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本編
5
12月初旬。
暦の上では冬なのだが、都心の日中はまだ薄手のコートでも凌げるくらい温かな日差しが照り付けている。レッスン室でも午後になると窓から差し込む太陽の光がピアノに反射し、漆黒の曲線美が黄金色に輝いて見える。
週に一度の三峰教授のピアノレッスンを終えた岩倉は、ピアノから離れ帰り支度をしようとしている。
「岩倉くん、最近調子はどうですか」
「あっ、…左手全然さらえていなくて、来週までには何とかできるように……」
「いえいえ、そっちではありませんよ。トランペットの方です。板垣くんとは仲良くやっていますか」
俺の早とちりだった。てっきり、自身のピアノについて問われているのだと思ったのだが、とんだ勘違いだった。
「あ、はい! おかげさまで、順調に後期の試験に向けて練習をしています」
「そうですか……」
そう言いながら、首を傾げ顎に手を当て少し戸惑う仕草を見せながら三峰教授はおもむろに、ポケットからスマートフォンを取りだした。指をタップさせながら何かを探しているようだ。
「こんなことを岩倉くんに聞くのは見当違いな気がするのだけれど、どうしても心配でね。せっかく良い方向に向いてきたところだったものから」
そう言って向けられたスマートフォンの画面には、《新進ムジカ国際コンクール(6月)》の文字が映っていた。
音楽家を目指す者であれば、だれもが知っているコンクールだ。もしかして、千弥がこのコンクールに出るのだろうか。千弥のレベルであれば、このコンクールにエントリーしていても何らおかしくは無いと思う。
「板垣くん、出るんですか?」
岩倉の質問に対して、三峰教授は頷くことで返した。
「あと一年間くらいはコンクールに出させないつもりでいたんだよ。でも、岩倉くんと一緒に音楽をするようになってから調子がとても良くなっていくのがわかってね」
初めて聞く千弥のピアノについて、……俺なんかが聞いて良いことなのだろうか。少し戸惑ったけれど、内心ではとても気になって仕方がなかった。
「でも最近、極まれにではあるけれど心ここに在らずな時があってね。岩倉くん、何か知っているかなと思ったのだけど、何か知らないかな」
「僕ですか! あっ……いや、僕は月に数回会うだけの仲ですから、そこまで深くは、……ちょっと、わからないです。役に立てなくてすみません」
そう答えながらふと、後期の授業初めの出来事が頭をよぎった。千弥の練習室を覗いた時に見た、綺麗な女性のことである。
まさか、彼女と上手くいっていないからだったり…。いやいやいや! もしだぞ、…もし、付き合っていたとしても恋愛とピアノ、千弥は公私混同するようなやつではない。きっと……。
今、頭をよぎったことは瞬時に脳内から消し去った。
「変なこと聞いてすまなかったね」
「いえ、僕にも何かできたら良いんですけど」
とは言ったものの、千弥がコンクールに出ると聞いて俺が出来ることと言ったら、せいぜいお守りを買ってやるとか、審査員のように険しい顔で試験曲を聞いていてやるとか、観に行って客席から祈っててやるとか、そんなことくらいしか思い浮かばなかった。
三峰教授は無理をしない程度でいいから彼のことを気にかけてあげて欲しいと岩倉に告げ、次にレッスンに訪れる生徒のための準備を始めた。
岩倉も広げていた楽譜類を鞄に仕舞い、帰り支度を済ませる。
「ありがとうございました」
「はい、お疲れさま。左手、来週は完璧になっていることを期待していますよ」
さっき俺が口走ってしまったことをこのタイミングで、……教授、覚えていたんですねと心の中でつぶやいた。
努力しますと返事をし、俺はレッスン室を後にした。
年が明け、学校が始まると数日のうちに試験期間へと突入した。金管楽器は割と序盤に試験が組み込まれているため、みんなバタバタと忙しなくしている。
かく云う岩倉も試験を明日に控え、今日が試験前にできる最後の伴奏合わせだった。
三峰教授から聞いていた千弥の様子について。俺的には特にこれと言って気になったところはなく、今日も至っていつも通りの千弥だった様に思う。あの相談をされてから今日を入れて三回しか会えていないので、実のところなんとも言えないというのが正直な話なのだが……。
ひとまず、明日の試験を無事乗り越えることが一番先決だよなと自分に言い聞かせ、試験が終わったらそれとなく探りでも入れてみようか。そんなことを考えながら明日の試験のイメージトレーニングを始めた。
程よい緊張感の中で後期実技試験を終えることができた。
今回もすげーよかった!
