り口から半ば身を乗り出すようにして、アルディネアは俺を見ていた。
「眠るよりも、知りたいことが多すぎるんだ。」
『ほう? なにを知りたい?』
「まずは、この契約だ。どうして俺なんかと契約した?」
『“なんか”とはずいぶんな言い方だな。人間よ、我が望むのは名や地位ではない。おまえの魂が“退屈ではなかった”。それだけだ。』
「退屈ではなかった、か。」
『ああ。おまえの目には怒りがあった。だが、我が目を覗き込んでも怯まず、力にも溺れぬ静けさがあった。どの王も、どの勇者も、我を見て死を恐れた。…千年のうちにそんな者は、おまえが初めてだ。』
「光栄だな。」
『謙遜もせぬ。気に入った。』
大きく鼻を鳴らすと、洞窟の奥で岩肌が震えた。
アルディネアが動くと、空気がそのまま圧になって押し寄せてくる。
息を吸うだけで、肺が焼けるように熱い。
だが俺の中の契約の光が、それを中和するように静かに流れた。
「なあ、アルディネア。ひとつ頼みがある。」
『頼みだと? 人の子が竜に何かを望むとは。聞くだけは聞こう。』
「この森を、俺の領地にしたい。追放された俺が生きる居場所として。」
『……なるほど。人は支配を望むものだが、おまえは“生きる場所を作る”と言うのだな。いいだろう。ここを汝の地と定める。』
「恩に着る。」
『だが忠告しておこう。この森は生きておる。魔力が溢れ、古き時代の残滓が眠っておる。軽々に触れれば身を滅ぼす。』
「そういう危険をひとつずつ越えてこその領地改革だ。」
思わず笑いながら立ち上がった。
火の明かりのなかで、遠くに光る湖のようなものが見えた。
水面が月光を反射している。
…いや、月など出ていないはずだ。光源のないこの森で、あれだけ輝くのは不自然だ。
「アルディネア、あれは?」
『古の泉。神々の血が落ちたと伝わる場所。今や魔力の塊よ。近づけば相応の報いがあるぞ。』
「つまり、資源ってわけだな。」
『欲深い奴め。』
鼻で笑うような吐息が洞窟を震わせた。
だが、どこか楽しげな調子だ。
千年の眠りを経て、ようやく退屈を忘れたのだろう。
俺は焚き火に枝を放り込み、火を強めた。
契約したばかりのこの力を、まだうまく扱えない。
けれど、弱い火に小さく魔力を注ぐだけで、燃え方がまったく違う。
青白い炎が、ふっと浮かび上がる。
「やっぱり、やれることが増えそうだ。」
『その気になれば、この大地すら変えられよう。』
「その前に、腹を満たしたいな。さて、狩りにでも出るか。」
アルディネアが目を細めた。
それが笑ったのかどうかはわからない。
だが確かに、俺の胸の奥にもわずかな高揚があった。
***
森の中は深く、息をするたびに空気が濃くなっていくようだった。
魔獣の気配がそこかしこに漂っている。
目を凝らせば、光を吸うような黒い狼の群れがいた。
通常の狩りなら一撃で終わる戦闘だ。だが今の俺には、別の試みがあった。
「《風》。」
呟くと、空気が揺れ、一瞬にして地面を這った。
狼たちが怯んだその隙に、俺は動かずに構えを取る。
体が勝手に力を流し、竜の魔力が手先に集約される。
まるで剣を振るう感覚だ。だが、武器は持っていない。
次の瞬間、風の刃が唸り、黒い狼の群れを一刀両断した。
血飛沫は地に触れる前に蒸発した。
……凄まじい。力の調整を誤れば、森ごと吹き飛ばしかねない。
「これで“辺境領主”か。王都の貴族たちが見たら卒倒するな。」
呟きながら狼の肉を確保し、簡易の魔導鍋に入れる。
持ち合わせの香草と水を加え、煮立たせると、思った以上にいい匂いが漂った。
魔獣の肉とはいえ、魔力を抑えれば食える。
生きるためなら、工夫はいくらでもできる。
火を眺めながらスープを口にした瞬間、少し笑ってしまった。
塩加減も完璧、香草の香りも立っている。
王都の料理人よりもうまい。
人間、極限まで追い詰められたほうが頭が冴えるのかもしれない。
『人の子よ、満足か?』
アルディネアの声が再び響く。
いつの間にか、森の奥からこちらを覗き込んでいたようだ。
その巨躯は夜と同化し、ほとんど影のようにしか見えない。
