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本編
1
振られ続けて一週間。
限られた時間の中でのミッションは過酷さを極め、周りを見渡せば既に取り残されたと言わざるを得ない状況だ。どう見積ってもあと二週間ほどで見つけなければ、俺の前期試験成績が無きものとなってしまう。
一体何を見つけなければならないのか。
それは、二年次の前期実技試験に向けた試験伴奏者である。
そもそも、このシステムは間違っていると俺は思っている。自分が見つけられていないことを棚に上げ、何を言っているんだという意見もあるだろうが、とりあえず俺の意見を聞いてくれ。
まず、なんで試験伴奏者を自分で見つけなければならないのか。
コミュ障の奴だっているだろう。一年次であれば入学したばかりで友達もろくにいない中、いきなり練習室に押しかけて、「試験伴奏を引き受けてくれませんか」などと口説くなんて、心臓がゾウのように大きくなけりゃ無理な話である。果たして、ゾウの心臓が大きいのかということはさておき…。
俺はコミュ障ではないし、人見知りでもないが、大学生活が一年経っていたとしても、出会いの場などないわけで、二年次に進級してから早二週間、今のところ伴奏者探しは全敗の一途をたどっている。
大学内でも楽器の試験伴奏を快く引き受けてくれるピアニスト様はすでに皆、手一杯状態で、完全に出遅れていることは否めない。それはそうだ。ほとんどの奴らが一年次からの継続で、ニ年次になってわざわざ伴奏者を探している奴なんてそうはいない。俺みたいにね。
俺にも一年次の頃は伴奏者がいたのだ。前期試験が終わった段階で振られそうになったところを、なんとか後期まで頼み込んでお願いするという綱渡り状態ではあったが、何とか試験は乗り切れた。
振られた理由はというと「トランペットの伴奏は難しくて、私には荷が重すぎるの。ごめんなさい」だそうだ。そんなことを言われては無理にお願いすることもできず、今に至るというわけである。
この学校にはピアノ講師がたくさんいることを俺は知っている。少しくらいあぶれた者の手伝いをしてくれたっていいじゃないか。減るもんじゃなし。
内心諦めモードに入りつつも、やらなければならないということは自分が一番よくわかっている。
五限目の終了を告げるチャイムが鳴った。
講義中に考えてしまうほど、試験伴奏者を探すことが俺の脳内の大半を占めていた
「それじゃ、今日も行くとしますか」
「おー、頑張れよ」
隣で声をかけてきたのは、一緒に音楽史の講義を受けていた同じトランペット科の西田だ。
「いいよな、余裕な奴は」
昨年から同じ伴奏者で試験に臨む西田は、このまま練習棟に向かうのだろう。羨ましいこと極まりない。
重い腰を上げながら試験伴奏者を探しに行く岩倉楽であった。
岩倉は、ピアノ科の学生が多く練習する東棟へと足を運んでいた。
この二週間ほぼ毎日、めぼしい学生がいないだろうかとこの東棟に通いつめている。そんな俺だが、未だ最上階である六階には足を踏み入れたことがない。理由は簡単で、この練習棟にはエレベーターがなく階段で上り下りしなければならないからだ。練習している生徒も考えは同じようで、下の階から練習室が埋まっていく。したがって、自ずと上に行けば行くほど生徒の数は少なくなるのだ。
ただ、ここまできたらそんなことなど言ってはいられない。息も絶え絶えになりながら六階の練習室へたどり着いた。
やはり思っていた通り、音のする部屋はまばらで、ここまで階段を上ってまで練習をする強者はピアノ科でも極わずかなようだ。
いつも通り、音のする練習室へと足を向けていく。各練習室の扉には十五センチ角程の小窓が付いており、中の様子を少し覗くことが出来る。ピアニストは扉に背を向けた状態で練習しているので、覗いても邪魔になることは無いとは思うが、そこは細心の注意を払いそっと観察をすることにしている。