よかったと一言だけで済ませてしまうのはどうなのだと思うかも知れないが、こういう時は言葉なんて出てこないもので、フィーリングで「あぁ、よかった」と思えたかどうかで良し悪しが決まるような気がする。
試験で高まった緊張感というものは、なかなかすぐには抜けていかないもので、今も身体がぽかぽかとしている。
でも、これだけはしっかり言っておかないとな。
「千弥、ありがとな! 今回もめちゃくちゃ楽しかった」
「僕も、楽しかったです」
「どうする? この後、飯でも行くか?」
「楽さん……ちょっと、話したいことがあるんです。少し、いいですか」
落ち着いて話をしたいからと、手近にあったロビーのソファーに二人並んで腰かけた。
試験前まで和やかに話していたはずなのに、今の板垣は苦虫を噛んだみたいに険しい顔で床を見つめている。
岩倉の頭の中に一抹の不安がよぎる。
「試験伴奏なんですけど、今回で最後にして欲しいんです」
「っ………!」
不安がよぎってはいたけれど、いざその言葉を聞いたらなんの声も出せなかった。
そのまま、千弥が捲し立てるように目を合わせないまま話し続けた。
「来年度の新進ムジカに出る予定なんです。まだ一年ですし、時間がいくらあっても足りないと思っていて、……楽さんの伴奏に割く時間はきっとないと思っています。だから、あの……、本当にごめんなさい!」
岩倉の目線の下、目の前には板垣の頭がつむじまではっきりと見えていた。
今にも思考が停止しそうだったけれど、空っぽの頭を巡らせた。
板垣から告げられた言葉は至極真っ当だった。
千弥はピアノを学びに音楽大学へ来ているのだ。俺の伴奏という、たかだかボランティアに割く時間はないと言われたらそれまでだと思った。もちろん、割り切れない思いもあるけれど……。
板垣の肩をトントンと叩き、とりあえず頭を上げろと言った。頭を上げろとは言ったが、板垣の顔を直視できるはずもなく、その勢いで岩倉は立ち上がった。
「わかった。コンクール、頑張れよ。応援してるから」
今の岩倉が言える精一杯だった。
「じゃ、またな……」
板垣の顔を見るのが怖くて、岩倉は振り返えらずにその場を後にした。
その間、板垣はずっと無言のままだった。
俺たちに、またって……あるのかな。
これはループなのか。
一年前と全く同じ境遇に立たされている岩倉は、新年度のカリキュラム説明会に出席していた。
今年も伴奏者を探さなきゃならないのか。
「はぁ、……嫌だね」
ため息と共に漏れ出た本音。
「そりゃ毎年、伴奏者探すなんて嫌だよな」
西田は隣でニヤっと笑いながら、岩倉の漏れ出た本音に返事をしてきた。それに対し岩倉は心の中で西田にツッコミを入れる。
俺が嫌なのは、そこではない。千弥が俺の伴奏者でなくなるということが嫌なのだ。
勘違いされるのは癪だったが、否定する気力もないので放っておくことにした。
