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二十億光年の面影【後編】

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 その星では霧のような細かい雨が降っていた。雨は地球の雨と違って色を帯びていて、辺り一面が薄桜色をしていた。遥か遠くに煙る山脈が見えていた。
 望遠鏡を設置しているピクシーの背中を見ながら、私はぼんやりしていた。記憶までも崩し霞ませてしまいそうな雨に抱かれて、私は立っていた。
 崩れてしまうなんて嫌だ、忘れてしまうのは嫌だ。私は彼を忘れたくないから、こうして玉響の面影を追いかけて宇宙をも旅をしているのに。
 早くとピクシーを急かしたい気分だった。早く彼の面影を見せて、と。この雨に記憶の中の面影まで洗い流されてしまう前に。
 私の声にならない祈りを知ってか知らずか、赤い草地の上に望遠鏡を据え付けたピクシーが、私を振り返った。
「どうぞ」
「ありがとう」
 私は礼を言って、また望遠鏡に目をつけた。さっきと同様にねじを操作し、彼の面影を探す。
 ピントが合う。辺りは暗かった。またさっきのバーかなと考えたが、私の予想はあまりにも甘かった。
 彼は一人で夜道を歩いていた。彼の背中を車のライトが照らした。
「駄目!」
 思わず伸ばした手は空を掻いた。あまりにも遠い場所で、私の手の届かない時間で、彼は為す術も無く車にはねとばされ、宙を舞い、地面に叩き付けられた。
 声も出なかった。動く事も出来なかった。私はただ、命の消えゆく彼の横顔を見ている事しか出来なかった。
 雨はますます酷くなり、私を包み込むように降る。私は桜色の雨に抱かれたまま、望遠鏡に目を押し付けたまま、いつのまにかしゃくり上げていた。通夜の席でも葬儀の時にも火葬場でも出なかった涙が、今になってようやく溢れ出した。
 彼は死んでしまった。二度と手の届かない場所へ去ってしまった。理解したつもりでいた事を理解していなかったと、私はようやく悟った。
「次の星へ行くかい?」
 ピクシーの言葉に、答える事もできずにただ頷いた。

 それから幾つの星を巡っただろう。
「そろそろ戻らないと、君の惑星に朝が来るよ」
 望遠鏡から目を離して振り返った私に、ピクシーは機先を制して言った。けれど地球に朝が来ようが来るまいが、私にはどうでも良かった。
「良いの。だから、もっと遠くに連れて行って」
 帰れなくて良い。目覚めなくて良い。彼の居ない地球でまた目を覚ますくらいなら、このまま宇宙の果てまで行ってしまいたい。ブラックホールに吸い込まれて、帰れなくなってしまいたい。そんな私の頑な表情を見て、ピクシーは仕方がないというように肩を竦めた。
「……あなたは、帰らなくても良いの?」
 定位置となった運転席の隣の席に座って尋ねると、ピクシーはまた寂しげに笑った。
「もう、帰る場所がないんだ」
 予想だにしなかった答えに、私は瞬いた。そんな私をちらりと横目に見て、ピクシーは寂しげな笑顔のまま言葉を継いだ。
「私の惑星は、隕石の衝突で木っ端微塵になってしまったんだ」
 ピクシーの言葉は淡々としていた。その三つの目は乾いていた。もう流すだけの涙は流してしまったとでも言うように。
「生き残ったのは、宇宙に居た私だけなんだ」
「どうして?」
 思わず私は口走っていた。私にはわけが分からなかった。
「あなたみたいに宇宙へ出ることはできなかったの? 他の星へ避難することは? どうして誰もそうしなかったの?」
「分からない」
 ピクシーは溜め息のように言って、また計器を操作した。殆ど無意識のように計器を操作しながら、ピクシーは半ば独り言のように続けた。
「分からないんだ。考えても考えても答えは出ない。誰も答えを教えてはくれない。あの人の面影を追って、行けるところまで行ったけど、もう面影にも追い越されてしまった」