「ああ。これが辺境の味だ。静かで、良い夜だな。」
『まさか追放され、生きる喜びを見出すとは…人間とは奇妙なものだ。』
「俺もそう思う。だが、今の俺は悪くない。」
長かった王都での息苦しさが、ようやく抜け落ちた気がする。
どんな豪奢な部屋の金の椅子に座るより、この焚き火のほうが落ち着く。
「アルディネア、明日から少しずつこの森の整備をしてみたい。
人が住めるように、水と食料の循環を作って、畑をひとつ試してみたいんだ。」
『なんと、我が棲家の森を耕すつもりか。』
「森の一部だけ。静かに暮らしたいだけさ。」
『ふむ……汝、面白い。ならば、我が守ろう。森の怒りが及ばぬよう、風と水の精霊たちに言伝えよう。』
「助かる。おまえがいてくれれば心強い。」
『その代わり、人の営みを否定せぬこと。森と共に生きよ。』
「約束するよ。」
焚き火の火がぱちぱちと弾け、煙が空へと溶けていった。
夜はまだ深いが、不思議と眠気がやって来る。
スープの香りが鼻に心地よく、身体の中の熱がゆるやかに落ち着いていく。
たとえ追放されても、失ったのは名だけだ。
得たものは、自由と、未来を作る力。
そのほうが、何倍も価値がある。
俺は横になり、目を閉じた。
遠くで、神竜の穏やかな息づかいが響いている。
まるで世界そのものが呼吸をしているかのような、深い音だった。
「明日は……まず湖の方を見に行くか。」
小さく呟いた言葉が、夜風に溶けた。
それは、辺境の地の最初の夜。
そして、俺にとって、本当の“スローライフ”の始まりだった。
木々の葉がざわめき、小動物の足音が時おり響く。
それ以外は、風の音すら吸い込まれるかのように消えていく。
焚き火の前で、俺は一人、簡素な野営の準備を整えていた。
神竜との契約を終えて一日。
あの瞬間以降、胸の奥に熱のような光が宿っている。
意識を向けるとそれが脈打つように動き、肉体の隅々にまで力が染み渡る感覚がした。
なるほど――神話の竜との契約とはこういうことか。
火の粉が舞い上がり、夜空へと消えていく。
星が見えないのは、森の木々があまりにも高いからだ。
神竜アルディネアの棲むこの森は、王国では「死の森」と呼ばれていた。
魔獣が徘徊し、入った者は帰らない。
だが、こうして身を置いてみれば、恐怖よりも静けさの方が勝る。
むしろ、心が妙に落ち着く。
『眠らぬのか、人の子。』
低く響く声が頭の中に流れ込んできた。
焚き火の明かりの影で、巨大な竜の金の瞳がゆらりと瞬いている。
洞窟の入り口から半ば身を乗り出すようにして、アルディネアは俺を見ていた。
「眠るよりも、知りたいことが多すぎるんだ。」
『ほう? なにを知りたい?』
「まずは、この契約だ。どうして俺なんかと契約した?」
『“なんか”とはずいぶんな言い方だな。人間よ、我が望むのは名や地位ではない。おまえの魂が“退屈ではなかった”。それだけだ。』
「退屈ではなかった、か。」
『ああ。おまえの目には怒りがあった。だが、我が目を覗き込んでも怯まず、力にも溺れぬ静けさがあった。どの王も、どの勇者も、我を見て死を恐れた。…千年のうちにそんな者は、おまえが初めてだ。』
「光栄だな。」
『謙遜もせぬ。気に入った。』
大きく鼻を鳴らすと、洞窟の奥で岩肌が震えた。
アルディネアが動くと、空気がそのまま圧になって押し寄せてくる。
息を吸うだけで、肺が焼けるように熱い。
だが俺の中の契約の光が、それを中和するように静かに流れた。
「なあ、アルディネア。ひとつ頼みがある。」
『頼みだと? 人の子が竜に何かを望むとは。聞くだけは聞こう。』
「この森を、俺の領地にしたい。追放された俺が生きる居場所として。」
『……なるほど。人は支配を望むものだが、おまえは“生きる場所を作る”と言うのだな。いいだろう。ここを汝の地と定める。』
「恩に着る。」
『だが忠告しておこう。この森は生きておる。魔力が溢れ、古き時代の残滓が眠っておる。軽々に触れれば身を滅ぼす。』
「そういう危険をひとつずつ越えてこその領地改革だ。」