千弥をもう一度口説き落とす方法はないだろうか。そんなことを春休み中、悶々と考えていた。
ピアノ科とトランペット科では、偶然を装って校内で会うことはまず不可能だ。講義内容も時間割も何一つ被らないし、知っての通り板垣は練習棟の最上階でいつも練習をしている。岩倉から会いに行かない限り遭遇することはまずないだろう。
千弥が伴奏を断った理由……。
コンクールのため、口ではそう言っていたけれど……。他にも何か理由があったのではないか。
でもとりあえずコンクールが終わったら一度、練習室を覗きに行って見ようかな。
新学期が始まるというのに、岩倉の心は全く晴れやしなかった。
時が過ぎるのは早く、新学期から二ヶ月ほどが経った。もちろん俺はいまだに伴奏者を見つけられていない。というか、コンクールが終わるまでは新しい伴奏者を見つける気はなかった。
今日は板垣が出場する新進ムジカコンクールの予選一日目。
このコンクールは予選の段階から一般公開がされており、チケットを購入すれば誰でも観ることができる。音楽家の登竜門と言われているコンクールなだけあって、熱狂的なファンも一定数いる。あらかじめコンクールのことを三峰教授に聞いていたことが幸いし、すんなりとチケットを取ることができた。
会場に入ると、芯から感じる張り詰めた空気が観客席まで伝わってくる。演奏会とは違いコンクールというものは独特の雰囲気が立ち込めている空間だ。
あらかじめ板垣の順番を把握していたので、あと数人というタイミングで席についた。やはりこの場にいるだけあって、今演奏している人もすごい演奏だ。
ついに板垣の番がやってきた。
そういえば、板垣が伴奏以外でまともに演奏している姿を初めて見るかも知れない。初めて見るその姿に、高揚と期待が入り混じった複雑な感情が溢れ出てきた。おかげで自分が出るわけではないのに、緊張で手のひらが少し汗ばんでいる。
演奏が始まった。
っ……、ん……!
曲が始まって間もないが、千弥の様子がなんかおかしい。俺の知っている千弥の音ではない。
ミスタッチ! どうしたんだ……。
あっ! また……。
千弥らしく、ない……。
持ち時間の十分が相当に長く感じた。
いつも軽々しく弾いて見せるはずの板垣の大きな手は、鉛でも付いているのかと思うくらい動きが鈍く、軽快とは程遠かった。
いつものあいつは、どこへ行ってしまったのだ。
自分ごとのように沈んだ気持ちのまま岩倉は会場を出た。足取りは非常に重く、背筋が機能しないまま俯きがちで歩いていた。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「あの、岩倉楽さんですか?」
「そう……ですが……」
綺麗な人だな。
思わず声に出してしまいそうなくらい、今目の前にいる女性はとても綺麗な人だった。
「突然お声掛けしてすみません。わたくし、板垣千弥の母です。あの、今から少しお時間ありますでしょうか」
千弥のお母さん!