 寂しそうにピクシーは結んで、それきり黙って宇宙船の操縦をしていた。その横顔を見ながら、私はぼんやりと考えた。彼らはなぜ衝突を予知できなかったのだろうと、なぜ滅亡を避けられなかったのだろうと。
 宇宙へ逃げ出す事は出来なかったのだろうか。母星を棄てる決心がつかなかったのだろうか。安住の地を求めて宇宙を彷徨うくらいならと、母星と共に滅ぶ覚悟を決めてしまったのだろうか。
 だとしたら、それはあまりにも酷い。このピクシーだけを広すぎる宇宙に置き去りにして、自分たちだけ勝手に滅びてしまうだなんて。たとえこのピクシーが大罪人でその罰だったとしても、罰があまりにも重すぎる。
 ある計算に寄れば、宇宙の半径は四六五億光年だという。谷川俊太郎が『二十億光年の孤独』という詩を書いた当時は二十億光年だと思われていた宇宙の広さは、今の計算ではそれより遥かに広いと言われている。このピクシーもまた、このあまりにも広い宇宙でどこまでもどこまでも孤独なのだ。
 幼かった私とピクシーが出会ったのは、魂に同じ孤独を、その萌芽を抱えていたからかもしれない。喪った人の面影を宇宙の果てまで追い求めようとする無謀で愚かな寂しがりや同士だったから、それをピクシーが見抜いていたから、あんな約束を交わし、こうして再会したのかもしれない。
「着いたよ」
 静かなピクシーの声に私は我に返った。
「この星には陸地がないから、着陸は出来ない。でも、小島に降りる事は出来るよ」
 そう言って、ピクシーはハッチを開けた。

 薄紫色の粘性の海は濃い青色をした岩に打ち寄せている。ピクシーはその岩の小島に望遠鏡を据え付けると、私に場所を空けるために宇宙船に戻った。
 望遠鏡を覗き込んで慣れた操作をすると、彼の在りし日の姿がレンズに映った。服装からするに、今よりも季節が一つか二つは前の光景だった。私は嬉しくなった。
 彼は仕事をしているところらしかった。難しい顔をしてパソコンと向き合っている彼の姿を、私はじっと見つめていた。
 いつの間にか潮が満ちてきて、私は膝まで海に浸かっていた。生温かくてどろりとした粘性の海が私の足に絡み付いた。
「あまり長居は出来ないよ。海に沈んでしまう」
「うん……」
 いつの間にか宇宙船の中へ戻っていたピクシーに警告され、私は上の空で返事をした。レンズの向こうでは、彼が退社するために片付けを始めていた。
顎に波が当たっても、私は望遠鏡から目を離せなかった。
「もうそろそろ、ここを離れた方が良い」
「待って。あと少し」
 次の星でもきっと彼を見る事は出来ると分かってはいても、私は望遠鏡から目を離せなかった。見るのをやめた途端に彼の面影が記憶から消えてしまいそうで、二度と彼を見つけられなくなりそうで、私は憑かれたようにレンズを覗き続けた。
「危ない!」
 切羽詰まったピクシーの声で、私はようやく望遠鏡から目を離して振り返った。途端、ざぶりと波が私を呑み込んだ。
 薄藤色の水の中で私は目を見開いていた。無数の気泡の一つひとつで彼が笑っていた。懐かしさに胸を締め付けられる。そのときいつか彼が言った言葉が、水と一緒に耳に流れ込んできた。
 ――君は生きろよ。
 そう。いつだったか、彼は私にそう言った。
 どんな話をしていた時だったろう。『ロミオとジュリエット』だとか、そういった物語について話していた時だったろうか。どちらかが必ず先に死ぬ事について、私と彼は話し合った事があった。
 ――俺が居なくなっても、君は生きろよ。
 私は何と言っただろう。彼の言葉に、私は何と答えただろう。分からない。もう思い出せない。玉響の面影を追いかけ追い求めてここまで来たけれど、記憶はあまりにも遠い。
 こぽりと、私はまた空気を吐き出した。大きな気泡の中で、彼が笑っていた。
 その時ぐいと腕を掴まれた。海面へと引き上げられる。
「だから言ったのに!」
 ピクシーは怒りながら私を宇宙船へ引き上げてくれた。私が掴んだままだった望遠鏡を有無を言わさずに取り上げて床に置く。
「精神体だから溺れないにしても、安全な訳じゃないんだよ? 解ってる?」
