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第四話
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人間とは、慣れる生き物である。
一ヶ月も経つと、周囲もだんだんと落ち着きを取り戻し、紗良もまたコハクが傍にいることに慣れ始めていた。
そうすると、だんだんと日々が穏やかになっていく。
学校の行き帰りにする会話も増え、子どものころの思い出話などもするようになった。
「でも、私……実を言うと、この間コハクに会うまでは小学生の頃にあやかしにあっていたことなんて、忘れていたんだよね」
「……それが普通だ」
よくよく思い返してみれば、小学生の紗良は人間の友達こそ近所にいなかったが、あやかしの子ども達とはよく遊んでいたのだ。ふわふわ光る球もそうだし、上級のあやかしになると化け狸や天狗、猫又の子などもいたはずだ。
彼らが今どうしているのかとコハクに問うと、彼は肩をすくめて「しばらくあってないが元気でやってるはずだ」と言っていた。
それなりに親しくしていたはずなのに、それをすっかり忘れてしまっていた。不思議なことだと思うが、コハクが普通だというのなら、おそらく他の子も多かれ少なかれそんな経験をしているのかも知れない。
——ただ、忘れてしまっているだけで。
(でも、そんなのちょっと悲しいよね……)
ちらりと隣を歩くコハクの表情を窺うが、彼は飄々とした表情を崩さない。こうしてみると、本当になんのために傍にいてくれるのかが疑問になってくる。
(あれから怖い目にもあっていないし……)
求婚中、といったが、あれからその話題に自分から触れてくることもない。
「ねえ、コハク。今日はうちでご飯食べていかない? いつも送迎して貰ってて……その、お礼というか」
いつも通り玄関の前まできっちりと送り届けてくれた彼が帰ろうとするのを引き留めて、紗良は思い切ってそう誘ってみた。さすがに外でするのは憚られる話だし、コハクが何を考えているのかを知りたくもある。
騒ぎに紛れて忘れていたが、結局「おちがみ」というのがなんなのかも聞きそびれたままだし、良い機会だ。
そう思ったのだが、コハクは目を見開いて紗良の顔をまじまじと見つめてくる。
ひりひりするような緊張感に満ちた沈黙が、二人の間に落ちた。
「おまえ、わかってるのか……?」
「へ?」
紗良が目を瞬かせると、コハクが大きなため息を漏らす。それから、ドンと大きな音を立て、紗良の顔の横に手を突いた。
(う、うわ……!? か、壁ドン……ってやつ……!?)
突然のことにひえっと息を呑んだ紗良の顔を、コハクの金の瞳が真剣な光を宿して見つめている。
その表情に、どくん、と心臓が大きな音を立てた。
「俺は、紗良……おまえに求婚しているんだぞ? そんな男を家にあげるからには、覚悟を決めたと思っていいんだな?」
「え、ええっ……!?」
これまで一ヶ月以上もその話題に触れなかったくせに、今それを言うのか。むしろ、聞きたいのはこちらの方だ。
言いたいことはたくさんある。けれど、コハクの真剣なまなざしに気圧されて、紗良は小さく首を振ることしかできない。
小刻みに手が震える。それに気付いたコハクが、ハッとしたように手を引くと、ちっと舌打ちした。
「……悪い、今日の所は帰る」
ぐっと拳を握りしめ、彼はそう告げると踵を返す。遠ざかる後ろ姿を見つめ、紗良は胸が疼くのを感じていた。
翌日も、その翌日も——何事もなかったかのような顔をして、コハクはこれまでと同じように現れた。いつもと少しだけ違うとすれば、一緒にいる時間の会話が減ったことくらいだ。
