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紺碧の眠り1

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 ……。
 ……。……。
 う、うーん。
 ふああ、よく寝た。
 おや? 珍しい。お客さんだね。
 どうしたんだい、きょろきょろして。
 俺だよ、俺。君の目の前の。そう、俺。今君が指差してるのが、俺の鼻。
 何だよ、そんなに驚かなくたっていいだろう。そんなに眼を剥いてると、目玉が転げ落ちるぞ。
 まあ、びっくりするのも無理はないか。何しろ――髑髏が喋っているんだから。

 付き合って七年目の記念日を目前にしたある日、私は遠距離交際を続けてきた恋人に別れを突きつけた。そして現在の私はといえば、元恋人との別れの一週間後に見合いをした相手と、結婚に向けてデートを重ねている。
 見合いなどという制度がまだ絶滅していなかったことには、私も非常に驚いた。ましてやそのたった一回の見合いで、しかも前の恋人と別れたばかりの自分の結婚相手が決まろうとは、予想だにしていなかった。そんなにも早く次の恋へと進んでしまえるとは、自分でもあまりにも意外なことだった。
 他人事として聞けば何と心の冷たい氷の女かと、私だって思うだろう。だが悲しいかな、これは私自身の話なのだ。
 今は他人でしかない人と互いに唯一無二の恋人であった頃と同じように、朝には目覚め、出勤し、日中は仕事をして、夜には家に帰って眠る。元恋人との別れも現婚約者との出会いも、私の生活の何も狂わせはしなかった。物語ならば天罰の下りそうな悪女であるところの私には、現実には手痛いしっぺ返しなど前兆すらない。
 婚約者とは遠距離交際ではない分、そして結婚に向けて動き始めている分、「恋人とのデート」に割く時間は格段に増えた。だが、それだけだ。他には何も変わらない。私の生活も、私の仕事も、私自身も、何ひとつ。
 変わらない私は相変わらず日常を送る。周囲には元恋人のことを詳らかにしていなかったから、私の悪女ぶりを知っているのはこの世に三人だけだ。私と、元恋人と、そして私の生活圏から遠く離れた場所にいる、二人にとってたった一人しかいない共通の知人だけだ。
 このままでいいんだろうか。そう、胸の奥で気弱に疑問を呟く私がいる。
 誰かに断罪されたいわけではない。けれど、漠然とした不安がどこかにある。今ではないいつかに、誰かが私を糾弾するのではないかと。遥かな未来に行われるその弾劾は、それまでに私が積み上げる信頼や実績を根こそぎ破壊するのではないかと。
 怯えながらも、私には罪を告白するべき相手がいない。告白するべき罪もない。だから私は今夜も、やり場のない不安と罪の意識を抱えて一人で眠る。

 私は夕焼けの浜辺にいた。ごみ一つない、夕陽に赤く染められた、さらさらの砂に埋め尽くされた、現実離れして美しい浜辺に。
 ああ、これは夢だ。
 あまりにも美しいその景色に、あっさりとそう分かった。こんなに美しい、こんなにも穢れのない、私以外の誰も足を踏み入れたことのないような浜辺など、現実世界のどこを探したところで見つかるはずもないから。たとえ実在したとしても、私がそこへ辿り着けるはずもないから。
 足に突き刺さる小石の一粒もない、ただ優しい寝床のように私の足を受け止めるばかりの砂浜。それが見渡す限りどこまでも続いている。じっと立ち尽くしているのが惜しい気がして、私はいつの間にか波打ち際に沿って歩き始めていた。
 砂には所々、宝石のようなかけらが混ざっていた。深緑色や、濃い青色や、茶色や、それ以外にもいろいろな色をした破片が、あちこちで砂に埋もれていた。私は立ち止まり、深海のような青色をした一つのかけらを拾い上げた。
 それは硝子だった。ビーチグラスと呼ばれる、波に洗われて角の取れた、宝石のような硝子のかけらだった。
 もしかすると、誰かが海に投げたボトルメールが波に砕けたのかもしれない。海を漂ううちに瓶は砕け、手紙は波に揉まれて散り散りになって、ただ入れ物の破片だけが流れ着いたのかもしれない。
 誰かの悲痛なメッセージを運んでいたのかもしれない、使命を全うできずに脆くも砕けたのかもしれないその破片を、私はそっと砂浜へ戻した。そして、また歩き出す。あてどなく、目的もなく、ただ歩くためだけに。
 琥珀の中に閉じ込められたかのように静かで動きのない風景が、どこまでもどこまでも続いていた。この世の終わりまで無限の砂浜が続いているような、そんな光景だった。
 歩いているうちに、砂ではない唯一のものが視界に現れた。数メートル先の波打ち際で、何かちっぽけなものが打ち寄せる波に揺られていた。
 何だろう?
