DEAR ROIに帰ろう

紫野楓

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 いつも職権を利用して僕に紅茶を淹れるように指図するマダムは、今日はとてもにこやかな顔で、「お使いに行ってきて欲しいの」と言った。

「お使い?」

 僕は反射的にとぼけるように首を傾げたけど、マダムはにこやかな笑顔を絶やさなかった。初老のマダムはふくよかで、ふわふわした白髪混じりのボブが可愛い。二十歳過ぎたら可愛いなんて言葉を誰かに投げかけるものじゃないって、シズクさんが言っていたけど、たぶんマダムは可愛い。そして、絶対シズクさんもマダムのことを可愛いと思っている。そうじゃなきゃ、違う生き方をしている二人が、今も夫婦円満であるはずがない。笑うとできるえくぼと一緒に、ほうれい線の皺が浮きでる。それがまた、なんだかほっこりするんだ。

 この人は魔女だ。関わる人がみんな幸せに見えるから。

 僕は心の中で深い溜息を吐く。次の言葉はだいたい予想できた。

「『秋のお菓子屋さん』へ行ってきて頂戴」

 やっぱり。少なくとも月に一度は絶対にこの言葉を聞く。

「秋のお菓子屋さんって、隣町じゃないですか」

 僕はもう決まり文句になった言葉をマダムに返した。

「そうね」

 カウンターの向こうに座っているマダムは僕に淹れさせた紅茶の香りを楽しみながら適当な相槌を打った。店内のBGMは昼下がりの午後にぴったりな、ゆったりとしたコントラバスのJAZZ。優雅なまどろみを、人のいない店内でマダムだけが味わっている。

「自転車で十五分くらいかかりますよ」

「ケーキを買ってくるのに自転車なんてありえないわ、徒歩で行ってきて頂戴」

 あ、今回はケーキを買ってくるんだ。

「それにマダム、夕方には雨が降りそうです」

「そんなことないわ。あんなに晴れてるじゃない」

 マダムは彼女の背中越しにある大きな窓を指差して言った。中世ドイツの建築物をちょっと柔らかくしたような格子の入っている窓から見える景色は確かに晴れだった。春を迎えかけた外の街並みは日差しを浴びてさんさんとしていたし、石畳の道に照り返っている空の色は水色だ。

 でもそういうことじゃない。僕には分かる。絶対に雨が降る。季節外れの夕立かもしれない。空気の香りがそう教えてくれている。

「じゃあこれ、大きいアップルパイを一つと、クロワッサンを二つ買ってきて」

 マダムはがま口の小さい小銭入れを僕に差し出す。僕は渋々それを受け取った。アップルパイはいつものことだから忘れることはないだろうけれど、クロワッサンを二つはちょっと引っかけだ。忘れないようにメモを取る。僕は手に馴染んだボールペンを唇に当てながら、ふと顔を上げてマダムを見た。

「ケーキはいいんですか」

「ケーキはいいの」

「じゃあなんで自転車はダメなんですか」

「ダメだからダメなの! どうせ羽黒町へ行くには長い坂を越えなくてはいけないでしょ。坂を越えるのなら自転車より徒歩のほうがずっといいわよ。つまりそういうことなの、でしょ?」

 それは僕のさじ加減だと思うんだけど、と言う言葉をのみ込む。いつもの『美しいから』とか『醜いから』とかそういう謎のこだわりなんだろう。

 エプロンを脱ぎながら店の裏の物置場の方へまわった。エプロンの代わりに黒のピーコートを羽織る。マフラーは要らない。傘も要らない。行きはちょっと駆け足で、雨が降る前に帰ってきてしまおう。大丈夫、急ぎ足でいけば間に合うはずだ。がま口の小銭入れをピーコートのポケットにしまった。

 表へ出る前に鏡の前を通り過ぎる。僕は一瞬だけ、と自分の顔を覗き込んだ。顔はなんだか幼い頃から変わっていない気がする。自分ではなかなか分からない。でも指先とか、口元とか、そういう小さな場所はやっぱり年月と一緒に綻んでいるのかもしれない。僕の人差し指は一年前より皺が増えた気がするし、僕の口元は一年前より寂しくなっている気がする。

 僕は今、大体の人が納得するようなありきたりさの中で生きていると思う。

 相応に死んじゃおうかなと思った時もあった。相応に、生まれてこなければよかった、って、思った時もあった。自分の過去を思い出そうとすると嫌な気持ちになってしまうから、あんまり考えたくない。でも僕を救ってくれた『あの子』のことまでを忘れたくはないから、今でも自分の髪が長すぎるほどに長かった昔のことを思い出さずにはいられない。昔なんて言ったらマダムに怒られる。まだそんなこと言う歳じゃない、って。だけど僕は昨日の僕より若くない。もちろん一昨日の僕よりも。

 僕の髪は短い。サイドは長めでふわふわだけど、マダムがその方が似合うっていうから、じゃあそうしようかなって。僕は男で、もうすぐ20で、大学生だから、僕の髪が短いことに対して誰もなんとも思わない。

 僕は溶け込んでる。日常に。ありきたりな毎日に。大半の人が納得するような姿で、僕は生きてる。これは僕が望んだ毎日で、『あの子』が僕に与えてくれたものだから。






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