言われてみれば、目元などどことなく千弥にそっくりな顔立ちをしている。いや、千弥がお母さんにそっくりなのか。
「こちらこそ、千弥くんには大変お世話になっています」
形式的な挨拶かもしれないが、失礼のないように深々と頭を下げ、「全然、時間は大丈夫です」と応えた。
千夜の母は立ち話もなんですねと言って、通りの向こうにある喫茶店へ行きませんかと誘ってくれた。
もちろん断る理由などない。ただ、俺になんの用なのだろうとは思った。
頭の中であれこれと考えてはみたが、特にこれといった事は思いつかず、むしろどうして俺の事を知っているのだろうという疑問だけが残った。
店内はそんなに混雑していることもなく、みんな周りを気にしてか一個飛ばしで席に座っている。店内を見まわし、ちょうど店の左奥のソファー席が空いていたのでそこに座ることにした。
席について荷物を置き上着を脱いでいたところで、水とおしぼりを店員さんがタイミングよく運んできた。
「岩倉さんは何を飲まれるかしら」
「えっと……カフェオレを」
温かいものと冷たいものがございますがどうされますかと聞かれ、冷たいものでと答えた。千弥のお母さんは、コーヒーをホットで注文する。
注文の品が届くまでの時間にしてそんなに長くない沈黙。それがさらに緊張を煽り、喉が渇いてきた。岩倉は今運ばれてきたばかりのレモン風味の水を、一気に半分ほど飲み干し、少しの緊張をほぐす。そして疑問に思っていたことを口にした。
「あの失礼かと思いますが、僕のことはどこで?」
何となくだが、千弥からではないような気がした。
「説明もなしに失礼しました。千弥の先輩に清水さんという方がいらっしゃるのですけれど、その方から岩倉さんのことを伺いました」
「清水さん?」
「千弥とは二つ違いになります。高校生の頃からよく慕っていてお姉ちゃんのように面倒をみてくれていた方です。今も同じ大学に通っていますから、たまに会っていると伺っています」
千弥にそんな人がいるとは初耳だった。
もしかして、俺が千弥の練習室で見たあの綺麗な女性は清水さんなのではないか。今、イコールで繋がった気がする。
「千弥とは必要最低の連絡しか取らなくなってしまいましたから、気になったことなどは清水さんにおんぶに抱っこの状態で、親としては非常に恥ずかしいのですが…」
「その、清水さんは今日も会場に?」
「はい。今日会場でたまたま岩倉さんをお見かけして教えてくださったのです。千弥が伴奏を担当している方だと」
「残念ながら、しているではなく、していたになりますが……」
自分で言っていて悲しくなってくるが、それが現実なのだ。
「あの、今日はそのことでお話をさせて頂きたいと思っているのです。千弥ともう一度一緒にやってはいただけませんか」
千弥のお母さんが難題を口にしたタイミングで、注文していた飲み物が運ばれてきた。店員さんが置き終わるのを待ち、岩倉が返答する。
「あの、できないと言っているのは千弥くんですから……。僕からは何とも……」
できることなら俺だって一緒にやりたいと思っている。心の底から。
「あの、岩倉さんは今日の千弥の演奏をご覧になってどう思われましたか」
今日の演奏……。正直、心から良いとは言えなかった。むしろあれは、俺の知っている千弥ではないと思った。それを正直に言っていいものだろうか。でも、今聞かれるということは、何かしらそこに答えがあるのではないかと思った。
「あれは、……真の千弥の実力ではないと思いました」
正直にありのまま思ったことを告げた。
「私もそう思います」
と告げた後、「あのようになってしまったのは、私が原因なのです」と千弥のお母さんは喉を詰まらせて言った。
それから、高校二年生の時からの千弥とピアノの葛藤を教えてくれた。
俺は何も知らずにこの一年、千弥と過ごしてきたのか……。
息が詰まるほど苦しくなった。千弥はそんな素振りを全く見せないから、これじゃ俺が能天気野郎みたいじゃないか。
「去年の夏頃から千弥の調子が良くなっていると先生から伺っていました。それは岩倉さんの伴奏をするようになったことがきっかけだと。でも、年が明けたくらいからまた入学前の状態に戻ってしまい、聞いたら伴奏をやめたのだと……」
試験後に伴奏をやめたいと俺に告げた辺りか……。
「先生曰く、やめたら逆効果なのではと一度は打診してみたそうなのです。でも、もう伴奏はしたくないの一点張りだったようで…。そこまで強い意思であればこれ以上はと判断したそうです」
そこまで言って千弥の母親は一呼吸置いた。続いて……、
「無理を承知でお願いします。千弥を助けていただけませんか」
この言葉は親心だと思うが、そこには、千弥が本当に大好きなピアノを嫌いになってほしくないという気持ちもこめられているような気がした。