 疑問がぷかりと頭に浮かんだが、足を速めて駆け寄るほどの興味は抱かなかった。それまでと同じ速さで私は歩き続け、それの傍で足を止めた。
 それは小さな、手のひらに包んでしまえるほどの大きさの亀だった。ぜんまいを巻くとひれを上下させて泳ぐ、風呂で幼児が遊ぶようなおもちゃの亀だった。
 それはきっと、真水で遊ぶことを想定したものなのだろう。潮水に泳がせても果たしてその歯車やらゴムやらが無事でいられるのかどうか、私には疑問だ。それがなぜ、波打ち際に転がっているのだろう。誰が忘れていったのだろう。
 屈んで拾い上げるとねじに手が触れたのか、亀はじいじいと音を立ててひれを動かした。今際の際のような、弱々しい動きだった。
 亀を手に持ったまま私は少し考えた。そして、ゆっくりとそのねじを巻き始めた。
 五回巻き、十回巻き、十五回巻いた。ちょうど二十回目でかちりと手ごたえがして、それ以上には回らなくなった。
 ねじを巻き終えた亀を、そっとしゃがんで波に乗せる。そして、沖へ向かって押し出してやった。
 亀は最初じっとしていたが、すぐにぱたぱたとひれを動かし始めた。沖へ向かって、波に逆らいながら泳ぎはじめる。浜へと押し返されては沖へと運ばれ、少しずつ、少しずつ、沖合へ出て行く。
 そのちっぽけな姿が波と見分けられなくなる寸前に、くるりと向きが変わったように私には見えた。別れを告げるように。感謝して、最後にお辞儀でも残していくように。だが確かめようと眼を凝らしても、もう亀の小さな姿は波間に消えた後だった。
 沈みかかる夕陽の最後の光が、私のいる浜辺へ一筋の光を投げかけていた。帯のように。あるいは、一本の道のように。
 夕陽の作り出した道にか、それとも海へ返したあの亀にか。誘われるように、私は海の中へと踏み入っていた。
 冷たくも熱くもない水が、重たい空気のようにまとわりつく。一歩、また一歩と足を踏み出すたび、海はどんどん深くなる。
 いつの間にか、腰まで海に浸かっていた。それでも私は歩くことをやめず、更に前へ、深みへと足を踏み出していった。
 もう肩までが水の中だった。首に、顎に、さらさらと波が当たっては流れていく。
 もう一歩、踏み出した足元には海底の確たる感触がなかった。あれ、と思う間も無く、体は前のめりになっていく。後ろに残していた足も、海底を離れてふわりと浮いた。海面が目の前に迫る。浮遊感が体を包む。一瞬のはずの出来事がやけに長く、このまま永遠に浮かび続け、倒れ続けるような感覚に囚われる。  
 そして私は覚醒した。

 元恋人と出会ったのは、大学三年生の冬だった。 
 私は女友達と二人連れで、元恋人は彼の男友達と二人連れで、それぞれに長崎へ来ていた。観光しようと立ち寄る先々で出くわし、「また会いましたねー」と笑いながらお互いのカメラのシャッターを押した。ついでのように交わした会話のなかで同学年と知ってからは、敬語を抜きにした砕けた話し方になった。
 なんの偶然か、その夜の宿に着いてみるとその二人組も同宿だった。あまりの偶然に四人で笑って、これも何かの縁とメールアドレスの交換をした。夕食後は、ロビーでいろいろな話をした。
 翌日には私と友人は佐賀へ向かい、彼らは私たちが前日に回り終えた島原へ向かった。不可思議な縁もそれで終わったはずだった。
「無事に家に帰りついたよ」
「僕らはまだ旅行中。明日は阿蘇に行くよ」
 そんな風に始まったメールのやり取りがなぜか途切れずに何ヶ月も続いた頃、「東京の大学院に進学を考えているので、来週そっちに行こうと思います。時間があったら会わない?」というメールがやってきた。結局彼はその大学院へは進学しなかったから、もしかするとそれは会う口実のためのささやかな嘘だったのかもしれない。