思わず笑いながら立ち上がった。
火の明かりのなかで、遠くに光る湖のようなものが見えた。
水面が月光を反射している。
…いや、月など出ていないはずだ。光源のないこの森で、あれだけ輝くのは不自然だ。
「アルディネア、あれは?」
『古の泉。神々の血が落ちたと伝わる場所。今や魔力の塊よ。近づけば相応の報いがあるぞ。』
「つまり、資源ってわけだな。」
『欲深い奴め。』
鼻で笑うような吐息が洞窟を震わせた。
だが、どこか楽しげな調子だ。
千年の眠りを経て、ようやく退屈を忘れたのだろう。
俺は焚き火に枝を放り込み、火を強めた。
契約したばかりのこの力を、まだうまく扱えない。
けれど、弱い火に小さく魔力を注ぐだけで、燃え方がまったく違う。
青白い炎が、ふっと浮かび上がる。
「やっぱり、やれることが増えそうだ。」
『その気になれば、この大地すら変えられよう。』
「その前に、腹を満たしたいな。さて、狩りにでも出るか。」
アルディネアが目を細めた。
それが笑ったのかどうかはわからない。
だが確かに、俺の胸の奥にもわずかな高揚があった。
***
森の中は深く、息をするたびに空気が濃くなっていくようだった。
魔獣の気配がそこかしこに漂っている。
目を凝らせば、光を吸うような黒い狼の群れがいた。
通常の狩りなら一撃で終わる戦闘だ。だが今の俺には、別の試みがあった。
「《風》。」
呟くと、空気が揺れ、一瞬にして地面を這った。
狼たちが怯んだその隙に、俺は動かずに構えを取る。
体が勝手に力を流し、竜の魔力が手先に集約される。
まるで剣を振るう感覚だ。だが、武器は持っていない。
次の瞬間、風の刃が唸り、黒い狼の群れを一刀両断した。
血飛沫は地に触れる前に蒸発した。
……凄まじい。力の調整を誤れば、森ごと吹き飛ばしかねない。
「これで“辺境領主”か。王都の貴族たちが見たら卒倒するな。」
呟きながら狼の肉を確保し、簡易の魔導鍋に入れる。
持ち合わせの香草と水を加え、煮立たせると、思った以上にいい匂いが漂った。
魔獣の肉とはいえ、魔力を抑えれば食える。
生きるためなら、工夫はいくらでもできる。
火を眺めながらスープを口にした瞬間、少し笑ってしまった。
塩加減も完璧、香草の香りも立っている。
王都の料理人よりもうまい。
人間、極限まで追い詰められたほうが頭が冴えるのかもしれない。
『人の子よ、満足か?』
アルディネアの声が再び響く。
いつの間にか、森の奥からこちらを覗き込んでいたようだ。
その巨躯は夜と同化し、ほとんど影のようにしか見えない。
「ああ。これが辺境の味だ。静かで、良い夜だな。」
『まさか追放され、生きる喜びを見出すとは…人間とは奇妙なものだ。』
「俺もそう思う。だが、今の俺は悪くない。」
長かった王都での息苦しさが、ようやく抜け落ちた気がする。
どんな豪奢な部屋の金の椅子に座るより、この焚き火のほうが落ち着く。
「アルディネア、明日から少しずつこの森の整備をしてみたい。
人が住めるように、水と食料の循環を作って、畑をひとつ試してみたいんだ。」
『なんと、我が棲家の森を耕すつもりか。』
「森の一部だけ。静かに暮らしたいだけさ。」
『ふむ……汝、面白い。ならば、我が守ろう。森の怒りが及ばぬよう、風と水の精霊たちに言伝えよう。』
「助かる。おまえがいてくれれば心強い。」
『その代わり、人の営みを否定せぬこと。森と共に生きよ。』
「約束するよ。」
焚き火の火がぱちぱちと弾け、煙が空へと溶けていった。
夜はまだ深いが、不思議と眠気がやって来る。
スープの香りが鼻に心地よく、身体の中の熱がゆるやかに落ち着いていく。
たとえ追放されても、失ったのは名だけだ。
得たものは、自由と、未来を作る力。
そのほうが、何倍も価値がある。
俺は横になり、目を閉じた。
遠くで、神竜の穏やかな息づかいが響いている。
まるで世界そのものが呼吸をしているかのような、深い音だった。
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