蠱惑ノ蔵、愛ヲ啼ク

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第四章 逃避行と堕ちた愛

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 蔵での秘密の夜が終わったあとも、柾貴と沙月の関係は止めどなく深まっていった。しかし、屋敷中に漂いはじめた不穏な空気――女中頭の鋭い視線や、母の「沙月さんには少し休みをあげましょうか」という優しさに隠れた警戒。そのたびに、柾貴は胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ある夕方、母から「明日から沙月さんは本家にお使いに行ってもらいます」と告げられる。柾貴は驚きで息が止まりそうになり、慌てて母の着物の袖を掴んだ。
「やだ、いやだ!沙月をどこにもやらないで!」
「柾貴、わがままを言ってはいけません」
 母の目はどこか寂しそうで、優しいけれど冷たかった。

 その夜。
 柾貴はもう我慢できなくて、夜更けに蔵へ駆け込んだ。春の風が冷たくて、鼻の奥がつんと痛んだ。
 蔵の中には沙月が座っていて、いつもよりずっと静かな顔で柾貴を待っていた。

「……聞いたよ、本家に行かされるんだって」
「はい。明日には、ここを出ることになります」
「やだ……絶対に、嫌だよ……」
 柾貴は涙をこらえながら沙月にすがりついた。
「ぼく、沙月がいなくなったら、生きていけない……」
「柾貴様」
 沙月は優しく柾貴の頭を撫で、そっと唇を額に落とした。

「だったら、一緒に逃げましょう」
 沙月の声は低くて、でもとても優しかった。
「蔵を抜け出して、誰も知らない場所へ行くのです。……私と、逃げてくれますか」
「うん……うん、逃げる。沙月とずっと一緒にいたい!」

 二人は蔵の奥、古い箱から使い古しの外套と、数枚の小銭を取り出した。
 沙月が柾貴に洋装のコートを羽織らせ、乱れた髪を帽子で隠した。
「寒くないように、ここをきつく締めてください」
 柾貴の首元に、沙月は自分のスカーフを巻いた。
 蔵の裏口をそっと抜け、春の夜の闇へと二人は駆け出した。

 家の塀を越え、町の裏路地を抜けて、川沿いの寺の本堂へとたどり着く。
 人気のない古びた畳の上で、二人はお互いの手を強く握り合った。
「大丈夫です。誰にも、もう離されません」
 沙月の声に、柾貴は安心して肩の力を抜いた。

 やがて、寺の本堂の静けさの中で、二人はお互いを確かめ合うように身体を重ねた。
 コートも帽子も脱ぎ捨て、柾貴は沙月の胸に顔を埋めて、泣きながら何度も「好き」と繰り返した。
 沙月は柾貴の涙をそっと舌で拭い、細い指で乱れた前髪を整えた。
「これからは、全部私が守ります。……柾貴様は、私だけを見ていてください」
「うん……ずっと、沙月だけを……」

 冷たい畳の上、春の夜の静けさに溶けていく二人の声と熱。
 外では風が梢を鳴らし、遠くで犬が吠えていたが、その音さえも遠ざかるほど、二人だけの世界は深く、濃密で、もう誰にも壊せなかった。

 夜が明けるころ、柾貴は沙月の腕の中で眠りに落ちた。
 ほんのりと東の空が白み始める――
 新しい朝と、二人だけの未来が、ゆっくりと動き出そうとしていた。
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