 初めてのデートは都内の水族館だった。魚を見て、イルカショーを見て、夕飯にはオムライスを食べた。次のデートでは広島へと二人で旅行して、安芸の宮島へ渡って、厳島神社を見て、鹿に小突き回されて、やっぱり水族館へ行った。二人でどこへ行っても、その土地に水族館があれば必ず立ち寄った。
 二人は興味の対象がとても似ていて、行きたいと思う場所はいつも同じ場所で、やりたいこともやりたくないことも、好きなものも嫌いなものも、些細なものから深刻なものまでとてもよく似ていた。住んでいる場所も育ってきた環境も、何一つ共通していないのにもかかわらず。
 彼の存在は私のなかで、とても大切でありながらひどく曖昧だった。私の周りに実体として生活している人々は、誰も彼のことを知らない。たった一人彼のことを知っている、あの旅行で一緒に彼と出会った女友達には、彼との交際を結局伝えずじまいだった。聞かれたら答えようと、あるいは彼女に恋人ができた時に話そうと思っているうちに、言い出せないままに、私と元恋人との恋愛は終わった。
 全ては私の妄想なのではないかと、メールも電話も私の一人芝居なのではないかと、二人で出かけたと思っていた旅行は私が一人で行って一人で笑っていただけなのではないかと、元恋人の実在を疑ってしまうことが度々あった。そんな考えが何度も頭を過ぎるほど、元恋人は私の実生活から遠く離れたところにいた。
 共有するものがあまりにも少なく、共通点と類似点だけは嫌になるほどあった。それでうまくいくカップルもきっと沢山いるのだろうけれど、私と彼の場合にはそうはなれなかった。そんなふわふわと曖昧な存在と、私は人生最大の恋をした。

 見合いをした数日後の夜、私は奇妙な夢を見た。元恋人が好きだった中原中也の書いた詩「湖上」のような夢だった。静かな、それほど不思議ではないけれどとても非現実的な、そんな夢だった。
 広い広い湖かもしれない。それとも、凪いだ海かもしれない。鏡のように凪いだ水面に、薄ぼんやりした小舟と二人の影だけが映っていた。
 私はただ座っていた。私と向き合って座っている人が、櫂を漕いでくれていた。沖へと私を連れ出してくれていた。
 沖へ沖へと、私たちを乗せた小舟は進んでいく。それに従って、あたりは少しずつ、少しずつ、暗くなっていった。
「僕がここに来るあいだは、雨が降っていたんだ」
 ほろん。櫂から滴る雫が、優しい音を奏でた。
「いつの間に、雨は止んだんだろうね」
 ちろん。櫂からまた雫が滴った音。櫂を漕いでいる人は、よしなしごとを独り言のように語り続けている。
 いつの間にか、相手の表情さえ見えなくなっていた。それほどあたりは暗かった。
「随分暗くなったね」
 今気づいたかのように言って、その人はまた櫂をひと漕ぎした。私は何も答えず、それを聞いていた。
「君は、僕のことなんて忘れてしまうんだろうね」
 付き合っていた頃にも聞いたこともなかった拗ねたような口調で、元恋人の声が言った。私は何も答えず、それを聞いていた。
 漕ぐことはやめないで。
 私の声に出さない願いが聞こえているように、顔の見えない男はぽつりぽつりと語りながらも櫂を漕ぐ手を休めることはしなかった。
「貴女は、僕のことを本当に愛してはくれないんだろうね」
 数日前に知り合ったばかりの婚約者の声が、咎めるでもなく笑いを含んだ声で言った。私はやはり何も答えずに、それを聞いていた。
 もっと遠くへ連れ出して。浜辺に、岸に、置いてきたものから遠ざけて。彼らが追いついてこられないように。私が彼らのもとへ戻れないように。
 やはり押し黙ったままで、私は祈るようにそう願っていた。夢の中の曖昧な心で、痛いほどの切実さで、私は望んでいた。
「もっと遠くへ行きたいね」
 私の心の声が聞こえているように漕ぎ手は言って、また一漕ぎして小舟を沖へと誘った。そうねと、私は声に出さずに呟いた。