「僕もまた千弥くんと音楽がしたいです」
初めからコンクールが終わったら千弥に会いに行こうと決めていた。今俺が思ったことをそのまま千弥に伝えよう。
嘘偽りがない、千弥への想いを…。
暦の上では冬なのだが、都心の日中はまだ薄手のコートでも凌げるくらい温かな日差しが照り付けている。レッスン室でも午後になると窓から差し込む太陽の光がピアノに反射し、漆黒の曲線美が黄金色に輝いて見える。
週に一度の三峰教授のピアノレッスンを終えた岩倉は、ピアノから離れ帰り支度をしようとしている。
「岩倉くん、最近調子はどうですか」
「あっ、…左手全然さらえていなくて、来週までには何とかできるように……」
「いえいえ、そっちではありませんよ。トランペットの方です。板垣くんとは仲良くやっていますか」
俺の早とちりだった。てっきり、自身のピアノについて問われているのだと思ったのだが、とんだ勘違いだった。
「あ、はい! おかげさまで、順調に後期の試験に向けて練習をしています」
「そうですか……」
そう言いながら、首を傾げ顎に手を当て少し戸惑う仕草を見せながら三峰教授はおもむろに、ポケットからスマートフォンを取りだした。指をタップさせながら何かを探しているようだ。
「こんなことを岩倉くんに聞くのは見当違いな気がするのだけれど、どうしても心配でね。せっかく良い方向に向いてきたところだったものから」
そう言って向けられたスマートフォンの画面には、《新進ムジカ国際コンクール(6月)》の文字が映っていた。
音楽家を目指す者であれば、だれもが知っているコンクールだ。もしかして、千弥がこのコンクールに出るのだろうか。千弥のレベルであれば、このコンクールにエントリーしていても何らおかしくは無いと思う。
「板垣くん、出るんですか?」
岩倉の質問に対して、三峰教授は頷くことで返した。
「あと一年間くらいはコンクールに出させないつもりでいたんだよ。でも、岩倉くんと一緒に音楽をするようになってから調子がとても良くなっていくのがわかってね」
初めて聞く千弥のピアノについて、……俺なんかが聞いて良いことなのだろうか。少し戸惑ったけれど、内心ではとても気になって仕方がなかった。
「でも最近、極まれにではあるけれど心ここに在らずな時があってね。岩倉くん、何か知っているかなと思ったのだけど、何か知らないかな」
「僕ですか! あっ……いや、僕は月に数回会うだけの仲ですから、そこまで深くは、……ちょっと、わからないです。役に立てなくてすみません」
そう答えながらふと、後期の授業初めの出来事が頭をよぎった。千弥の練習室を覗いた時に見た、綺麗な女性のことである。
まさか、彼女と上手くいっていないからだったり…。いやいやいや! もしだぞ、…もし、付き合っていたとしても恋愛とピアノ、千弥は公私混同するようなやつではない。きっと……。
今、頭をよぎったことは瞬時に脳内から消し去った。
「変なこと聞いてすまなかったね」
「いえ、僕にも何かできたら良いんですけど」
とは言ったものの、千弥がコンクールに出ると聞いて俺が出来ることと言ったら、せいぜいお守りを買ってやるとか、審査員のように険しい顔で試験曲を聞いていてやるとか、観に行って客席から祈っててやるとか、そんなことくらいしか思い浮かばなかった。
三峰教授は無理をしない程度でいいから彼のことを気にかけてあげて欲しいと岩倉に告げ、次にレッスンに訪れる生徒のための準備を始めた。
岩倉も広げていた楽譜類を鞄に仕舞い、帰り支度を済ませる。
「ありがとうございました」
「はい、お疲れさま。左手、来週は完璧になっていることを期待していますよ」
さっき俺が口走ってしまったことをこのタイミングで、……教授、覚えていたんですねと心の中でつぶやいた。
努力しますと返事をし、俺はレッスン室を後にした。
年が明け、学校が始まると数日のうちに試験期間へと突入した。金管楽器は割と序盤に試験が組み込まれているため、みんなバタバタと忙しなくしている。
かく云う岩倉も試験を明日に控え、今日が試験前にできる最後の伴奏合わせだった。
三峰教授から聞いていた千弥の様子について。俺的には特にこれと言って気になったところはなく、今日も至っていつも通りの千弥だった様に思う。あの相談をされてから今日を入れて三回しか会えていないので、実のところなんとも言えないというのが正直な話なのだが……。
ひとまず、明日の試験を無事乗り越えることが一番先決だよなと自分に言い聞かせ、試験が終わったらそれとなく探りでも入れてみようか。そんなことを考えながら明日の試験のイメージトレーニングを始めた。
程よい緊張感の中で後期実技試験を終えることができた。
今回もすげーよかった!
