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一 偽りの女帝は男装少女を寵愛する
1-3
戸惑いながらも、翠蘭は扉にそっと手をかけた。だが、この先のことを考えると緊張が一気に高まり、なかなか手を動かすことができない。
そんな翠蘭の背に向かって、宦官は「なにをしておる、はようせぬか」とせっついてくる。
「陛下がお待ちなのだぞ」
若干苛立たしげなその声に、「うるさい」と心の中でだけ威勢よく返すと、翠蘭は扉をじっと睨みつけた。
(この中に、いるんだ……)
緊張で呼吸が浅くなる。乾いた唇を軽く舐め、翠蘭は大きく息を吸い込むと扉にかけた手に力を込めた。
だが、それよりも一瞬早く、中から勢いよく扉が開かれる。そうかと思えば、鮮やかな襦裙の袖を翻し、長い腕が翠蘭の手を掴んだ。
「えっ」
思わず間抜けな声を上げると同時に、その手がぐいっと翠蘭を室内に引っ張り込む。
「遅い、ぐずぐずするな」
「え、ええっ」
たたらを踏んだ翠蘭に向かって、情け容赦ない言葉が浴びせられる。
そっと視線を上げれば、そこに立っているのは長く艶のある髪を流しっぱなしにし、艶やかな襦裙に身を包んだ絶世の美女だった。
思わず息をのむと、彼女はふっと鼻先で笑った。そのまま「付いて来い」と合図をして身を翻すと部屋の奥へと歩いていく。
向かう先には、豪奢な造りの榻が置かれていた。
人が二、三人は座れそうなほどに大きなそれにもたれるようにして座った美帆は、茫然と立ち尽くす翠蘭に向かって、くすりと小さく笑ってみせる。
「どうした?」
その声に、翠蘭はっと我に返った。と同時に、美帆がこちらに背中を向ける、という無防備極まりない状況を目にしていながら、せっかくの好機を無駄にしてしまったことに気付き唇を噛み締める。
(しまった……)
一番油断する場所は寝台だろうと決めつけて、晒の中に短剣を忍ばせてしまった、その短慮も悔やまれる。
密かに胸中でそう反省をしていると、呆れたような声が翠蘭を呼んだ。
「おい、楊……皓宇、だったか。そんなところで棒立ちになっていないで、こちらに来て座ったらどうだ」
「は……」
ぽんぽん、と自らの隣を指し示し、美帆が言う。その暢気そうな態度に一瞬いらっときたものの、翠蘭はぎゅっとこぶしを握ってどうにか心を落ち着かせた。
ここはおとなしく言うことを聞き、再度油断した隙を見て手を下すしかない。そう考え、ぎこちなく彼女のそばに近寄ると、示された場所に腰を下ろす。
(それにしても……)
そばに置かれた卓子には、酒肴の準備がされている。そこに手を伸ばした美帆が、杯を傾けるのを横目に見ながら、翠蘭は心の中で呟いた。
(……とんでもなく、美人。……と、同性から見てもそれしか言えない顔ね)
こうして改めて近くで見る美帆は、本当に美しい顔立ちをしている。
すっと通った鼻筋に、品よく彩られた薄い唇。形の良い瞳の周りを、長いまつ毛が縁取っている。目力が強く、儚いというよりも力強さを感じさせる、中性的な美貌だ。
微笑みかけられると、同じ女である自分ですら心臓がどきりとしてしまう。
その金色の瞳には、人を魅了する力でもあるのではないか。そんな埒もないことを考えてしまい、翠蘭は軽く首を振った。
(これなら、四夫君だけでなくほかの夫たちも血眼になるというものよね……)
権力だけでなく美しさも兼ね備えているとなれば、手に入れたいと思うのは男の性質というものだろう。
けれど、と短剣を忍ばせた胸元を抑えると、美帆がちらりとそれを見て「ああ」と何かに気付いたような声を上げた。
一瞬、ここに短剣を忍ばせていることがばれたのかと、翠蘭が身を固くする。だが、美帆は再び杯を傾けると、なんということもない調子でこう続けた。
「そういえば、その胸は何かで押さえているのか?」
「……え?」
何のことを言われているのかとっさに思い浮かばず、翠蘭は間抜けな声を上げる。だが、美帆はそんな彼女の胸元に手を伸ばすと「ほれ」と指先でつついてきた。
「ほれ、ここだ、ここ……昨夜見た時には、もう少し膨らんでいただろう」
「ささっ……さく、や……?」