「二人で生きていられる場所まで、漕いでいけるかな」
 自信なさげな頼りない調子で、顔のない男が言った。
 分からない。私はやはり、声には出さずに答えていた。
 分からないけれど、それが可能ならいい。別離に胸を痛めずに済む場所へ、二人揃って行けたらいい。
「そろそろ戻らないと、戻れなくなるね」
 私を試すように、誰なのか判然としない男は笑った。
 戻れなくていいよ。私はやはり、心のなかでそうだけ答えた。
「戻れなくても、君はもう構わないのだよね」
 私の心を見透かしたように漕ぎ手は言って、静かに笑い声を立てた。
 「もう」とは、どういうことだろう。そんな疑問が浮かんだが、言葉にはならなかった。
 ざぶりと、前触れもなく大きな波が横合いから立ち上がった。そして、羽毛布団のような優しさで私たちの乗る小舟を飲み込んだ。
 小舟が水の中に沈んでも、顔の分からない男は何事もなかったかのようにゆるやかに櫂を動かし続けていた。私も何も言わずに、ただ小舟に座っていた。柔らかに引き伸ばされた沈黙の中で、二人はもう何も語らなかった。
 影のようにしか見えない男は、いつの間にか漕ぐことをやめていた。私がそれを咎めるよりも早く、その人は身を乗り出して口付けてきた。冷たくも温かくもない、温度のない口付けだった。
 全てを飲み込んでしまいそうに大きな月影が、口付けてくる人の肩越しに揺らめいていた。その眩しい光が、開けたままの私の目に焼きついた。

「先輩、お聞きしても良いですか!?」
「どうしたの?」
 後輩が慌てふためいて話しかけてきたので、私は仕事の手を止めて振り返った。まだ学生っぽさの抜けきらない五つ年下の女の子は、おろおろとした表情で書類を手にしていた。その肩越しに、彼女が対応してくれているらしい来客がカウンターの向こうに腰掛けているのが見える。
「今いらしてるお客様なんですけれど、ええと」
「とりあえず落ち着いて。はい、深呼吸」
「は、はい」
 促すと、後輩はおとなしく一度深呼吸をする。そしていくらか落ち着きの戻った表情で報告を始めた。
 決して無能でも覚えが悪いわけでもないのだが、どうにもパニックに陥りやすい面がある子だ。落ち着いて考えれば自分で答えを出せる様子なのだが、実際以上に問題を複雑に考えてしまって、分かるはずのことまでも分からなくなってしまうらしい。
 今日もまた、そうであるらしかった。確かに込み入った問い合わせだが、落ち着いて一つひとつ順番に確認すれば分かるものだ。
「じゃあ、一緒に確認しましょうか」
「すみませええええん……」
 しょんぼりとする後輩に安心させるように笑いかけ、私は席を立った。来客に会釈しながら通り過ぎ、壁際のキャビネットを目指す。
 この後輩を「自分でよく考えずに質問をする」と陰で悪く言う同僚もいるが、私個人は彼女のことが嫌いではない。決して「よく考えていない」というわけではないし、まだ入社して一年も経っていない時期なのだから、多少の慌てぶりは大目に見てあげていいと思う。
 むしろ不確かなままで仕事を進めて大きなミスをされるほうが、後々困ってしまう。今はまだ、少しのあいだ自分で考えて、分からなければすぐに質問に走るくらいでちょうどいい。
 元恋人は、考えて、考えて、結局何も言えなくなる人だった。自分の中で問題をひねくり回した挙句、自分の中で結論を出してしまう人だった。結論も過程も外に出してくれない人だった。
 言葉にしてくれなければ分からないのに。言葉にしてくれないと、私も何も言いようがないのに。そんな言葉足らずな元恋人と会うことも、もう二度とない。

 私は暗い水の中にいた。
 見渡す限りが静かで深い青色で満たされていた。深く遠くどこまでも続く、紺碧の海の中に私はいた。私は仰向けに、その暗い水の中を沈んでいっていた。