よかったと一言だけで済ませてしまうのはどうなのだと思うかも知れないが、こういう時は言葉なんて出てこないもので、フィーリングで「あぁ、よかった」と思えたかどうかで良し悪しが決まるような気がする。
試験で高まった緊張感というものは、なかなかすぐには抜けていかないもので、今も身体がぽかぽかとしている。
でも、これだけはしっかり言っておかないとな。
「千弥、ありがとな! 今回もめちゃくちゃ楽しかった」
「僕も、楽しかったです」
「どうする? この後、飯でも行くか?」
「楽さん……ちょっと、話したいことがあるんです。少し、いいですか」
落ち着いて話をしたいからと、手近にあったロビーのソファーに二人並んで腰かけた。
試験前まで和やかに話していたはずなのに、今の板垣は苦虫を噛んだみたいに険しい顔で床を見つめている。
岩倉の頭の中に一抹の不安がよぎる。
「試験伴奏なんですけど、今回で最後にして欲しいんです」
「っ………!」
不安がよぎってはいたけれど、いざその言葉を聞いたらなんの声も出せなかった。
そのまま、千弥が捲し立てるように目を合わせないまま話し続けた。
「来年度の新進ムジカに出る予定なんです。まだ一年ですし、時間がいくらあっても足りないと思っていて、……楽さんの伴奏に割く時間はきっとないと思っています。だから、あの……、本当にごめんなさい!」
岩倉の目線の下、目の前には板垣の頭がつむじまではっきりと見えていた。
今にも思考が停止しそうだったけれど、空っぽの頭を巡らせた。
板垣から告げられた言葉は至極真っ当だった。
千弥はピアノを学びに音楽大学へ来ているのだ。俺の伴奏という、たかだかボランティアに割く時間はないと言われたらそれまでだと思った。もちろん、割り切れない思いもあるけれど……。
板垣の肩をトントンと叩き、とりあえず頭を上げろと言った。頭を上げろとは言ったが、板垣の顔を直視できるはずもなく、その勢いで岩倉は立ち上がった。
「わかった。コンクール、頑張れよ。応援してるから」
今の岩倉が言える精一杯だった。
「じゃ、またな……」
板垣の顔を見るのが怖くて、岩倉は振り返えらずにその場を後にした。
その間、板垣はずっと無言のままだった。
俺たちに、またって……あるのかな。
これはループなのか。
一年前と全く同じ境遇に立たされている岩倉は、新年度のカリキュラム説明会に出席していた。
今年も伴奏者を探さなきゃならないのか。
「はぁ、……嫌だね」
ため息と共に漏れ出た本音。
「そりゃ毎年、伴奏者探すなんて嫌だよな」
西田は隣でニヤっと笑いながら、岩倉の漏れ出た本音に返事をしてきた。それに対し岩倉は心の中で西田にツッコミを入れる。
俺が嫌なのは、そこではない。千弥が俺の伴奏者でなくなるということが嫌なのだ。
勘違いされるのは癪だったが、否定する気力もないので放っておくことにした。