(だって、何を話したら良いかわからないんだもの……)
もともと、コハクは口数が多い方ではない。どちらかと言えば、喋っていたのは紗良の方だ。
その紗良の口数が減れば、当然のことながら二人の間を占めるのは沈黙が主になる。
なんとなくモヤモヤした気持ちを抱えながら、紗良はその日も学校へ行き、そして一日を終えた。帰宅部所属の紗良は、授業が終われば帰る時間だ。
教室で花音や実琴と別れ、昇降口を出る。校門の前では、いつものようにコハクが待っているはずだ。
今日こそ、これまで通りにしよう。そう密かに決意をしながら、急ぎ足で彼の元へ向かう。
「あれ……?」
紗良の決意もむなしく、そこにはいつもいるはずのコハクの姿がなかった。きょろきょろと辺りを見回してみるも、やはり影すら見当たらない。
不思議に思った紗良は、なんとなく胸騒ぎのようなものを感じて彼を探しに行くことにした。とはいえ、心当たりなどあるはずもない。
とりあえず、もしかしたら——の気持ちを込めて、高校の敷地内をぐるりとまわってみることにした。
だが、そうはいっても場所は限られている。校庭は部活で使用中だし、体育館も同様だ。
「あとは……校舎の裏くらい、かな……」
そこだけ見終えたら、もう帰ろう。そう思いながら、校舎の裏へと歩いて行く。
すると、行く先でなにやら言い争う声と物音が聞こえたような気がした。一瞬驚いて立ちすくんだものの、その片方の声に聞き覚えがある気がして紗良は恐る恐る校舎の裏をのぞき込んだ。
あんまり来たことはないが、そこには木が等間隔に植えられて、その周りに敷地を囲むフェンスが設置されている。校舎と木立の間には少し空間があって、声と物音はその辺りからしているようだった。
植え込みからそっと隙見すると、耳を出し、尻尾までをもなびかせたコハクが誰かと争っているのが見える。その誰かは、一見すると、絵源氏物語の絵巻から抜け出してきた男のような衣装を身に着けていた。
コハクが腕をふるうと、風が起き、刃となってその男へと向かう。間一髪でそれを躱した男の顔を見て、紗良は「ひいっ」と押し殺した悲鳴を上げた。
その男の顔は真っ白で、目の部分がやけに落ちくぼんでいる。その目はうつろで光を宿しておらず、どこか禍々しささえ感じさせた。
ぞくぞくと背筋が寒くなるのと同時に、目の奥がじわじわと熱くなってくる。それに耐えがたくなって目を覆ったとき、怖気の走るようなおぞましい声が紗良の耳に飛び込んできた。
「おまえとて、我らと同じではないか……!」
呪詛のような声が、言葉を紡ぐ。
「あの小鳥遊の娘を狙うは、力のためであろう……! われらと何の違いがある……!」
「ちっ……」
舌打ちしたコハクは、話しをするのも煩わしいとばかりに腕をふるう。風の刃が相手に食い込み、ぐええと恐ろしい悲鳴を上げた。
「だったらなんだっていうんだ」
一撃、二撃。容赦なく刃を振るいながら、コハクが無表情に告げる。男はその言葉を聞くと、悔しそうに意味のわからない叫び声を上げながら黒い靄となり、徐々にその姿を消していった。
だが、そんな現象よりも紗良が衝撃を受けたのは、先ほどのコハクの一言だ。
『だったらなんだっていうんだ』——彼は確かにそう言った。それはつまり、コハクが求婚した理由は、なんらかの「力」が紗良の中に秘められているからだ、ということ。それを彼が欲していると言うことだ。
まるで横っ面を殴られたかのように、それは紗良にとって衝撃だった。
(じゃあ……これまで私の傍にいてくれたのは、ただ他の誰かに私の「力」を取られないように見張ってた、っていうこと……?)