昨夜、という単語に、翠蘭の顔から血の気が引いた。まさか、そんな――と必死に気を落ち着かせようとするも、目の前の美帆はにやりと口の端を吊り上げ、翠蘭の腕をつかんでくる。
「ふむ、やはり細いな」
「な……!?」
まずいことになっている。それだけは、はっきりと自覚できたが、どうすることもできない。
美帆の力は思ったよりも強く、その腕を振り払うこともできなかった。それどころか、かえって榻に押し付けられ、身動きすら封じられてしまう。
顔を近づけてきた美帆は、まるで鼠を捕らえた猫のように、にんまりとした笑みを浮かべた。
「昨夜のこと、忘れたわけではないだろう? 井戸の側で水を浴びていたおまえをみたのは、この俺だ」
「え、う……嘘……っ」
はっきりと美帆の口からそう言われ、翠蘭は息が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。昨晩、井戸の側に現れた男――あれが、美帆だったというのか。
(っていうか、今……俺って言った……?)
もう何から考えればいいのかわからない。頭の中は大混乱だ。一体何がどうなっているのか把握できず、翠蘭は目を白黒させて美帆の顔を見つめた。
すると、余裕たっぷりの表情を浮かべた美帆が、掴んでいた翠蘭の腕を引き、自身の胸元に触れさせる。
そこには、やわらかな双丘が――
(……ん?)
掌に伝わってきた感触に、翠蘭は目を瞬かせた。自分の記憶が確かならば、女帝の胸はそれなりにこう、ふっくらと盛り上がっていたはずだ。
それが、ない。
おもわずぺたぺたとその感触を確かめながら、翠蘭は彼女の顔を見上げた。
「え、ど、どういう……」
なんというか、そこはまっ平というか、なんなら少し硬い、筋肉の感触があって――これでは、まるで。
(そんなわけ……)
ごくりとつばを飲み、翠蘭は混乱する頭で必死に考えた。
建国神話によれば、神獣朱雀はつがいである人間の女に朱雀の徴を与え、己と同等の力を持たせたという。従って、それを受け継ぐのは代々女性のみだと言われている。
それゆえ、朱華国はこれまで女帝の治める国として発展してきたのだ。
それなのに。
(い、いや、まさか……)
急に息苦しさを覚え、翠蘭は大きく息を吸い込んだ。
そんな彼女の様子を見た美帆は、はははと声をあげて笑うと、何でもないことのようにあっさりと口にする。
「性別を偽っているのは、なにもおまえだけではない、というわけだ」
「な、な……っ、いっ……!?」
疑念を肯定され、驚きに目を丸くした翠蘭は、自身に関する言葉を否定するのも忘れてまじまじと彼女――いや、今の言葉を信じるのなら「彼」――の顔を見つめた。
だが、つるんとした肌に長いまつ毛、それに薄紅色の艶々した唇は、とてもではないが男のものとは思えない。
うそでしょ、と思わず漏らせば、美帆は憤慨したように鼻を鳴らした。
「嘘などついてどうする。おまえも今触れて確かめただろう。それともなにか、もっと他の場所を触らせたほうがわかりやすいか?」
「ほ、他の場所……?」
どこを、と目を瞬かせた翠蘭に、美帆はくすりと笑うと掴んだままの彼女の手を下半身へと導こうとした。そこで初めて「どこを」触らせる気なのか思い至った翠蘭は、あわててその腕を振りほどく。
火事場の馬鹿力というやつか、それとも本気で触らせる気がなかったからなのか、あれほどがっちりと掴まれていた腕があっさり解放され、翠蘭はほっと息を吐きだした。
「わかったか?」
「わ、わかった……わかりました、から……!」
ここで下手に逆らって、もう一度「では」などと言われてはたまらない。
やけくそ気味に翠蘭がそう叫ぶと、美帆は少しばかり不服そうな顔をしてこう呟いた。
「どうせ、いずれ触れることになるのだから、別に今でもかまわんだろうに」
「は、はあ!?」
何を言っているのだ、この人は。今夜何度陥ったかわからない混乱に再び陥った翠蘭が、大きな叫び声をあげる。
そんな彼女の姿を見て、愉快そうに笑った美帆は、さらなる爆弾を投下してきた。
「俺の本来の名は、朱憂炎。……皓宇、おまえにはな、俺の子を産んでもらう」
「な……っ!?」