千弥をもう一度口説き落とす方法はないだろうか。そんなことを春休み中、悶々と考えていた。
ピアノ科とトランペット科では、偶然を装って校内で会うことはまず不可能だ。講義内容も時間割も何一つ被らないし、知っての通り板垣は練習棟の最上階でいつも練習をしている。岩倉から会いに行かない限り遭遇することはまずないだろう。
千弥が伴奏を断った理由……。
コンクールのため、口ではそう言っていたけれど……。他にも何か理由があったのではないか。
でもとりあえずコンクールが終わったら一度、練習室を覗きに行って見ようかな。
新学期が始まるというのに、岩倉の心は全く晴れやしなかった。
時が過ぎるのは早く、新学期から二ヶ月ほどが経った。もちろん俺はいまだに伴奏者を見つけられていない。というか、コンクールが終わるまでは新しい伴奏者を見つける気はなかった。
今日は板垣が出場する新進ムジカコンクールの予選一日目。
このコンクールは予選の段階から一般公開がされており、チケットを購入すれば誰でも観ることができる。音楽家の登竜門と言われているコンクールなだけあって、熱狂的なファンも一定数いる。あらかじめコンクールのことを三峰教授に聞いていたことが幸いし、すんなりとチケットを取ることができた。
会場に入ると、芯から感じる張り詰めた空気が観客席まで伝わってくる。演奏会とは違いコンクールというものは独特の雰囲気が立ち込めている空間だ。
あらかじめ板垣の順番を把握していたので、あと数人というタイミングで席についた。やはりこの場にいるだけあって、今演奏している人もすごい演奏だ。
ついに板垣の番がやってきた。
そういえば、板垣が伴奏以外でまともに演奏している姿を初めて見るかも知れない。初めて見るその姿に、高揚と期待が入り混じった複雑な感情が溢れ出てきた。おかげで自分が出るわけではないのに、緊張で手のひらが少し汗ばんでいる。
演奏が始まった。
っ……、ん……!
曲が始まって間もないが、千弥の様子がなんかおかしい。俺の知っている千弥の音ではない。
ミスタッチ! どうしたんだ……。
あっ! また……。
千弥らしく、ない……。
持ち時間の十分が相当に長く感じた。
いつも軽々しく弾いて見せるはずの板垣の大きな手は、鉛でも付いているのかと思うくらい動きが鈍く、軽快とは程遠かった。
いつものあいつは、どこへ行ってしまったのだ。
自分ごとのように沈んだ気持ちのまま岩倉は会場を出た。足取りは非常に重く、背筋が機能しないまま俯きがちで歩いていた。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「あの、岩倉楽さんですか?」
「そう……ですが……」
綺麗な人だな。
思わず声に出してしまいそうなくらい、今目の前にいる女性はとても綺麗な人だった。
「突然お声掛けしてすみません。わたくし、板垣千弥の母です。あの、今から少しお時間ありますでしょうか」
千弥のお母さん!