 ずっとずっと上の方に、青く輝く水面が見えていた。鏡のようなそれのすぐ上には酸素に満たされた水色の空があり、緑を抱く大地が聳えているのを私は知っていた。
 もっと深みへ行きたい。
 あぶくのように浮かんだ望みのままに、私は頭を後ろに倒した。足を上に、頭を下に、どんどん、どんどん、沈んでゆく。大地から、慣れ親しんだ世界から、私を知る人々のいる場所から、離れていく。誰もいない場所へ、誰も私を知らないところへと、沈んでいく。
 透明な海月たちが、ゆらりゆらりと傍を泳いでいた。
透き通った笠が止まり掛けの心臓のようにゆっくりと脈動している。気だるげに水を吸い込んでは吐き出す。その度に、レースの端切れのようなその体が水底へと押し込まれて行く。
 ビーズを連ねたようなあまりにも細く儚い彼らの脚は、ゆらりと水中に投げ出されている。力なく投げ出されたそれらは、運命の糸のように互いに絡み合い、もつれ合っていた。
 しかばねのように揺蕩いながら、深みへと、もっと暗くて静かな場所へと、私は沈んでいく。海月たちと、深海の月たちとともに。
 惰性的にゆらりゆらりと、私は足を動かし続ける。行くあても目的も何も私にはなかった。ただただ、より深い水底へ、より暗い場所へ、より静かなところへ行きたいという、漠然とした厭世観だけを抱えていた。
 いつの間にか、私は水を蹴ることさえやめていた。ただ深淵にさし招かれるまま、浮力に見放されたまま、光のない場所へと沈んで行く。暗く静かな場所へと降りていく。
 ゆらりと大きな影が揺らめいた。それに驚いたわけではないけれど、私は半ば閉ざしていた目を開けた。
 大きな、とても大きな鯨が、いつの間にかすぐ傍を泳いでいた。鯨は小島さえ飲み込んでしまいそうなその口を開けて、海月の一群をがぶりと飲み込んだ。私の指の数センチ先にゆらめいていた海月たちが、鯨の大きな口に飲み込まれて消えた。
 残された海月たちは慌てもせず、逃げもせず、相変わらず漫然と揺らめいている。達観しているのだろうか。全てを諦めてしまっているのだろうか。それとも、何も考えてはいないのだろうか。私と同じように、ただ沈んで行きたいとだけ願っているのだろうか。
 鯨はまた口を開け、海月たちを飲み込むだろう。私が逃げなければ、鯨は海月とともにこの身を呑みこむのだろう。
 まあ、いいか。この大きな大きな、ひとつの世界のように大きな鯨に飲み込まれて終わるのも、悪くない。結論付けるというにはあまりにも茫洋とした思いで、私はそう考えていた。
 鯨がまた口を開けるのを私は他人事のように眺めていた。その大きな口を私は覗き込でいた。
 そして私は覚醒した。
 
 私は海月が嫌いだ。
 ふよふよと何も考えずに、ただ惰性のままに揺らめいて、波のうねりのままに漂う。漂う中で何か悲惨を見て達観しているのか、世の儚さを悟っているのか、自分自身の体の脆さを知っていて全てを諦めてしまっているのか、世捨て人のように倦みきってしまっているのか。そんな風に思わせる、あの無抵抗な生き方が嫌いだ。
 私はそんな風には生きられないから。どうしても先のことを心配してしまって、行動しなければと気が急いてしまって、ただ有りのままに任せていることは苦痛以外の何物でもないから。海月のようには決して生きられないから、妬ましくて、憎らしくて、私は海月が嫌いだ。
 思い返してみると、元恋人にもどこか海月的なところがあった。行動した結果として現状が悪化することを怖れ、希望を口に出さず願望を隠して、流されるままに生きているようなところがあった。
 私も元恋人もそれぞれの場所で正社員として仕事を持っていて、それぞれにまあまあ順調にキャリアを重ねていて、どちらにも転職する意思がなかった。別居婚にでもしない限りは、あるいはどちらかがどちらかを説得して転職に踏み切らせない限りは、結婚生活を始めようがなかった。