あまりにも唐突で思いもよらない美帆――いや、憂炎の言葉に、翠蘭は二の句を告げずぽかんと彼の顔を見つめた。
だが、その言葉の意味を理解すると同時に、目の前が真っ赤に染まり、身体がわなわなと震えだす。
「なにを、ばかなことを……!」
こみ上げる怒りをこらえきれず、翠蘭はがたんと立ち上がると大声でそう叫んだ。
「私におまえの……仇の子を産めというのか!?」
「か、仇……?」
翠蘭の言葉に、憂炎は目を瞬かせ、そう問い返してきた。そのとぼけた態度が、翠蘭の怒りに火を注ぐ。
憂炎の胸ぐらをつかむと、翠蘭は歯ぎしりしながら彼に詰め寄った。
「楊皓宇の名に聞き覚えはないのか!? おまえの母親のために死んだ……私の、弟の名だ……!」
そう叫ぶと、翠蘭は自らの胸元に手を差し入れ、乱暴に晒を緩めると短刀を取り出そうとした。
だが、自分できつく巻いた晒はなかなかほどけず、もたついてしまう。
「ばかか」
呆れたようにそう言う憂炎に取り押さえられ、翠蘭は臍を噛んだ。
「くそ……っ、離せ!」
「いや、それより……弟といったか……?」
しかし、当の憂炎には何の心当たりもないようだ。
そう呟くと首を傾げ、何かを思い出そうとするかのように視線が遠くを見つめるものになる。
だが、その瞳の奥に少しだけ悲しみの影を見つけ、翠蘭の心がわずかに軋んだ。
その影に、自分と同じ色を見つけたからだ。そう――同じく、肉親を喪った者としての、悲しみを。
だから、唐突に思い出してしまったのだ。
憂炎もまた、親との死別を経験したばかりの人間である、ということを。
(いや、違う……私のほうが、ずっと……ずっと苦しかった……)
だからこそ、復讐を決意して今まで生きてきたのだ。だというのに、その決意がこんなことで簡単に揺らごうとしている。
(そんなの……っ)
ぶんぶんと大きく首を横に振り、翠蘭はぎりりと奥歯を噛み締めた。
そうだ、こんなことでは父にも母にも、皓宇にも顔向けできない。
気弱な心を振り払うように、ぶんぶんと首を振り、彼を向けた目に力を込める。
(必ず、仇を討つと誓ったじゃないの……!)
誓いを新たにするように胸中でそう呟けば、握り締めた指先に再び力が籠もった。
「忘れているなら思い出させてやる。あれは忘れもしない、二年前のこと――」
翠蘭は彼に向かって、先帝がいかに残虐な方法で皓宇を連れ去ったのか、それによって父や母がどうなったのかをつぶさに教えてやった。それは、復讐が正当なものだと彼に教えるというよりも、自身がそのことを再確認するためのものであったかもしれない。
だが、話を聞かされた憂炎は眉をひそめ、首を傾げた。
「おかしいな」
「おかしいとはなんだ!」
憂炎の反応に、翠蘭は再び怒りを刺激され、彼をにらみつけた。だが、憂炎はあっさりと彼女を解放すると、襟元を直しながら小さく呟く。
「俺は母が臥せってから、ずっと傍についていたが――皓宇という名の人間に心当たりはない」
「なに……」
「そう名乗る者を召し上げたどころか、母との会話で出て来た覚えすらないぞ。母と第三者との会話も含めて、だ。病床の母が俺抜きで誰かと話したことはない。俺に知らせない状態での接触は無理だ」
そもそも、と憂炎は立ち上がり、部屋の隅に置いてある抽斗からなにやら紙の束を取り出した。
それをぺらぺらとめくったかと思うと、とある頁を開いて翠蘭に差し出してくる。
「これは……?」
「俺の日記だ」
そう短く告げると、憂炎は「ここを」と頁の真ん中あたりを指で指し示す。そこには、一年ほど前の日付が書き込まれていた。
「これは、ちょうど母が倒れた日だな」
「え……?」
彼の意図が分からず、翠蘭は戸惑いながら日付に続いて書かれた文章に目を通した。確かにそこには、先帝が倒れたことと、医師を呼んで診察を受けたが、理由が不明だということが簡潔に記されている。
それに続いて、純粋に母を案じる憂炎の気持ちが綴られていた。
「この日から、母はだんだんと寝込みがちになっていった。一か月もすると、起き上がることも難しくなって……」
ぺらぺらと紙をめくりながら、憂炎が言葉を続ける。翠蘭も、その手元をじっと見つめた。
だが、頭の中は混乱状態だ。
(どういうこと……?)