階段から一番遠く離れた最奥のフロアまでやってきた。
ここまで来ると音のする部屋はひとつだけになった。周りの音が混在しない分、その練習室からはとても鮮明にピアノの音が聞こえてくる。俺基準であるがこいつめちゃくちゃ上手い。
聞こえてくる曲は俺でも知っている。確かフランツ・リストの『超絶技巧』。
一体どんな人が弾いているのだろう。興味本位で音のする扉へ近づき、そっと小窓から中を覗き見た。
後ろ姿からでもわかる、細身ではあるが肩幅の広い骨格とリストの曲を難なくこなす大きな手の持ち主がそこにいた。(フランツ・リストはとても手が大きかったと言われている作曲家だ)
時間を忘れて聴き込んでしまっていた岩倉は、ピアノの音が止んだところで我に返ったが、時すでに遅し。
「僕に用ですか?」
練習室の扉が開かれ、さっきまでピアノを奏でていた奴が目の前に現れた。
「とてもお上手だなと、思いまして…」
「それだけですか。気が散るので用がないならどこか行ってもらえますか?」
俺はすぐさま深々と頭を下げ、「すみませんでした。すぐに退散します」と告げたが、いや待てよ。これはもしやチャンスなのではないか。
このタイミングで話しかけてくるこの状況、伴奏をお願い出来たりしないかという一縷の望みが芽生えた。こんなに上手いピアニストそうはいない。ここまで来たら当たって砕けろ、だ。
「今俺、試験伴奏者を探していて、もし良かったら…」
ドンッ。という音とともに練習室の扉が閉められ、全てを言いきらないうちにシャットアウトされた。
呆気に取られしばしの間立ちすくむ岩倉。先ほどの続きなのだろう、何もなかったかのように目の前の練習室からまたピアノの音がし始めた。
我に返った岩倉は、もう少し断り方ってものがあるだろうと心の中で愚痴りながらも、さすがに凹まざるを得なかった。
「その顔、また不発に終わったようね」
楽器の練習棟に着くなり、満面の笑みを浮かべて声をかけてきたのは同じトランペット科の吉井だ。ムードメーカー的存在で、しっかり者なトランペット科のリーダー。ちなみに吉井は俺とは同じ門下生。異性であるが、割と気心知れた仲である。これを言ったら怒られるかも知れないが、恋愛対象はこれっぽっちもない。
「今日は一段と凹んでいるかもな。いいなって奴がいて声かけたらさ、誘う前に断られたわ」
「そりゃ、災難。ここまで振られ続けるって岩倉の運気、絶賛大不調なんじゃないの。今度、駅前の占いでも行ってきてみたらなにか見つかるかもよ」
吉井にかけられた言葉は全く耳に入ってこない。適当に「そうだな」と上の空状態で返事をしていた。
この吉井との会話によって、先刻の出来事が鮮明に思い出されていく。
「なぁ、吉井。ピアノ科にさ、180センチくらいのスラっとした、黒髪で短髪のちょっとつり目な、めちゃくちゃ上手い奴っている?」
口に出るが先。気づいたら吉井に質問をしていた。
「んー、…それなら一年の板垣くんかな、板垣千弥くん。入学当時少しだけ有名だったけど、岩倉覚えてない? 高校生の時、コンクールで賞を取ったりした子だから結構騒がれていたけど。ピアノの腕はもちろんなんだけど、それより板垣くんはルックスよ。あのちょっと冷徹な感じが、女心をくすぐるの! ねぇ、ちょっと聞いてんの? 岩倉!」
吉井のイケメンアクセルがまもなく全開を迎えそうであるが、岩倉の脳内はいきなりの情報過多に陥っていた。
板垣…確かに、その名前はどこかで聞いたような、いないような…。他の科、特にピアノや声楽などには全くといっていいほど興味がないので、その手のうわさ話には気持ち半分だった自覚はある。それがこんなところで仇になるとは…。
「てか、あんたもしかして、板垣くんに声かけたの! チャレンジャーね! そんなの振られるに決まってるじゃない」