 世間の慣例で言えば、私が仕事を辞め、彼の元へ行くべきだったのだろう。けれど、私にはそうする決意がどうしてもできなかった。
 言い訳がましいが、元恋人の態度にもその一因はあった。元恋人は一度も私に、「仕事を変える気はないか」と打診してもくれなかった。ただ「仕事はどう?」と問いかけては、「楽しいよ」「やりがいがすごくあるの」と答える私を優しくて少し悲しそうな眼で見返して、そして深くは触れずに別の話題を持ち出すばかりだった。
 私が仕事のことをとても楽しそうに話してばかりいたからかもしれない。私が仕事にとてもやりがいを感じていることを、現在の仕事を辞めたくはないと思っていることを、元恋人は敏感に汲み取ってくれていたせいかもしれない。私のほうでも、元恋人がそれを察してくれることを期待してそんな態度を取っていたのだから、原因の一部はやはり私にもある。
 もしも彼からプロポーズされていたら。「仕事を辞めて、僕のところに来てほしい」と、一度でも言われていたら。私はもしかしたら、今の仕事を捨てる決意ができたのかもしれない。
 仕事にやりがいがあって辞めたくないというのは、言い訳でしかない。それがこの街でしかできない仕事なのかと問われれば、答えは否だ。同業種の事業所を彼の働いている地方都市で探したっていい筈だった。また別の業種の、長く働ける職場へ転職してもいいはずだった。
 けれど、彼はそうしてくれなかった。デートのたび、電話で声を聞くたび、メールを受け取るたび、私は心のどこかでいつも期待していた。「今の仕事を辞めてくれ」という言葉を、「結婚しよう」という一言を。
 初めはきっとひと悶着あったことだろう。私が反発して、彼も反論して、付き合っていた間に結局は一度もしたことのなかった喧嘩を、その時初めて盛大に開催したかもしれない。けれどそれは、私が自分の人生を見直すためには必要不可欠な段階だった。私と元恋人が共に生きようとするならば、欠くことのできない通過儀礼だった。なのに、彼は何も言い出してはくれなかった。
 それが私には何よりも、本当は許せなかったのかもしれなかった。切り出すことを怖れ、ただ現状を維持し続けるばかりの元恋人のことが、愛しいゆえに許せなかったのかもしれなかった。私から言い出すのを待っているような彼の態度が、何よりも許せなかったのかもしれなかった。
 結局、結婚だとか転職だとかについての対話を一度も行うことはないままに、私と彼の恋は終わった。

「ごめんね、せっかく来てもらったのに、寝てて」
 友人は小声で謝りながら、まだ髪の生えそろわない彼女の赤子の頭をそっと撫でた。「気にしないで」とやはり小声で答えながら、私はその母親らしい手付きを見ていた。
 祝日の今日、私は出産を無事に終えて家に戻ったばかりの友人を見舞っている。出産直後で少しばかりやつれてはいるが思っていたよりも元気そうなその様子に、私は胸を撫で下ろしていた。素直にそれを伝えると、彼女は「ご心配ありがとう」と笑った。
「そっちも元気そうで一安心。彼氏さんとはどう?」
「まあまあよ。今は二人で手分けして、式場探しをしているところ」
「結婚の準備は大変よね。私でよかったらなんでも聞いてね」
 結婚の大先輩の言葉は心強い。赤子の寝ている部屋から隣室へ移動して、お茶を飲みながらとりとめのない話しをした。始めは結婚や出産に関する経験談を聞いていたが、徐々に世間話になっていく。友人の配偶者に対するささやかな愚痴を苦笑しながら聞いていると、隣室から小さな声がした。
「んぇえ、ええぇ」
「ああ、起きちゃった」
 友人は機敏に立ち上がると、隣室へ入っていった。私も思わず腰を浮かせたが、追いかけても無礼にならないものかと迷ってしまう。
「うぁー、あ、あ」
「よーしよし、いい子ね。泣かないの」