彼の日記を信じるのならば、先帝である美雨が病を得たのは、崩御の半年前だ。だが、皓宇が連れ去られたのは、そこからさらに一年も前になる。
病の兆候があったとしても、いくらなんでも早すぎだろう。
おかしいのはそればかりではない。皓宇がいたはずなのに、倒れてから半年という異常な速さで病が進行し、死亡しているのだ。
「ほら、俺はずっと母の側にいたが……その間、皓宇という男が連れてこられたという記述はない」
「そんな……!」
翠蘭はひったくるようにして彼の手から日記を奪い取ると、食い入るようにそれを読み始めた。
そこには、先帝の病状が克明に記録されており、行った治療の内容や服用した薬、果ては紹介された医師の名前まで記されている。
だがそこに、癒しの力のことはおろか、皓宇らしき人物については一切記載されていなかった。
「そんなはず……だって、皓宇が連れていかれたのは、先帝がなくなる一年も前なのに……」
ばさり、と音を立て、翠蘭の手から彼の日記が滑り落ちる。
最後に読んだ頁は、先帝が亡くなった日のものだった。
そんな翠蘭の背に向かって、宦官は「なにをしておる、はようせぬか」とせっついてくる。
「陛下がお待ちなのだぞ」
若干苛立たしげなその声に、「うるさい」と心の中でだけ威勢よく返すと、翠蘭は扉をじっと睨みつけた。
(この中に、いるんだ……)
緊張で呼吸が浅くなる。乾いた唇を軽く舐め、翠蘭は大きく息を吸い込むと扉にかけた手に力を込めた。
だが、それよりも一瞬早く、中から勢いよく扉が開かれる。そうかと思えば、鮮やかな襦裙の袖を翻し、長い腕が翠蘭の手を掴んだ。
「えっ」
思わず間抜けな声を上げると同時に、その手がぐいっと翠蘭を室内に引っ張り込む。
「遅い、ぐずぐずするな」
「え、ええっ」
たたらを踏んだ翠蘭に向かって、情け容赦ない言葉が浴びせられる。
そっと視線を上げれば、そこに立っているのは長く艶のある髪を流しっぱなしにし、艶やかな襦裙に身を包んだ絶世の美女だった。
思わず息をのむと、彼女はふっと鼻先で笑った。そのまま「付いて来い」と合図をして身を翻すと部屋の奥へと歩いていく。
向かう先には、豪奢な造りの榻が置かれていた。
人が二、三人は座れそうなほどに大きなそれにもたれるようにして座った美帆は、茫然と立ち尽くす翠蘭に向かって、くすりと小さく笑ってみせる。
「どうした?」
その声に、翠蘭はっと我に返った。と同時に、美帆がこちらに背中を向ける、という無防備極まりない状況を目にしていながら、せっかくの好機を無駄にしてしまったことに気付き唇を噛み締める。
(しまった……)
一番油断する場所は寝台だろうと決めつけて、晒の中に短剣を忍ばせてしまった、その短慮も悔やまれる。
密かに胸中でそう反省をしていると、呆れたような声が翠蘭を呼んだ。
「おい、楊……皓宇、だったか。そんなところで棒立ちになっていないで、こちらに来て座ったらどうだ」
「は……」
ぽんぽん、と自らの隣を指し示し、美帆が言う。その暢気そうな態度に一瞬いらっときたものの、翠蘭はぎゅっとこぶしを握ってどうにか心を落ち着かせた。