俺が何も言わないことをいいことに、吉井はずっと喋り続けている。
「吉井ありがとう、おかげで色々すっきりしたわ」
「え、ちょっと話が途中じゃない。岩倉ってばっ」
吉井の質問に対し特に返答もしないまま、空いている練習室に「悪い、また今度」と言って逃げ入った。
吉井にはすっきりしたとは言ったものの、本当は全くすっきりなどしていない。むしろ、板垣千弥という存在に断然興味が湧いてしまった。
もう一度、あいつのピアノちゃんと聴いてみたいかも…。
岩倉はそんな事を考えながら練習のため楽器の準備を始めた。
水曜日の午後。
一週間の中で一番憂鬱な時間がやってきてしまった。ピアノレッスンの時間である。
〈音楽の基礎中の基礎、音大生なるものは全員ピアノに触れるべし!〉の如く、大体どこの音楽大学でも皆ピアノを習うというのが常である。
生まれてこの方、大学受験までピアノのピの字もなかった人間で、そんな俺にピアノを教えてくれる先生は、もちろん紛れもなくプロであり、大学教授の三峰久(みつみねひさし)その人である。
自分の専攻楽器と違い副科として受講するピアノは、志願ではなくランダムで指導者が決まる。まさか自分が教授の門下生になるなんて、夢にも思っていなかった。素人同然の俺なんかのために時間を割いてくれていることに、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
レッスン室に到着して腕時計を見ると、ちょうど開始三分前だった。
いい時間だな。
憂鬱な気持ちを抱えたまま、レッスン室の扉をノックした。
「はーい、どうぞ」
教室の中から先生の声が聞こえてきたのでドアを開ける。
「岩倉くん申し訳ないね。もうすぐ終わるから、中で座って待っていてくれるかな」
確か俺のレッスンの前は空き時間だったはず。臨時のレッスンでも入ったのだろうと特に気にもせず、壁伝いに並ぶソファに座ろうとした、その時だった。
「では板垣くん、もう一度ここのフレーズから」
えっ! …いたがき…。
反射でピアノの方へ顔を向けていた。岩倉のいる位置からは、また背中しか見えない。
つい先日も耳にした、リストの超絶技巧が始まった。
やっぱり、この前会った人物は板垣千弥だったんだ。ドア越しではなく直に聴くこいつのピアノは、やっぱりめちゃくちゃ上手い。
演奏が終わり、三峰教授が板垣へ声を掛けている。
「うん、この前よりは大分良くなっているよ。この調子で頑張っていこう。それじゃ、また来週」
「はい。ありがとうございました」
譜面を片付け始めた板垣は、岩倉の存在には全く気づかないままに帰ろうとしていた。
こいつとの接点、何か繋ぎ止めて置く手立てはないだろうか。空っぽな頭を捻ってみたがなにも出てこない。とりあえず、この間のことをもう一度謝ろうと岩倉は考えた。
「あの、板垣くん。この間は悪かったね」
「おや、二人は知り合いだったかな」
「あー、いいえ。知り合いというわけではないんですけど…」
うまく説明ができず、岩倉は少し口籠ってしまった。そこへ、板垣がすかさず口を挟んできた。
「違います、教授。全くの赤の他人です」
おいおい、いくらなんでもその言い方はないだろう。
「いやいや板垣くん。流石に、そんな言い方はないんじゃないか、赤の他人って…。僕が一方的に試験伴奏の依頼をしてしまったのは、申し訳ないと思ってるけどさ…」
流石にそこまで他人行儀にされると、こっちも少し腹が立ってきてしまった。
そんな二人のやり取りを聞いていた三峰教授が「試験伴奏ね…」と独り言の様に言って考え込んだ。数秒後。
「板垣くん、ちょうどいい機会だし引き受けてみたらどう?」
「「えっ」」
岩倉は驚きと喜びに満ちた「えっ」。板垣は不満とめんどくささの「えっ」。二人のユニゾンがレッスン室に響き渡った。
「今の君にとって、とても大事な引き出しかもしれないよ」
それは三峰教授が板垣に向けてかけた言葉だった。