 叱りつけるように言うピクシーを私はぽかんと見つめていた。そんな私を見てピクシーが眉をひそめる。
「どうしたの? 気分が悪い?」
「ううん。大丈夫」
 私は首を振って否定して、立ち上がった。私の髪や服から水はとろとろと床へ伝い落ち、私の全身は見る間に乾いていった。足下の水溜まりを見ていると、粘性の水は意志を持っているかのような滑らかな動きでハッチから海へ戻って行った。
「次の星へ行く?」
 尋ねるピクシーの顔を、私は暫くじっと見ていた。そして、首を横に振った。
「ううん。もういい」
 帰ろう。もう彼の居ない地球で、それでも目覚めよう。彼が、それを私に望んでいたから。
「もう気は済んだんだね?」
「気は済んでないけど、もう大丈夫」
 確認するように問い掛けるピクシーに私は微笑んだ。宇宙の果てまで行っても、きっと私の気は済まない。できることなら永遠に彼の面影を追い続けたい気持ちはまだ残っている。けれどそれを彼が望まない事も、今の私には解っていた。
 生きろと私に言った彼は私が永遠に眠ったままで面影を追い求める事など望まない。私が目覚めて、起きあがって、彼の居ない現実に立ち向かっていく事を彼は望む筈だ。
 だから、もう良い。面影を追い求めるのは、もうおしまいで良い。そんな私の本心を探るようにじっと目を覗き込んできていたピクシーが、やがて肩の力を抜いた。 
「君がいいなら、そうだね。帰ろうか」
 運転席に向かいながらピクシーは独り言のように言った。風に溶けそうなぽつんとした声だった。
「ここからもう少し先に、私の星はあったんだ」
「そうなの?」
 もうそんなに遠くまで来ていたのかと思うと同時に、地球とピクシーの星は案外近かったのかとも思った。どちらを思えば良いのか、私には分からなかった。
「こことは違う太陽系だけれどね。この星から君の惑星と反対方向に向かうと次に出会う太陽系の中にあったんだ」
 計器を操作して床の出入り口を閉じながら、ピクシーは言葉を続けた。私はその隣へ腰掛けながら、大きな窓の向こうに広がる薄藤色の海をもう一度見た。
 海は静かに波打っていた。沖の方に、私がさっきまで立っていたのと同じような青い小島が見えた。
「この惑星に生物は居ない。生物の痕跡も見当たらなかった。だが、この海自体が一つの知的生命体なんじゃないか、という研究があったんだよ」
「……へえ」
 まるでスタニスワフ・レムの小説『ソラリスの陽のもとに』のような星だ。私の率直な感想はそれだった。
 惑星ソラリスの思考する海は、地球からソラリスの研究のためにやってきた学者たちの心の傷を深々と抉った。主人公ケルビンの言葉を借りれば「その他の記憶からはもっとも孤立していて、脳の中に一番強く刻み込まれている記憶」を学者たちの脳から選び出し、それを実物以上の正確さで再現する事によって。
 故意にしろ偶然にしろ、この星の海は惑星ソラリスの海よりもずっと優しい。私に、私が忘れていた彼の言葉を思い出させてくれた。私に生きる力を与えてくれた。
 ――ありがとう。
 私の心の声が聞こえたかのように、海が一際大きく波打った。

「ちょっとここで休憩して行こう」
 そう言ってピクシーは計器を操作した。宇宙船は従順な犬のように大人しく下降を始めた。
 行きにも立ち寄った星だった。あの桜色の雨が降っていた星だった。淡い桜色のもやの中で赤色の草が一面に広がっている。あちらこちらには宝石のように透き通った無数の花が咲き乱れていた。
「さっきは気付かなかった。綺麗なところだね」
「ああ、そうだね」
 私のやや間抜けな感想にピクシーは微笑んで頷いた。
「この星には、誰か住んでるの?」
「君の惑星の『虫』のような生物ならね。だが、私や君とコミュニケーションが取れる生物は居ない」
 私の問いに、ピクシーは少し寂しそうに笑って答えた。そのまま続ける。
「この星だけじゃない。私が訪れたすべての星々の中で、私がコミュニケーションをとれる生物が居たのは、君の惑星だけだよ」
「……そうなんだ」