ここはおとなしく言うことを聞き、再度油断した隙を見て手を下すしかない。そう考え、ぎこちなく彼女のそばに近寄ると、示された場所に腰を下ろす。
(それにしても……)
そばに置かれた卓子には、酒肴の準備がされている。そこに手を伸ばした美帆が、杯を傾けるのを横目に見ながら、翠蘭は心の中で呟いた。
(……とんでもなく、美人。……と、同性から見てもそれしか言えない顔ね)
こうして改めて近くで見る美帆は、本当に美しい顔立ちをしている。
すっと通った鼻筋に、品よく彩られた薄い唇。形の良い瞳の周りを、長いまつ毛が縁取っている。目力が強く、儚いというよりも力強さを感じさせる、中性的な美貌だ。
微笑みかけられると、同じ女である自分ですら心臓がどきりとしてしまう。
その金色の瞳には、人を魅了する力でもあるのではないか。そんな埒もないことを考えてしまい、翠蘭は軽く首を振った。
(これなら、四夫君だけでなくほかの夫たちも血眼になるというものよね……)
権力だけでなく美しさも兼ね備えているとなれば、手に入れたいと思うのは男の性質というものだろう。
けれど、と短剣を忍ばせた胸元を抑えると、美帆がちらりとそれを見て「ああ」と何かに気付いたような声を上げた。
一瞬、ここに短剣を忍ばせていることがばれたのかと、翠蘭が身を固くする。だが、美帆は再び杯を傾けると、なんということもない調子でこう続けた。
「そういえば、その胸は何かで押さえているのか?」
「……え?」
何のことを言われているのかとっさに思い浮かばず、翠蘭は間抜けな声を上げる。だが、美帆はそんな彼女の胸元に手を伸ばすと「ほれ」と指先でつついてきた。
「ほれ、ここだ、ここ……昨夜見た時には、もう少し膨らんでいただろう」
「ささっ……さく、や……?」
昨夜、という単語に、翠蘭の顔から血の気が引いた。まさか、そんな――と必死に気を落ち着かせようとするも、目の前の美帆はにやりと口の端を吊り上げ、翠蘭の腕をつかんでくる。
「ふむ、やはり細いな」
「な……!?」
まずいことになっている。それだけは、はっきりと自覚できたが、どうすることもできない。
美帆の力は思ったよりも強く、その腕を振り払うこともできなかった。それどころか、かえって榻に押し付けられ、身動きすら封じられてしまう。
顔を近づけてきた美帆は、まるで鼠を捕らえた猫のように、にんまりとした笑みを浮かべた。
「昨夜のこと、忘れたわけではないだろう? 井戸の側で水を浴びていたおまえをみたのは、この俺だ」
「え、う……嘘……っ」
はっきりと美帆の口からそう言われ、翠蘭は息が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。昨晩、井戸の側に現れた男――あれが、美帆だったというのか。
(っていうか、今……俺って言った……?)
もう何から考えればいいのかわからない。頭の中は大混乱だ。一体何がどうなっているのか把握できず、翠蘭は目を白黒させて美帆の顔を見つめた。
すると、余裕たっぷりの表情を浮かべた美帆が、掴んでいた翠蘭の腕を引き、自身の胸元に触れさせる。
そこには、やわらかな双丘が――
(……ん?)
