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26 取り戻したい日常。
しおりを挟む葵が戻ってきて最初の朝がきた。
目覚めると、いい匂いがした。
美味しそうな匂い…。
起きると葵がキッチンに立っていて、俺の弁当を作っているようだった。
「おはよう。」
葵はぎこちない笑顔でそう言っていた。
早く…元気な葵の姿が見たい…。
でもやっぱり、今はこれでも十分だ。
俺は葵のそばに行くとそっと抱きしめ「おはよう」と挨拶を返した。
それから洗面所に向かい色々と済ませ、キッチンに戻るとまた葵を後ろから抱きしめた。
「夜、何か食べたいものはある?」
「…唐揚げが食べたい。」
「わかった。それじゃ作って待ってるね。」
ちゃんと…味を感じることはできるだろうか…。
でも今鼻に届く匂いはちゃんと美味しそうだと感じていた。
「何かつまみ食いしたい。」
「お弁当のおかず?」
「そう。」
「玉子焼きでいい?」
「うん。」
葵は玉子焼きを一切れ箸で掴むと、俺の口元に運んだ。
…。
泣きそうになった。
美味しい…。
ちゃんと味がする…。
「…美味しくなかった?…失敗しちゃったかな…。」
葵の不安そうな声が聞こえた。
「…美味しいよ。」
俺はまた葵をぎゅっと抱きしめた。
支度を済ませると、コーヒーだけを飲んで、葵が作ってくれた弁当を持ち会社へと向かった。
会社に着くとすぐにあいつの所へと向かった。
その途中で白石の姿を見つけ、2人で話せるところへ連れ出した。
「どうしたの?泥棒さん。
僕から盗んだ大切な2つのものを返しにきてくれたの?」
「は?」
「葵と僕のパソコン。返しにきてくれたの?ヘタレくん。」
…。
「…ちゃんと退職願いは用意したか?来月中には退職しろよ。」
「昨日の今日だよ?まだに決まってるでしょ?
転職活動もしなくちゃいけないし、忙しいんだよね。それに僕、今失恋中なんだけど。誰かさんが僕の葵を取り上げたから。ちょっとは優しくしてよね、腑抜けくん。」
クソ…。
「元々お前の葵じゃねーだろ。…ちゃんと約束は守れよ。」
「僕の…葵なのに…本当に君はいじわるだね。」
「約束しただろ。」
「……わかってるって。あーあ、僕の葵なのに。
やっと手に入れたのに。もう僕…立ち直れないよ。今日だって本当は休みたかったくらいなのに。」
「そもそも付き合うの諦めるって前に言ってただろ。」
「…そんなの無理だよ。諦められるわけないじゃん。僕葵のこと本当に大好きなんだよ?愛してるんだ。きっと君が好きになる前から。僕の方が君よりも葵のことが絶対に大好きになのに。この気持ちは誰にも負けないのに…。僕の方が君よりももっと先に、葵を見つけたのに…。」
“愛してる”…
お前はそれを葵に伝えたのか…?
俺が気恥ずかしくてなかなか言えなかった言葉を…
「どっちが先とか関係ないだろ。それにもっと他にやり方があったんじゃないのか?相手の気持ちをもっと考えろよ。怖がらせてどうすんだよ。」
「…だって…僕はわからない…。
それに葵を守れなかったヘタレくんにそんなこと言われたくないね。君なんかより僕の方がよっぽど葵を大切にできるのに。守れるのに。僕は君みたいにヘタレでも臆病者でもないからね。
あーあ、心配だな。こんな男で葵は幸せになれるのかな。」
クソ…
「僕の方がよかったって、葵がそう思う日が来ればいいのに。そうしたらいつでも迎えに行くのに。」
「諦めろ。」
「……もうこの話はいいや。悲しくなっちゃうから。それより僕のパソコンだけでも返してよ泥棒さん。葵との大切な思い出が詰まってるんだ。」
「…もう破棄した。」
「…僕の…宝物だったのに…。
葵との思い出…僕にはもうそれしかないのに…
それまでも君は僕から取り上げるんだね。
君に人の心はあるの?」
あいつはそれからもぶつぶつと何か言いはじめたから、俺は自分の部署へと戻った。
俺は、昨日あいつから言われた言葉がずっと頭の中をぐるぐるとしていた。
ー「悲しそうな葵をよく1ヶ月半も放っておけたね。僕だったらそんなこと絶対にしない。」ー
ー「君は葵と一緒にいる資格はない。君は葵を幸せになんてできない。」ー
クソ…
ー「葵のことを守れなかったんだから。」ー