じわ、と涙が目に浮かぶ。唇を噛みしめ、紗良は涙が零れるのをどうにか堪えた。
(気付きたくなかった……)
コハクの言葉にショックを受けるほど、彼を受け入れ始めていた自分に。どこか惹かれ始めていた自分に、気付きたくなかった。
気付けば、コハクは既にその場を立ち去っているようだった。おそらく、紗良がいるはずの校門へと向かったのだろう。
だが、今は会いたくない。紗良はフェンスに手をかけると、スカートがめくれ上がるのにも構わずよじ登り、飛び越えてその場を後にした。
一ヶ月も経つと、周囲もだんだんと落ち着きを取り戻し、紗良もまたコハクが傍にいることに慣れ始めていた。
そうすると、だんだんと日々が穏やかになっていく。
学校の行き帰りにする会話も増え、子どものころの思い出話などもするようになった。
「でも、私……実を言うと、この間コハクに会うまでは小学生の頃にあやかしにあっていたことなんて、忘れていたんだよね」
「……それが普通だ」
よくよく思い返してみれば、小学生の紗良は人間の友達こそ近所にいなかったが、あやかしの子ども達とはよく遊んでいたのだ。ふわふわ光る球もそうだし、上級のあやかしになると化け狸や天狗、猫又の子などもいたはずだ。
彼らが今どうしているのかとコハクに問うと、彼は肩をすくめて「しばらくあってないが元気でやってるはずだ」と言っていた。
それなりに親しくしていたはずなのに、それをすっかり忘れてしまっていた。不思議なことだと思うが、コハクが普通だというのなら、おそらく他の子も多かれ少なかれそんな経験をしているのかも知れない。
——ただ、忘れてしまっているだけで。
(でも、そんなのちょっと悲しいよね……)
ちらりと隣を歩くコハクの表情を窺うが、彼は飄々とした表情を崩さない。こうしてみると、本当になんのために傍にいてくれるのかが疑問になってくる。
(あれから怖い目にもあっていないし……)
求婚中、といったが、あれからその話題に自分から触れてくることもない。
「ねえ、コハク。今日はうちでご飯食べていかない? いつも送迎して貰ってて……その、お礼というか」
いつも通り玄関の前まできっちりと送り届けてくれた彼が帰ろうとするのを引き留めて、紗良は思い切ってそう誘ってみた。さすがに外でするのは憚られる話だし、コハクが何を考えているのかを知りたくもある。
騒ぎに紛れて忘れていたが、結局「おちがみ」というのがなんなのかも聞きそびれたままだし、良い機会だ。
そう思ったのだが、コハクは目を見開いて紗良の顔をまじまじと見つめてくる。
ひりひりするような緊張感に満ちた沈黙が、二人の間に落ちた。
「おまえ、わかってるのか……?」
「へ?」
紗良が目を瞬かせると、コハクが大きなため息を漏らす。それから、ドンと大きな音を立て、紗良の顔の横に手を突いた。
(う、うわ……!? か、壁ドン……ってやつ……!?)
突然のことにひえっと息を呑んだ紗良の顔を、コハクの金の瞳が真剣な光を宿して見つめている。
その表情に、どくん、と心臓が大きな音を立てた。
「俺は、紗良……おまえに求婚しているんだぞ? そんな男を家にあげるからには、覚悟を決めたと思っていいんだな?」
「え、ええっ……!?」
これまで一ヶ月以上もその話題に触れなかったくせに、今それを言うのか。むしろ、聞きたいのはこちらの方だ。
言いたいことはたくさんある。けれど、コハクの真剣なまなざしに気圧されて、紗良は小さく首を振ることしかできない。
小刻みに手が震える。それに気付いたコハクが、ハッとしたように手を引くと、ちっと舌打ちした。
「……悪い、今日の所は帰る」
ぐっと拳を握りしめ、彼はそう告げると踵を返す。遠ざかる後ろ姿を見つめ、紗良は胸が疼くのを感じていた。
翌日も、その翌日も——何事もなかったかのような顔をして、コハクはこれまでと同じように現れた。いつもと少しだけ違うとすれば、一緒にいる時間の会話が減ったことくらいだ。
(だって、何を話したら良いかわからないんだもの……)
もともと、コハクは口数が多い方ではない。どちらかと言えば、喋っていたのは紗良の方だ。