 寂しいね、と続けようとして、言葉を呑み込んだ。そんな事は言わずもがなの事だったから。ピクシーの寂しさは今に始まった事ではないから。
「私もこの惑星は好きだよ。綺麗で、静かで、穏やかだ」
 私が呑み込んだ言葉を知ってか知らずか、ピクシーは笑っていた。相変わらず少し寂しげだが、穏やかな笑顔をしていた。その笑顔のままで、私を促した。
「……そろそろ行こうか」

「着いたよ」
 ピクシーの声に、私ははっと我に返った。正面の窓を見ると、青い惑星が私を出迎えていた。
 地球までの道のりは思いのほか短かった。私が物思いに耽っている間に、いつの間にやら着いてしまった。
 名残惜しい思いで立ち上がるとピクシーが計器を操作した。今度は床ではなく、壁の一部が開いて出入り口を作った。
 私はぐずぐずとした足取りで出入り口へ向かった。出入り口に手をかけて振り返ると、立ち上がってついてきてくれていたピクシーと目が合う。
「それじゃあ、さよなら」
「ああ、さようなら」
 柔らかな笑顔を浮かべて、ピクシーは答えた。そのままあっさりした口調で続ける。
「もう会わない事が、君の幸せなんだろうね」
 そうかも知れない。面影を追いかけたいなどとは二度と思わない方が、幸せな人生なのかもしれない。けれどピクシーとの別れは、少なくとも私には寂しかった。自惚れかもしれないが、ピクシーも寂しがっているように見えた。
「遊びにおいでよ」
「悪目立ちしてしまうよ、私と君達はずいぶん見た目が違うから」
 私が誘うとピクシーは笑った。諦めたようでもない、さらっとした笑顔だった。
「でも……」
 寂しいでしょと訊く前に、ピクシーが微笑んだまま手を伸ばして私の肩に触れた。
「私は大丈夫」 
 その言葉とともに、とん、と宇宙船の外へ押し出された。視界一杯に、暗い宇宙と無数の星の輝きが広がる。
 手を振るピクシーの姿が、瞬く間に遠くなる。私は流れ星のように落下して、地球の重力に抱きとめられた。

 目を開けてまず目に入ったのは、天井ではなかった。
 父が、母が、白衣姿の知らない男が、私を覗き込んでいる。母に至っては目を泣きはらしてハンカチを握りしめていた。
「……」
「……」
 私は思いがけなかった光景にびっくりして、相手はいきなり目を開けた私に声も出せないほど驚いて、暫く無言で見つめあっていた。ややして自分を取り戻した私は、まだ声もでない両親と白衣の男に間抜けな声をかけた。
「お、おはよう?」
 そこからひと騒ぎあった。
 母は「良かった、良かった」などと言いながらまた泣き出す。父は「心配掛けさせやがって」と悪態をつきながら涙を拭う。白衣の男は苦笑しながら私を起き上がらせて、脈拍や熱をテキパキと測った。
 起きあがってようやく気付いたが、そこは私の家ではなかった。どうも病院らしかった。
 後でようやく落ち着いた母から聞き出したところによると、私は丸一週間眠り続けていたらしい。初めは「お葬式の疲れが出たのかしら」と放っておいてくれた両親も、二日目、三日目ともなれば焦り始める。眠り病でも発病したか、さもなくば睡眠薬自殺でも測ったかと、眠ったまま病院へ担ぎ込まれたのが四日目。それから三日間、私は医者に「どこにも異常はないんですがねえ」と首を傾げさせながら、点滴を打たれたり検査をされたりしていたらしい。
 目覚めからの大騒ぎが一段落した後、私は両親に付き添われて家へ戻った。翌日は平日だったから、私は四の五の言う暇も無く日常に戻る事になった。
 他の人たちから見れば、私は七日間の「眠り病」の間に恋人の死と折り合いをつけたように見えるだろう。長い長い眠りは恋人が世を去ってしまった現実と折り合いをつけるためのものだったのだと。
それが事実に肉薄しているが決定的に違う事は、私だけが知っている。
 黄色い色を見る度に、私は一人ぼっちのピクシーを、宇宙から見れば一瞬でしかない七日間の旅を思い出す。これから先、きっといつまでも。
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