クソクソクソクソッ。
俺は自分を責めた。
クソ…
あいつの言う通りだ…
何で俺は…
俺は…葵を守れなかった…。
ー「俺が守るから。」ー
今までに何度か俺は葵にそう言った。
なのに…
クソッッッ。
昼になり休憩室へ向かうと弁当を広げた。
…。
…そういえば…冷蔵庫にはまともな食材はほぼなかったはず…
でも弁当の中身は充実していた。
朝はそのことに気がつかなった。
そうだよ…
俺は葵が出て行ってから何にも食材は買っていない。ただ大量の酒だけを冷やして、食材のことなんか何も見えていなかった。
きっと腐ったものや、賞味期限切れのものばかりだったはずだ。
なのに目の前の弁当は…
玉子焼き、肉と玉ねぎを炒めたもの、ほうれん草のおひたし、プチトマト、ウインナー…
それから別のタッパーには季節の果物…
近所に24時間スーパーがあるから、朝からそこに行ったのだろうか…
そう考えると鼻の奥がツンとした。
葵…
食べてみるとどれも美味しかった。
ちゃんと味を感じられた。
それだけで幸せを感じ、また心が温かくなった。
早く…帰りたい…。
早く帰って葵を抱きしめたい。
葵の存在を実感したい…。
仕事が終わると急いで家に帰った。
ドアを開けると部屋は明るく、人がいる気配を感じ、それがとても嬉しかった。ずっと静かで暗い部屋に1人で帰っていたから…。
「あ、おかえり。お疲れ様。」
…。
嬉しい…。
家に葵がいる。
葵はまたぎこちなく笑っていた。
それでもちゃんと葵はそこにいた。
もう電気が点いていても眩しいとは思わなかった。テレビの音もうるさいとは感じなかった。
それに…部屋もキレイになっていた…。
今朝まではテーブルの上には空き缶が何本もあって床にもそれが転がっていた。
俺はその光景を見慣れすぎて、朝は何とも思っていなかった。
でも今、キレイになった部屋を見て散々だった今朝までの部屋を思い出した。
脱ぎっぱなしで溜め込んだ洗濯物もない。
「葵…」
「ん?」
「ごめんな。片付けてくれてありがとう。」
「ううん。気にしないで?」
葵はそう言うと、またぎこちなく笑っていた。
2人でテーブルを囲う。
葵は今朝よりは少し元気になっているように見えた。安心した。
それから俺は気になっていたことを聞いてみることにした。
「スーツケース以外の荷物はどうしたの?」
「あ…実家に送ったの…。」
「そっか。休みの日にでも取りに行こうか。」
「すぐに必要なものはないから大丈夫だよ。」
「…わかった。」
俺はその言葉を聞いて不安になった。
胸がぎゅっと締め付けられた。
元々身軽だった葵が、今はスーツケース一個ですぐにでも出ていける状態だ…。
もしかしたら葵は…
頼む…出て行こうだなんて思わないでくれ。
俺はそう思いながらも会話を続けた。
「今日の朝、わざわざスーパーに行ったの?」
「うん…昨日琉佳くんが私のご飯が食べたいって言ってくれたから、お弁当作りたくって…。」
「ありがとう。すごく美味しかった。久しぶりにちゃんと食べたよ。」
「…。」
「葵?」
「……ごめんね…。」
葵の表情が曇った。
…違うんだ…
責めてるわけじゃないんだ…
「謝らないで。」
「…。」
「俺は今、こうやって葵と一緒にごはんが食べられてすごく嬉しいんだ。」
「…うん…。」
少し悲しそうにしながら葵は笑っていた。
もう…そんなふうに笑わないで欲しい…。
「今度、手巻き寿司が食べたい。」
「手巻き寿司?」
「そう。美味しいし、楽しかったから。」
「うん。そうだね。手巻き寿司楽しかったね。」
「あとグラタンも食べたいな。」
「わかった。今度作るね。」
葵は少しだけ笑った。
でも…
時々葵は、遠くを見るようにボーッとして、苦しそうな表情をしていた。
俺はそんな葵の姿を見て、フッと消えてしまうのではないかと不安になった。
そう思ってしまうほど今の葵は脆く、すぐにでも崩れてしまいそうに見えた。
俺は毎晩葵を抱きしめて眠りについた。
葵に俺の体温を感じて欲しかった。
ちゃんと俺がそばにいることをわかって欲しかった。
ある時、夜中にふと目が覚めた。
鼻を啜るような音が耳に入ったからだ。
腕の中にいる葵の体は強張っていた。
俺はそんな葵をぎゅっとした。
「…泣いてるの?」
「…。」
