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Ⅱ
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しおりを挟む「いい香りがする」
翔が僕の首筋に顔を寄せていった。息がそこに当たって体が跳ねる。
「甘い焼き菓子の香りと、ミントの香りが混ざってる」
息を吸う音が耳のすぐ近くで聞こえて、鋭敏になった僕の感覚はそれに過剰なくらい感じてしまう。体に上手く力が入らない。
顎を掴んでいた彼の手が、そのまま僕の右の頬に流れていく。
「真っ赤」
翔がいたずらに言う。
僕はなにも言えなかった。雨で濡れた髪を梳かれる。
一瞬またツボを突かれるんじゃないかと身構えたけれど彼の手はコットンみたいに優しく僕の頬を包むだけだった。
翔は僕をずっと見ていた。
僕の右頬と耳の間をずっと見ていた。
「あ、あの……」
僕は気まずくなって声を掛ける。言葉の続きはもちろん考えてない。
「この傷どうしたの」
翔が神妙な顔で言った。
僕の右側のこめかみには、雷みたいな模様の傷痕がある。古い傷だけれど、今も痕は薄く残っている。たぶんずっと消えない。普段は髪で若干隠れるから、そんなに指摘されたことはないし、遠目では分からないくらいだ。もはや僕の一部になっている。だから改めてこの傷のことを聞かれたことは、本当に久々か、初めてくらいのものだった。
でもこんなに近付かれたら流石に気づかれてしまうのは仕方がない。
なにも返事をしない僕に、彼は催促するようにもう一度、どうしたの、と囁いた。
心の中を覗き込むような翔の瞳に、僕は言葉を詰まらせる。
僕はどう言おうか、と熱っぽい頭で考えた。
あんまり言いたくないけど、言いたくない、と言えない。言いづらくて、嫌な時は言ってね、とさっき彼は言ったけど、僕は嫌なことを嫌と言うのが得意な方ではない。さっきみたいに信じられないほど痛いことをされたら話は別だけどさ……いやでも、相手が違っていたら、あんなに怒ることは、できなかったかもしれない。
翔になら怒ってもいいって、心のどこかで思っていたのかもしれない。
「小さい時に……」
言葉に乗せると、紐解くように簡単に記憶が溢れてくる。僕は目を閉じた。やばい、と思って深く呼吸しようとする。上手くいかない。手に力が入る。
「小さい時についた傷なんだね」
翔の声が真っ暗な視界の隅から聞こえてきた。どうして。波紋になって揺れる過去が僕の息を詰まらせる。あの時感じていた感情を言葉にするのは難しい。だって感情は言葉じゃないから。言葉でないものに形を与えると存在しているもののように思えて苦しい。
「……石に当たっ、て……」
口は開くのに、声がなかなか出てこなかった。声を出そうと意識すると、言葉にしようと思っていたことを忘れていく。視界がぐらぐらした。
僕は、この日のことを、今初めて、誰かに語ろうとしている。
「石に当たったんだ、痛かっただろうね」
「うん、痛かった……」
「自分から当たったの? それとも誰かが当てたの?」
「投げら、れた」
「酷いことをする人もいるんだね、じゃあ優月は石を投げられたんだ」
苦しいのに、思い出したくないのに、翔が言葉を返してくれると、堰き止められていた気持ちが濁流みたいに押し寄せてくる。僕は、口を開かずにはいられなくなっていった。
「そう……気付いたら、血だら、けだっ、た」
背中をさすられていた。あったかくて、冷えた体がぽかぽかして、なんか変な気持ちだった。吐きそうなのに、酷く安心する。怖いのに、もっと話したいって、心の隅で思わせられる感じがした。
夏の日だったな。あの頃は、僕は一人で川辺に座っていたんだ。
毎日毎日それの繰り返しだった。川と、祖母の家を、たった一人で往復していた。なにもすることもなく川のせせらぎと自然の匂いと空気を感じていた。それだけ。なにもなかった。
僕は生まれてこなければよかったのにと実母に何回か言われたけれど、別に死にたいとは思っていなかった。
でも生まれ変わりたいと思っていた。そればかり考えていた。
もう一度お母さんのお腹の中からやり直したい。ワンピースや、長い髪が似合う子どもに生まれ変わりたい、って。そうしたら、お母さんも、お父さんも、きっと僕を捨てなかったって、ずっと思っていた。
だけど僕のこめかみに傷がついた日から、なにかが変わっていったんだって、今になって思う。
この日がなかったら、僕は『あの子』と出会うことはなかったと思うから。
『あの子』がくれたありふれた日々を、僕は過ごしていきたい。
「優月」
抱きすくめられた。温かい。目を開けられた。彼の肩口が視界いっぱいに広がる。
気付いたら、目から生暖かい水みたいなのが、ぼろぼろ流れていた。
「続きはまた今度、聞かせて……苦しいのに、教えてくれてありがとう、優月」
ありがとう、と彼が喋る。振動が伝わる。呼吸に合わせて穏やかに揺れる体を感じた。体の緊張がみるみる弛緩していく。
ここは、僕の部屋だと分かる。
もっと喋りたい。聞いて欲しい。助けて欲しい。って。
思うのに。
僕の、口は。
動かない。
僕はこんなことをするために生きてるんじゃない。
だけど、体が動かない。動きたくない。
彼の胸の中に、ずっといたいって思っちゃったよ。
こんなのは違う。こんなのは。
こんなのは『あの子』がくれた『ありきたりな日常』とは程遠い。
僕たちって普通じゃないよ。なんで出会ってすぐの素性も知らない男の人に、こんな事話して泣かなければならないのか。
僕が、弱虫だからだ。情けない。
嫌だ、嫌だこんな僕は。
こんな僕は嫌だ。
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