少し考える素振りを見せる板垣であったが、「わかりました」と伴奏を引き受けてくれることになった。ただ、納得がいっていないという表情は否めない。
「これも何かの縁だ。大切にするといい」
そう言って、板垣には見えない角度で俺にウィンクをしてきた三峰教授。こんなにお茶目な人だったんだと心で思いながら、ニ人にお礼の言葉を述べた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
岩倉は誠心誠意で二人に頭を下げた。
「あの、一つだけ条件があります」
そう言ったのは板垣だ。
「前期試験で思うような成績が出なかった場合、次はないってことでいいですか」
「君が言う、思うような成績って具体的にはどんなものかな」
そう切り返したのは三峰教授である。
「最高判定のSランクですね」
「っていっているけど、岩倉くん的にはどうなのかな」
Sランク…。正直言って不安でしかない。
岩倉の一年次の成績はAランクである。決して下手でも上手くもないという、至って普通の成績において、Sランクを目指すというのはかなりハードルが高い。ただ、ここで引き下がるわけにはいかないな。
「わかりました。その条件で結構です」
「はい。そうと決まればお互いに連絡先の交換をして、一回目の練習日程も決めてしまうといいよ」
あれよあれよという間に事が進み、互いにスマートフォンを取り出し連絡先の交換をした。
先に口を開いたのは板垣だった。
「明日の夕方、一昨日と同じ練習室にいます。そこまで来てください」
俺は「わかった」と短く返した。
岩倉の返事を聞くや否や、「ありがとうございました」と教授に告げ板垣はレッスン室を出て行ってしまった。
「それじゃ、レッスン始めようか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
こうして、長らく俺の脳内に蔓延っていた試験伴奏者のしがらみは解かれた。
また別の問題が出てきそうな気もするが、とりあえず前期試験は乗り越えられそうだ。
限られた時間の中でのミッションは過酷さを極め、周りを見渡せば既に取り残されたと言わざるを得ない状況だ。どう見積ってもあと二週間ほどで見つけなければ、俺の前期試験成績が無きものとなってしまう。
一体何を見つけなければならないのか。
それは、二年次の前期実技試験に向けた試験伴奏者である。
そもそも、このシステムは間違っていると俺は思っている。自分が見つけられていないことを棚に上げ、何を言っているんだという意見もあるだろうが、とりあえず俺の意見を聞いてくれ。
まず、なんで試験伴奏者を自分で見つけなければならないのか。
コミュ障の奴だっているだろう。一年次であれば入学したばかりで友達もろくにいない中、いきなり練習室に押しかけて、「試験伴奏を引き受けてくれませんか」などと口説くなんて、心臓がゾウのように大きくなけりゃ無理な話である。果たして、ゾウの心臓が大きいのかということはさておき…。
俺はコミュ障ではないし、人見知りでもないが、大学生活が一年経っていたとしても、出会いの場などないわけで、二年次に進級してから早二週間、今のところ伴奏者探しは全敗の一途をたどっている。
大学内でも楽器の試験伴奏を快く引き受けてくれるピアニスト様はすでに皆、手一杯状態で、完全に出遅れていることは否めない。それはそうだ。ほとんどの奴らが一年次からの継続で、ニ年次になってわざわざ伴奏者を探している奴なんてそうはいない。俺みたいにね。
俺にも一年次の頃は伴奏者がいたのだ。前期試験が終わった段階で振られそうになったところを、なんとか後期まで頼み込んでお願いするという綱渡り状態ではあったが、何とか試験は乗り切れた。
振られた理由はというと「トランペットの伴奏は難しくて、私には荷が重すぎるの。ごめんなさい」だそうだ。そんなことを言われては無理にお願いすることもできず、今に至るというわけである。