「大丈夫だよ。俺がそばにいるから。」
「…。」
「葵?」
「…本当に…私琉佳くんのそばにいていいのかな…。」
葵の、あの今にも消えてしまいそうに見える原因…。葵の頭の中では、ずっとそんなことがぐるぐると駆け巡っているんだ…。
ここを出ていこうと考えているのかもしれない。
「当たり前だろ?葵の居場所はここなんだから。俺なんだから。」
葵はやっぱり泣いていた。
俺は抱きしめながら葵の手を取り握った。
「葵の居場所はここ。ここ以外のどこでもない。わかった?」
「…うん……っ…」
葵はこの後何度も俺に謝っていた。
その悲痛な声が、俺の胸を締めつけた。
「葵。大丈夫だから。もう自分を責めたらだめだよ。」
俺は葵に声を掛け続けた。
そんな葵を見て、俺はまた自分を責めた。
もっと早く…葵を連れ戻すことができたはずなのに…
そうしたら葵がここまで傷つくことはなかったのに…
朝起きると葵はいつも通りにしていた。
大丈夫だろうか…。
会社に行くために身支度をしていると、葵が後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
葵は何も言わなかった。
でも…不安でこうしてるのではなく、まるでありがとうと言われているかのように感じた。
次の日も葵はいつも通りだった。
大丈夫かな…。
でも俺が心配そうにすると、きっと葵はそれを気にする。また自分を責めるかもしれない。
だから俺もなるべく“いつも通り”を心掛けて葵に接していた。
葵が戻ってきてから、俺はまだ一度も抱いていない。葵が抱かれることに対してどう思っているかわからなかったから。
もしかしたら嫌がるかもしれない。
あからさまに嫌がらなかったとしても、我慢しながら俺に抱かれるかもしれない。
そんなのは嫌だった。
だから自然とお互いが求め合うまで待つことにした。
また…葵は遠くを見つめていた…
やっぱりその姿は今にも消えてしまいそうに見えた。俺は不安になってすぐに葵を抱きしめた。
「…やっぱり…私はここをーー」
「葵、好きだよ。」
葵が俺から離れようとしていることがわかった。
だから俺はその言葉を言わせないように、葵の言葉に被せるようにそう言った。
「…。」
「好きだよ…葵…。」
「…ごめん。でも私ーー」
「好きだ葵。好きだよ。俺と一緒にいて欲しい。俺は葵がいないとダメなんだ。ご飯もろくに食べられなくなる。腑抜け状態になる。俺には葵が必要なんだ。だから俺と一緒にいて欲しい。葵の居場所はここ。葵の居場所は俺。どこにもいっちゃだめ。」
俺は葵にこれ以上何も言わせないように矢継ぎ早にそう言った。
「…………っ…」
葵の体に力が入った。
微かに震えている。
泣いている…。
そのうちに葵は呼吸を詰まらせながら泣いていた。
俺はただただ…葵を力強く抱きしめていた。
仕事が終わり葵と家に帰る。
今日は買ってきた弁当を2人で食べ、葵が先にシャワーを浴びに行った。その次には俺が。
リビングに戻ると葵は明日の弁当の準備をしていた。そんな葵に俺は後ろから抱きつき、あごを掴むと顔をこちらに向かせキスをした。
久しぶりのキスだった。
俺は舌を絡ませた。
ちゃんと葵は応えてくれた。
気持ちいい…
葵…
葵…
しばらくそうやってキスをしてから、俺は葵からそっと離れた。
土曜日になり葵と家でゆっくりと過ごしていた。
「葵、今日は一緒にお風呂に入ろうか。」
「…。」
「葵?」
「…ごめん…まだ…」
「まだ?」
「ごめん…」
やっぱり…抱かれたくないのか…。
「なにもしないよ?ただ一緒に湯船に浸かって、ゆっくりするだけ。」
「…違うの…。」
「なにが?」
「…まだ…消えてないの…。」
消えてない…?
…。
あいつがつけたキスマークか…。
「電気消したら見えないよ?」
俺は葵の肌と直接触れ合いたかった。
「ごめん。」
それでも葵は断った。
無理強いはしたくなかったから、それ以上は何も言わなかった。
いつかまた…前のように戻りますように…。
2人で笑い合って、求め合って…
そんな日常が戻ってきますように…。
俺はそんなことを切に願っていた。
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