掌に伝わってきた感触に、翠蘭は目を瞬かせた。自分の記憶が確かならば、女帝の胸はそれなりにこう、ふっくらと盛り上がっていたはずだ。
それが、ない。
おもわずぺたぺたとその感触を確かめながら、翠蘭は彼女の顔を見上げた。
「え、ど、どういう……」
なんというか、そこはまっ平というか、なんなら少し硬い、筋肉の感触があって――これでは、まるで。
(そんなわけ……)
ごくりとつばを飲み、翠蘭は混乱する頭で必死に考えた。
建国神話によれば、神獣朱雀はつがいである人間の女に朱雀の徴を与え、己と同等の力を持たせたという。従って、それを受け継ぐのは代々女性のみだと言われている。
それゆえ、朱華国はこれまで女帝の治める国として発展してきたのだ。
それなのに。
(い、いや、まさか……)
急に息苦しさを覚え、翠蘭は大きく息を吸い込んだ。
そんな彼女の様子を見た美帆は、はははと声をあげて笑うと、何でもないことのようにあっさりと口にする。
「性別を偽っているのは、なにもおまえだけではない、というわけだ」
「な、な……っ、いっ……!?」
疑念を肯定され、驚きに目を丸くした翠蘭は、自身に関する言葉を否定するのも忘れてまじまじと彼女――いや、今の言葉を信じるのなら「彼」――の顔を見つめた。
だが、つるんとした肌に長いまつ毛、それに薄紅色の艶々した唇は、とてもではないが男のものとは思えない。
うそでしょ、と思わず漏らせば、美帆は憤慨したように鼻を鳴らした。
「嘘などついてどうする。おまえも今触れて確かめただろう。それともなにか、もっと他の場所を触らせたほうがわかりやすいか?」
「ほ、他の場所……?」
どこを、と目を瞬かせた翠蘭に、美帆はくすりと笑うと掴んだままの彼女の手を下半身へと導こうとした。そこで初めて「どこを」触らせる気なのか思い至った翠蘭は、あわててその腕を振りほどく。
火事場の馬鹿力というやつか、それとも本気で触らせる気がなかったからなのか、あれほどがっちりと掴まれていた腕があっさり解放され、翠蘭はほっと息を吐きだした。
「わかったか?」
「わ、わかった……わかりました、から……!」
ここで下手に逆らって、もう一度「では」などと言われてはたまらない。
やけくそ気味に翠蘭がそう叫ぶと、美帆は少しばかり不服そうな顔をしてこう呟いた。
「どうせ、いずれ触れることになるのだから、別に今でもかまわんだろうに」
「は、はあ!?」
何を言っているのだ、この人は。今夜何度陥ったかわからない混乱に再び陥った翠蘭が、大きな叫び声をあげる。
そんな彼女の姿を見て、愉快そうに笑った美帆は、さらなる爆弾を投下してきた。
「俺の本来の名は、朱憂炎。……皓宇、おまえにはな、俺の子を産んでもらう」
「な……っ!?」
あまりにも唐突で思いもよらない美帆――いや、憂炎の言葉に、翠蘭は二の句を告げずぽかんと彼の顔を見つめた。
だが、その言葉の意味を理解すると同時に、目の前が真っ赤に染まり、身体がわなわなと震えだす。
「なにを、ばかなことを……!」
こみ上げる怒りをこらえきれず、翠蘭はがたんと立ち上がると大声でそう叫んだ。
「私におまえの……仇の子を産めというのか!?」
「か、仇……?」
翠蘭の言葉に、憂炎は目を瞬かせ、そう問い返してきた。そのとぼけた態度が、翠蘭の怒りに火を注ぐ。
憂炎の胸ぐらをつかむと、翠蘭は歯ぎしりしながら彼に詰め寄った。
「楊皓宇の名に聞き覚えはないのか!? おまえの母親のために死んだ……私の、弟の名だ……!」
そう叫ぶと、翠蘭は自らの胸元に手を差し入れ、乱暴に晒を緩めると短刀を取り出そうとした。
だが、自分できつく巻いた晒はなかなかほどけず、もたついてしまう。
「ばかか」
呆れたようにそう言う憂炎に取り押さえられ、翠蘭は臍を噛んだ。
「くそ……っ、離せ!」
「いや、それより……弟といったか……?」
しかし、当の憂炎には何の心当たりもないようだ。
そう呟くと首を傾げ、何かを思い出そうとするかのように視線が遠くを見つめるものになる。
だが、その瞳の奥に少しだけ悲しみの影を見つけ、翠蘭の心がわずかに軋んだ。
その影に、自分と同じ色を見つけたからだ。そう――同じく、肉親を喪った者としての、悲しみを。
だから、唐突に思い出してしまったのだ。
憂炎もまた、親との死別を経験したばかりの人間である、ということを。
(いや、違う……私のほうが、ずっと……ずっと苦しかった……)
だからこそ、復讐を決意して今まで生きてきたのだ。だというのに、その決意がこんなことで簡単に揺らごうとしている。
(そんなの……っ)
ぶんぶんと大きく首を横に振り、翠蘭はぎりりと奥歯を噛み締めた。
そうだ、こんなことでは父にも母にも、皓宇にも顔向けできない。
気弱な心を振り払うように、ぶんぶんと首を振り、彼を向けた目に力を込める。
(必ず、仇を討つと誓ったじゃないの……!)