その紗良の口数が減れば、当然のことながら二人の間を占めるのは沈黙が主になる。
なんとなくモヤモヤした気持ちを抱えながら、紗良はその日も学校へ行き、そして一日を終えた。帰宅部所属の紗良は、授業が終われば帰る時間だ。
教室で花音や実琴と別れ、昇降口を出る。校門の前では、いつものようにコハクが待っているはずだ。
今日こそ、これまで通りにしよう。そう密かに決意をしながら、急ぎ足で彼の元へ向かう。
「あれ……?」
紗良の決意もむなしく、そこにはいつもいるはずのコハクの姿がなかった。きょろきょろと辺りを見回してみるも、やはり影すら見当たらない。
不思議に思った紗良は、なんとなく胸騒ぎのようなものを感じて彼を探しに行くことにした。とはいえ、心当たりなどあるはずもない。
とりあえず、もしかしたら——の気持ちを込めて、高校の敷地内をぐるりとまわってみることにした。
だが、そうはいっても場所は限られている。校庭は部活で使用中だし、体育館も同様だ。
「あとは……校舎の裏くらい、かな……」
そこだけ見終えたら、もう帰ろう。そう思いながら、校舎の裏へと歩いて行く。
すると、行く先でなにやら言い争う声と物音が聞こえたような気がした。一瞬驚いて立ちすくんだものの、その片方の声に聞き覚えがある気がして紗良は恐る恐る校舎の裏をのぞき込んだ。
あんまり来たことはないが、そこには木が等間隔に植えられて、その周りに敷地を囲むフェンスが設置されている。校舎と木立の間には少し空間があって、声と物音はその辺りからしているようだった。
植え込みからそっと隙見すると、耳を出し、尻尾までをもなびかせたコハクが誰かと争っているのが見える。その誰かは、一見すると、絵源氏物語の絵巻から抜け出してきた男のような衣装を身に着けていた。
コハクが腕をふるうと、風が起き、刃となってその男へと向かう。間一髪でそれを躱した男の顔を見て、紗良は「ひいっ」と押し殺した悲鳴を上げた。
その男の顔は真っ白で、目の部分がやけに落ちくぼんでいる。その目はうつろで光を宿しておらず、どこか禍々しささえ感じさせた。
ぞくぞくと背筋が寒くなるのと同時に、目の奥がじわじわと熱くなってくる。それに耐えがたくなって目を覆ったとき、怖気の走るようなおぞましい声が紗良の耳に飛び込んできた。
「おまえとて、我らと同じではないか……!」
呪詛のような声が、言葉を紡ぐ。
「あの小鳥遊の娘を狙うは、力のためであろう……! われらと何の違いがある……!」
「ちっ……」
舌打ちしたコハクは、話しをするのも煩わしいとばかりに腕をふるう。風の刃が相手に食い込み、ぐええと恐ろしい悲鳴を上げた。
「だったらなんだっていうんだ」
一撃、二撃。容赦なく刃を振るいながら、コハクが無表情に告げる。男はその言葉を聞くと、悔しそうに意味のわからない叫び声を上げながら黒い靄となり、徐々にその姿を消していった。
だが、そんな現象よりも紗良が衝撃を受けたのは、先ほどのコハクの一言だ。
『だったらなんだっていうんだ』——彼は確かにそう言った。それはつまり、コハクが求婚した理由は、なんらかの「力」が紗良の中に秘められているからだ、ということ。それを彼が欲していると言うことだ。
まるで横っ面を殴られたかのように、それは紗良にとって衝撃だった。
(じゃあ……これまで私の傍にいてくれたのは、ただ他の誰かに私の「力」を取られないように見張ってた、っていうこと……?)
じわ、と涙が目に浮かぶ。唇を噛みしめ、紗良は涙が零れるのをどうにか堪えた。
(気付きたくなかった……)
コハクの言葉にショックを受けるほど、彼を受け入れ始めていた自分に。どこか惹かれ始めていた自分に、気付きたくなかった。
気付けば、コハクは既にその場を立ち去っているようだった。おそらく、紗良がいるはずの校門へと向かったのだろう。
だが、今は会いたくない。紗良はフェンスに手をかけると、スカートがめくれ上がるのにも構わずよじ登り、飛び越えてその場を後にした。
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