 赤子を抱いてあやしながら、友人がすぐに戻ってくる。立ち上がりかけたままの私が眼で追っていると、泣き止んだ赤子から顔をあげた友人と眼が合う。いたずらっぽい眼で微笑まれた。
「抱っこしてみる?」
「え?」
「はい、腕出して」
 戸惑っている間に、半ば強引に赤子を渡される。慌てて落とさないように抱きなおした。
 暖かくてぐんにゃりとした生き物を、おずおずと抱く。特有の甘酸っぱい香りがした。
「そうそう、上手」
「なんだか怖いわ。赤ちゃんて壊れ物みたい」
「怖くないって」
 あははと笑う友人の腕に、そっと赤子を返す。母親の胸に戻った赤子は、安心したような表情で眠りについていた。

 ……ああ、誰かと思えば、あの嬢ちゃんか。久しぶりだな。しばらく見ないうちに別嬪になったなあ。
 え? 骸骨に褒められても嬉しくない? じゃあもう二度と褒めてやらん!
 私を口説くなら花束なり何なり用意しろ? ……いい性格に育ったな、嬢ちゃん。
 しかし、冗談もお世辞も抜きで、嬢ちゃんは別嬪になったよ。まあ、俺の恋人ほどじゃないがね。
 俺の恋人が海に沈んだときも、ちょうど嬢ちゃんくらいの年だったよ。
 え? 俺に恋人がいたなんて初耳だ、って? いちゃ悪いか。
 そうだな、今日は彼女の話をしようか。
 彼女はお日様よりも眩しい、綺麗な金の髪をしていた。広い世界のどの海よりも青い眼をしていた。肌は雪のように白く、手は白魚のようで、あかぎれ一つなかった。そう、彼女は身分が高かった。
 俺は貧乏な水夫でしかなかった。彼女のほうは、その港町では一番良い家のお嬢様だった。結ばれるはずもないのに、どうしようもなく惹かれあってしまったんだ。
 彼女には兄貴が二人いて、事あるごとに俺のところへ来たよ。彼女と別れろ、と命令しにな。殴られたこともあった。
 俺がせめて水夫でなければ、たとえば商人か何かだったなら、あるいは結婚を認めてもらえたのかもしれなかった。けれど、俺は船乗り以外の何にもなりたくなかった。世界の海を巡る生活を、彼女と同じくらい愛していたんだ。
 海を渡った先には、見知らぬ世界がある。海のこちら側では想像もできないような世界が広がっている。そうしたものに、どうしようもなく俺は心を惹かれていたんだ。
 嬢ちゃんには分からんだろうが、男ってのはそういうもんさ。あるか無いかも分からない物を求めて、居心地のいい場所をとびだしちまう。そんな馬鹿げた生き物なのさ。
 彼女と恋仲になってからも、俺は何度も船旅に出た。戻るたびに彼女とこっそり逢引をした。なけなしの金で買った土産を手に、二人だけの秘密の場所へ行った。
 だが、あるときその港町に帰ってみると、彼女は町のどこにもいなかった。
 俺は町中を探した。彼女の家にも行ってみた。けんもほろろに、水をかけられて追い返されたがね。
 彼女は遠い町へ、貴族の息子の元へ嫁いだんだと、みんなが口を揃えて言った。俺と結婚することは諦めて、身分にあった結婚に納得して、その町で幸せに暮らしているんだと言った。
 俺には、どうしても信じられなかった。いや、信じたくなかった。彼女が俺を見限ったなんて思いたくなかった。そんなことを彼女がするとも思えなかった。
 一人だけ、彼女は死んでしまったんだという奴がいた。意に沿わない結婚をさせられることに、自分の死をもって反抗したんだという奴がいた。彼女は自分で自分の足を縛って泳げないようにして、海に身を投げたんだという奴がいた。
 俺には、それも信じられなかった。彼女は結婚を反対されたからって、自分から死ぬようなタイプじゃなかった。何年かけてでも家族を説得すると意気込んでいた。芯の強い、意志の強い、綺麗なだけじゃない、とても良い女だったんだ。
 ……え? ならば何で、彼女が海に沈んじまったと断言するのか、って?