誓いを新たにするように胸中でそう呟けば、握り締めた指先に再び力が籠もった。
「忘れているなら思い出させてやる。あれは忘れもしない、二年前のこと――」
翠蘭は彼に向かって、先帝がいかに残虐な方法で皓宇を連れ去ったのか、それによって父や母がどうなったのかをつぶさに教えてやった。それは、復讐が正当なものだと彼に教えるというよりも、自身がそのことを再確認するためのものであったかもしれない。
だが、話を聞かされた憂炎は眉をひそめ、首を傾げた。
「おかしいな」
「おかしいとはなんだ!」
憂炎の反応に、翠蘭は再び怒りを刺激され、彼をにらみつけた。だが、憂炎はあっさりと彼女を解放すると、襟元を直しながら小さく呟く。
「俺は母が臥せってから、ずっと傍についていたが――皓宇という名の人間に心当たりはない」
「なに……」
「そう名乗る者を召し上げたどころか、母との会話で出て来た覚えすらないぞ。母と第三者との会話も含めて、だ。病床の母が俺抜きで誰かと話したことはない。俺に知らせない状態での接触は無理だ」
そもそも、と憂炎は立ち上がり、部屋の隅に置いてある抽斗からなにやら紙の束を取り出した。
それをぺらぺらとめくったかと思うと、とある頁を開いて翠蘭に差し出してくる。
「これは……?」
「俺の日記だ」
そう短く告げると、憂炎は「ここを」と頁の真ん中あたりを指で指し示す。そこには、一年ほど前の日付が書き込まれていた。
「これは、ちょうど母が倒れた日だな」
「え……?」
彼の意図が分からず、翠蘭は戸惑いながら日付に続いて書かれた文章に目を通した。確かにそこには、先帝が倒れたことと、医師を呼んで診察を受けたが、理由が不明だということが簡潔に記されている。
それに続いて、純粋に母を案じる憂炎の気持ちが綴られていた。
「この日から、母はだんだんと寝込みがちになっていった。一か月もすると、起き上がることも難しくなって……」
ぺらぺらと紙をめくりながら、憂炎が言葉を続ける。翠蘭も、その手元をじっと見つめた。
だが、頭の中は混乱状態だ。
(どういうこと……?)
彼の日記を信じるのならば、先帝である美雨が病を得たのは、崩御の半年前だ。だが、皓宇が連れ去られたのは、そこからさらに一年も前になる。
病の兆候があったとしても、いくらなんでも早すぎだろう。
おかしいのはそればかりではない。皓宇がいたはずなのに、倒れてから半年という異常な速さで病が進行し、死亡しているのだ。
「ほら、俺はずっと母の側にいたが……その間、皓宇という男が連れてこられたという記述はない」
「そんな……!」
翠蘭はひったくるようにして彼の手から日記を奪い取ると、食い入るようにそれを読み始めた。
そこには、先帝の病状が克明に記録されており、行った治療の内容や服用した薬、果ては紹介された医師の名前まで記されている。
だがそこに、癒しの力のことはおろか、皓宇らしき人物については一切記載されていなかった。
「そんなはず……だって、皓宇が連れていかれたのは、先帝がなくなる一年も前なのに……」
ばさり、と音を立て、翠蘭の手から彼の日記が滑り落ちる。
最後に読んだ頁は、先帝が亡くなった日のものだった。
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