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 春人は視線だけ海を見た。彼はいつもと変わらない髪型に黒のマスクをしていた。ただ目だけは恍惚に満ちている。確かに紫のベビードールがお気に入りでよく身にまとっていた。自分にしっくりくるとなんとなく思っていた。それに……紫は母が好きな色でもあった。


「でも一番似合うのは白」


 顎を掴んでいた腕が離れる。とすん、と春人の頭の重みくらいの重力がかかって、シーツの上に頬から落ちていった。

 脇に手を差しこまれたと思ったら、軽々と上半身を起こされる。春人は膝を折って座り込んだ。腕をシーツについてなんとか上半身を起こそうと腐心する。普通にできたことが難しい。後ろで海が支えてくれなければ体を起こしているのも難しい。

「……みて、ICHIKA。きょうのこのひのために、オートクチュールの、ICHIKAのベビードール……にあう……」

 春人は壁に張り付いている大きな姿見に映る自分を見て目を見張った。

「……綺麗でしょう?」

 オフホワイトのベビードールを身にまとっている。いつの間にか海に着せ替えられていた。袖の真っ赤だったワイシャツはもうない。キャミソールの紐にはささやかなレースがフリル状になって添えられていて、胸元にはシフォンの上にきめ細かい綺麗なレースが重ねられている。胸のすぐ上から裾が広がっているので、胸板が強調されることはない。

 広がる裾にも上品なレースがちりばめられている。スリットがないのでほんとうにワンピースのようだった。膝上で止まった裏地の上に、膝下まで届くレース生地はギャザー仕立てで裾が緩やかなスカラップになっている。まるで高級なカーテンのようだった。

 少しも妥協のない細かいレースは鈴蘭がモチーフになっていて、模様はテーブルクロスのように艶やかだった。ネックコルセットもベビードールとお揃いであり得ないくらい品がある……僕が着るなんておこがましい。自分の見たくない部分が目立ってしまいそうで嫌だ。想像通り露わになっている腕は硬化し、変色して傷と血だらけで壊滅的に不釣り合いだったし、体中の切り傷が無様に浮き上がっていた。肢体は細すぎてベビードールの柔らかい印象とはほど遠く、小さくおさまってしまっている。でも拒絶する権利も力も春人にはなかった。

「かがみからめをそらさない」

 海の黒い左手が春人の顎を持ち続ける。右手がそっとベビードールの裾に入り込んで春人の肌を滑っていく。太ももから始まり、腰、脇腹、胸。

「……ん、っ……」

「かんじてる」

 体は動かない割に感覚は敏感だった。なにかがおかしい。

 顎を掴んでいた手が口に入ってくる。指で舌を弄ばれ、爪を立てられる。顔をしかめた。血が混じって赤くなった唾液がしとどに口端から顎を伝って下に落ちていって、白のベビードールを朱に染める。こんな綺麗な白のレースの上に、まるで椿の花のように、ぽたりぽたりと落ちていく薄い朱色の唾液が、今はなんだか恨めしい。




 
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