この学校にはピアノ講師がたくさんいることを俺は知っている。少しくらいあぶれた者の手伝いをしてくれたっていいじゃないか。減るもんじゃなし。
内心諦めモードに入りつつも、やらなければならないということは自分が一番よくわかっている。
五限目の終了を告げるチャイムが鳴った。
講義中に考えてしまうほど、試験伴奏者を探すことが俺の脳内の大半を占めていた
「それじゃ、今日も行くとしますか」
「おー、頑張れよ」
隣で声をかけてきたのは、一緒に音楽史の講義を受けていた同じトランペット科の西田だ。
「いいよな、余裕な奴は」
昨年から同じ伴奏者で試験に臨む西田は、このまま練習棟に向かうのだろう。羨ましいこと極まりない。
重い腰を上げながら試験伴奏者を探しに行く岩倉楽であった。
岩倉は、ピアノ科の学生が多く練習する東棟へと足を運んでいた。
この二週間ほぼ毎日、めぼしい学生がいないだろうかとこの東棟に通いつめている。そんな俺だが、未だ最上階である六階には足を踏み入れたことがない。理由は簡単で、この練習棟にはエレベーターがなく階段で上り下りしなければならないからだ。練習している生徒も考えは同じようで、下の階から練習室が埋まっていく。したがって、自ずと上に行けば行くほど生徒の数は少なくなるのだ。
ただ、ここまできたらそんなことなど言ってはいられない。息も絶え絶えになりながら六階の練習室へたどり着いた。
やはり思っていた通り、音のする部屋はまばらで、ここまで階段を上ってまで練習をする強者はピアノ科でも極わずかなようだ。
いつも通り、音のする練習室へと足を向けていく。各練習室の扉には十五センチ角程の小窓が付いており、中の様子を少し覗くことが出来る。ピアニストは扉に背を向けた状態で練習しているので、覗いても邪魔になることは無いとは思うが、そこは細心の注意を払いそっと観察をすることにしている。
階段から一番遠く離れた最奥のフロアまでやってきた。
ここまで来ると音のする部屋はひとつだけになった。周りの音が混在しない分、その練習室からはとても鮮明にピアノの音が聞こえてくる。俺基準であるがこいつめちゃくちゃ上手い。
聞こえてくる曲は俺でも知っている。確かフランツ・リストの『超絶技巧』。
一体どんな人が弾いているのだろう。興味本位で音のする扉へ近づき、そっと小窓から中を覗き見た。
後ろ姿からでもわかる、細身ではあるが肩幅の広い骨格とリストの曲を難なくこなす大きな手の持ち主がそこにいた。(フランツ・リストはとても手が大きかったと言われている作曲家だ)
時間を忘れて聴き込んでしまっていた岩倉は、ピアノの音が止んだところで我に返ったが、時すでに遅し。
「僕に用ですか?」
練習室の扉が開かれ、さっきまでピアノを奏でていた奴が目の前に現れた。
「とてもお上手だなと、思いまして…」
「それだけですか。気が散るので用がないならどこか行ってもらえますか?」
俺はすぐさま深々と頭を下げ、「すみませんでした。すぐに退散します」と告げたが、いや待てよ。これはもしやチャンスなのではないか。
このタイミングで話しかけてくるこの状況、伴奏をお願い出来たりしないかという一縷の望みが芽生えた。こんなに上手いピアニストそうはいない。ここまで来たら当たって砕けろ、だ。
「今俺、試験伴奏者を探していて、もし良かったら…」
ドンッ。という音とともに練習室の扉が閉められ、全てを言いきらないうちにシャットアウトされた。
呆気に取られしばしの間立ちすくむ岩倉。先ほどの続きなのだろう、何もなかったかのように目の前の練習室からまたピアノの音がし始めた。
我に返った岩倉は、もう少し断り方ってものがあるだろうと心の中で愚痴りながらも、さすがに凹まざるを得なかった。
「その顔、また不発に終わったようね」