 知ってるからさ。
 そのときは知らなかった。二つの話のどちらが本当なのかなんて、俺にはそのときは分からなかった。
 だがずっと後になって、どちらが本当だったか確かに分かったからさ。

 昔から何度も繰り返して見ている不可思議な夢がある。その夢のルーツと思われる記憶も、私にはある。
 それは幼いころに訪れた、どこかのテーマパークのアトラクション。いろいろなオブジェのあるいくつかの部屋を巡っていくタイプのもので、「その部屋」に至るまでに港での出航や嵐の海での沈没を経験したはずだ。
 そのアトラクションがてくてくと自分の足で歩いていくウォークスルー形式だったのか、それとも小舟か潜水艇を模した乗り物に揺られていくライド形式だったのか、それはもう思い出せない。とにかくそうした小部屋の一つに、その髑髏はいたのだ。
 そこは青色の光に満たされた、深い海の底を模した部屋だった。遠景には壁画か模型か、穴の空いた船底をさらけ出した沈没船が朽ちかけている。その沈没船から転がり落ちたという設定なのか、数歩近づけば触れられる距離には鈍く光る金貨や宝石の詰まった宝箱が蓋を開けている。その箱の陰からは機械仕掛けの深海魚が時折そっと顔を出して、猜疑に満ちた目を怪しく光らせて、けれどすぐにまた身を隠してしまう。
 そしてその宝箱を見張るように、細かな砂の上にぽつりと放り出されて、一つの髑髏がこちらを見据えていた。機械仕掛けの顎をかくかくと上下させて、その髑髏は言葉を発した。
『よう、来たのかい。お若いの』
 そんな光景を、私は確かに見た覚えがある。驚くほどの鮮やかさで、それは私の記憶に焼き付いている。
 だが両親に尋ねてみても、「あったかもねえ、そんなのも」という程度のあやふやな答えしか返ってこない。自分と両親のおぼろな記憶を辿って旅行案内やテーマパークのホームページを調べても、それらしいアトラクションの情報は見当たらない。もしかすると、とっくに取り壊されるか、あるいは大きくリニューアルされてしまったのかもしれない。
 だがその印象があまりに強烈だったらしく、今でも私は折に触れて、海の底で髑髏と話をする夢を見る。見渡す限りが紺碧に透き通った、深海の夢を。
 太陽の影さえ届かないその深海は、本来ならば真の闇に包まれているのだろう。けれど私の夢の中では、その場所はひたすらに青く澄んでいる。青色をした闇の中に、その髑髏は私を待っている。
 暗い二つの眼窩の奥で、小さな深海魚たちの無数の目がちかちかと光る。いくつかの歯が欠けた顎がぱかりと開くと、生者の舌よりもなお紅い海老がゆるりと這い出し、気だるげに砂へ潜っていく。空気ではなく水を伝わって、髑髏の声は私に届く。
『よう、嬢ちゃん。また来たのかね』
 そして髑髏は語り始める。結ばれるはずのなかった、彼には身分違いの恋人の話を。悲しい、寂しい、恋の話を。
 私はそれを、相槌を打ったり口を挟んだりしながら聞いている。そんな夢を、私は時折見るのだ。
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