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「あなたは……」

「たくさんくどいたのに、あさにはいなくなってたの……ひどいな」

 口説いた、というのは言葉だけで、執拗に傷だらけの腕や体に欲情された記憶しかない。彼はうみと名乗った。血が見えないと性的興奮しないんだよね、と無感情に言っていた……。春人は彼と寝た後、底知れない不気味な恐怖を感じたのを覚えている。まるで海の底に沈んでいくような、重くてゾッとするような寒気と畏怖に溺れそうだった。それに呑みこまれたら、もう後戻りできない遠い場所に引き摺り込まれてしまう気がした。

 それで、少し目を閉じてからすぐに逃げるようにホテルを出たんだった。

 たぶん最近感じていた視線の正体は海だ。

 杞憂でなければ先ほどミチルと勉強していた時も彼に見られていたんだ。

「さてはICHIKA……死にたいのでは?」

 海はまるで春人がさっき自分の腕を噛んだのをしっかり見ていたかのように言った。

「ぼくはいいましたね……ほら、死にたくなったら、おしえてと」

 春人は無視することにした。

 この場から離れようと海に背を向けて歩き出す。路地裏の先のビルとビルの間はすごく狭い幅で、人が二人並んだら肩がぶつかってしまうくらいの隙間なのに、海は音もなく春人を通り越して道を塞ぐ。まるで黒猫のようだった。

「ICHIKAはイツザイだとおもうのです……ぼくがほれたくらいなので……」

 長身な海は春人の顔を覗き込むように身を屈めて、浮き出た二つの目を細めた。笑っている。

 春人は思わず後ずさった。

「ぼくが殺してあげるので……げいじゅつてきに……」

 目の前にいるのに耳もとで囁かれているような感じがする。

「いつもみています……ICHIKAがそのきになったら、すぐにつれていけるように……?」

 海から距離を取った。

「ずっとみているね……?」

 海が笑っている。暗闇に紛れて見えなくなったのを見て、春人は背中を向けて駆けだした。しばらく走って後ろを振り返る。海の姿も視線も見えない。

 だけど、もしかしたら見られているかもしれない。

 早く狭い部屋で独りになりたい、と強く思った。




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