楽器の練習棟に着くなり、満面の笑みを浮かべて声をかけてきたのは同じトランペット科の吉井だ。ムードメーカー的存在で、しっかり者なトランペット科のリーダー。ちなみに吉井は俺とは同じ門下生。異性であるが、割と気心知れた仲である。これを言ったら怒られるかも知れないが、恋愛対象はこれっぽっちもない。
「今日は一段と凹んでいるかもな。いいなって奴がいて声かけたらさ、誘う前に断られたわ」
「そりゃ、災難。ここまで振られ続けるって岩倉の運気、絶賛大不調なんじゃないの。今度、駅前の占いでも行ってきてみたらなにか見つかるかもよ」
吉井にかけられた言葉は全く耳に入ってこない。適当に「そうだな」と上の空状態で返事をしていた。
この吉井との会話によって、先刻の出来事が鮮明に思い出されていく。
「なぁ、吉井。ピアノ科にさ、180センチくらいのスラっとした、黒髪で短髪のちょっとつり目な、めちゃくちゃ上手い奴っている?」
口に出るが先。気づいたら吉井に質問をしていた。
「んー、…それなら一年の板垣くんかな、板垣千弥くん。入学当時少しだけ有名だったけど、岩倉覚えてない? 高校生の時、コンクールで賞を取ったりした子だから結構騒がれていたけど。ピアノの腕はもちろんなんだけど、それより板垣くんはルックスよ。あのちょっと冷徹な感じが、女心をくすぐるの! ねぇ、ちょっと聞いてんの? 岩倉!」
吉井のイケメンアクセルがまもなく全開を迎えそうであるが、岩倉の脳内はいきなりの情報過多に陥っていた。
板垣…確かに、その名前はどこかで聞いたような、いないような…。他の科、特にピアノや声楽などには全くといっていいほど興味がないので、その手のうわさ話には気持ち半分だった自覚はある。それがこんなところで仇になるとは…。
「てか、あんたもしかして、板垣くんに声かけたの! チャレンジャーね! そんなの振られるに決まってるじゃない」
俺が何も言わないことをいいことに、吉井はずっと喋り続けている。
「吉井ありがとう、おかげで色々すっきりしたわ」
「え、ちょっと話が途中じゃない。岩倉ってばっ」
吉井の質問に対し特に返答もしないまま、空いている練習室に「悪い、また今度」と言って逃げ入った。
吉井にはすっきりしたとは言ったものの、本当は全くすっきりなどしていない。むしろ、板垣千弥という存在に断然興味が湧いてしまった。
もう一度、あいつのピアノちゃんと聴いてみたいかも…。
岩倉はそんな事を考えながら練習のため楽器の準備を始めた。
水曜日の午後。
一週間の中で一番憂鬱な時間がやってきてしまった。ピアノレッスンの時間である。
〈音楽の基礎中の基礎、音大生なるものは全員ピアノに触れるべし!〉の如く、大体どこの音楽大学でも皆ピアノを習うというのが常である。
生まれてこの方、大学受験までピアノのピの字もなかった人間で、そんな俺にピアノを教えてくれる先生は、もちろん紛れもなくプロであり、大学教授の三峰久(みつみねひさし)その人である。
自分の専攻楽器と違い副科として受講するピアノは、志願ではなくランダムで指導者が決まる。まさか自分が教授の門下生になるなんて、夢にも思っていなかった。素人同然の俺なんかのために時間を割いてくれていることに、申し訳ない気持ちでいっぱいである。
レッスン室に到着して腕時計を見ると、ちょうど開始三分前だった。
いい時間だな。
憂鬱な気持ちを抱えたまま、レッスン室の扉をノックした。
「はーい、どうぞ」
教室の中から先生の声が聞こえてきたのでドアを開ける。
「岩倉くん申し訳ないね。もうすぐ終わるから、中で座って待っていてくれるかな」
確か俺のレッスンの前は空き時間だったはず。臨時のレッスンでも入ったのだろうと特に気にもせず、壁伝いに並ぶソファに座ろうとした、その時だった。
「では板垣くん、もう一度ここのフレーズから」
えっ! …いたがき…。
反射でピアノの方へ顔を向けていた。岩倉のいる位置からは、また背中しか見えない。
つい先日も耳にした、リストの超絶技巧が始まった。
やっぱり、この前会った人物は板垣千弥だったんだ。ドア越しではなく直に聴くこいつのピアノは、やっぱりめちゃくちゃ上手い。
演奏が終わり、三峰教授が板垣へ声を掛けている。
「うん、この前よりは大分良くなっているよ。この調子で頑張っていこう。それじゃ、また来週」
「はい。ありがとうございました」
譜面を片付け始めた板垣は、岩倉の存在には全く気づかないままに帰ろうとしていた。
こいつとの接点、何か繋ぎ止めて置く手立てはないだろうか。空っぽな頭を捻ってみたがなにも出てこない。とりあえず、この間のことをもう一度謝ろうと岩倉は考えた。
「あの、板垣くん。この間は悪かったね」
「おや、二人は知り合いだったかな」
「あー、いいえ。知り合いというわけではないんですけど…」
うまく説明ができず、岩倉は少し口籠ってしまった。そこへ、板垣がすかさず口を挟んできた。
「違います、教授。全くの赤の他人です」
おいおい、いくらなんでもその言い方はないだろう。
「いやいや板垣くん。流石に、そんな言い方はないんじゃないか、赤の他人って…。僕が一方的に試験伴奏の依頼をしてしまったのは、申し訳ないと思ってるけどさ…」
流石にそこまで他人行儀にされると、こっちも少し腹が立ってきてしまった。
そんな二人のやり取りを聞いていた三峰教授が「試験伴奏ね…」と独り言の様に言って考え込んだ。数秒後。
「板垣くん、ちょうどいい機会だし引き受けてみたらどう?」
「「えっ」」
岩倉は驚きと喜びに満ちた「えっ」。板垣は不満とめんどくささの「えっ」。二人のユニゾンがレッスン室に響き渡った。
「今の君にとって、とても大事な引き出しかもしれないよ」
それは三峰教授が板垣に向けてかけた言葉だった。
少し考える素振りを見せる板垣であったが、「わかりました」と伴奏を引き受けてくれることになった。ただ、納得がいっていないという表情は否めない。
「これも何かの縁だ。大切にするといい」
そう言って、板垣には見えない角度で俺にウィンクをしてきた三峰教授。こんなにお茶目な人だったんだと心で思いながら、ニ人にお礼の言葉を述べた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
岩倉は誠心誠意で二人に頭を下げた。
「あの、一つだけ条件があります」
そう言ったのは板垣だ。
「前期試験で思うような成績が出なかった場合、次はないってことでいいですか」
「君が言う、思うような成績って具体的にはどんなものかな」
そう切り返したのは三峰教授である。
「最高判定のSランクですね」
「っていっているけど、岩倉くん的にはどうなのかな」
Sランク…。正直言って不安でしかない。
岩倉の一年次の成績はAランクである。決して下手でも上手くもないという、至って普通の成績において、Sランクを目指すというのはかなりハードルが高い。ただ、ここで引き下がるわけにはいかないな。
「わかりました。その条件で結構です」
「はい。そうと決まればお互いに連絡先の交換をして、一回目の練習日程も決めてしまうといいよ」
あれよあれよという間に事が進み、互いにスマートフォンを取り出し連絡先の交換をした。
先に口を開いたのは板垣だった。
「明日の夕方、一昨日と同じ練習室にいます。そこまで来てください」
俺は「わかった」と短く返した。
岩倉の返事を聞くや否や、「ありがとうございました」と教授に告げ板垣はレッスン室を出て行ってしまった。
「それじゃ、レッスン始めようか」
「あ、はい。よろしくお願いします」
こうして、長らく俺の脳内に蔓延っていた試験伴奏者のしがらみは解かれた。
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