言われてみれば、目元などどことなく千弥にそっくりな顔立ちをしている。いや、千弥がお母さんにそっくりなのか。
「こちらこそ、千弥くんには大変お世話になっています」
形式的な挨拶かもしれないが、失礼のないように深々と頭を下げ、「全然、時間は大丈夫です」と応えた。
千夜の母は立ち話もなんですねと言って、通りの向こうにある喫茶店へ行きませんかと誘ってくれた。
もちろん断る理由などない。ただ、俺になんの用なのだろうとは思った。
頭の中であれこれと考えてはみたが、特にこれといった事は思いつかず、むしろどうして俺の事を知っているのだろうという疑問だけが残った。
店内はそんなに混雑していることもなく、みんな周りを気にしてか一個飛ばしで席に座っている。店内を見まわし、ちょうど店の左奥のソファー席が空いていたのでそこに座ることにした。
席について荷物を置き上着を脱いでいたところで、水とおしぼりを店員さんがタイミングよく運んできた。
「岩倉さんは何を飲まれるかしら」
「えっと……カフェオレを」
温かいものと冷たいものがございますがどうされますかと聞かれ、冷たいものでと答えた。千弥のお母さんは、コーヒーをホットで注文する。
注文の品が届くまでの時間にしてそんなに長くない沈黙。それがさらに緊張を煽り、喉が渇いてきた。岩倉は今運ばれてきたばかりのレモン風味の水を、一気に半分ほど飲み干し、少しの緊張をほぐす。そして疑問に思っていたことを口にした。
「あの失礼かと思いますが、僕のことはどこで?」
何となくだが、千弥からではないような気がした。
「説明もなしに失礼しました。千弥の先輩に清水さんという方がいらっしゃるのですけれど、その方から岩倉さんのことを伺いました」
「清水さん?」
「千弥とは二つ違いになります。高校生の頃からよく慕っていてお姉ちゃんのように面倒をみてくれていた方です。今も同じ大学に通っていますから、たまに会っていると伺っています」
千弥にそんな人がいるとは初耳だった。
もしかして、俺が千弥の練習室で見たあの綺麗な女性は清水さんなのではないか。今、イコールで繋がった気がする。
「千弥とは必要最低の連絡しか取らなくなってしまいましたから、気になったことなどは清水さんにおんぶに抱っこの状態で、親としては非常に恥ずかしいのですが…」
「その、清水さんは今日も会場に?」
「はい。今日会場でたまたま岩倉さんをお見かけして教えてくださったのです。千弥が伴奏を担当している方だと」
「残念ながら、しているではなく、していたになりますが……」
自分で言っていて悲しくなってくるが、それが現実なのだ。
「あの、今日はそのことでお話をさせて頂きたいと思っているのです。千弥ともう一度一緒にやってはいただけませんか」
千弥のお母さんが難題を口にしたタイミングで、注文していた飲み物が運ばれてきた。店員さんが置き終わるのを待ち、岩倉が返答する。
「あの、できないと言っているのは千弥くんですから……。僕からは何とも……」
できることなら俺だって一緒にやりたいと思っている。心の底から。
「あの、岩倉さんは今日の千弥の演奏をご覧になってどう思われましたか」
今日の演奏……。正直、心から良いとは言えなかった。むしろあれは、俺の知っている千弥ではないと思った。それを正直に言っていいものだろうか。でも、今聞かれるということは、何かしらそこに答えがあるのではないかと思った。
「あれは、……真の千弥の実力ではないと思いました」
正直にありのまま思ったことを告げた。
「私もそう思います」
と告げた後、「あのようになってしまったのは、私が原因なのです」と千弥のお母さんは喉を詰まらせて言った。
それから、高校二年生の時からの千弥とピアノの葛藤を教えてくれた。
俺は何も知らずにこの一年、千弥と過ごしてきたのか……。
息が詰まるほど苦しくなった。千弥はそんな素振りを全く見せないから、これじゃ俺が能天気野郎みたいじゃないか。
「去年の夏頃から千弥の調子が良くなっていると先生から伺っていました。それは岩倉さんの伴奏をするようになったことがきっかけだと。でも、年が明けたくらいからまた入学前の状態に戻ってしまい、聞いたら伴奏をやめたのだと……」
試験後に伴奏をやめたいと俺に告げた辺りか……。
「先生曰く、やめたら逆効果なのではと一度は打診してみたそうなのです。でも、もう伴奏はしたくないの一点張りだったようで…。そこまで強い意思であればこれ以上はと判断したそうです」
そこまで言って千弥の母親は一呼吸置いた。続いて……、
「無理を承知でお願いします。千弥を助けていただけませんか」
この言葉は親心だと思うが、そこには、千弥が本当に大好きなピアノを嫌いになってほしくないという気持ちもこめられているような気がした。
「僕もまた千弥くんと音楽がしたいです」
初めからコンクールが終わったら千弥に会いに行こうと決めていた。今俺が思ったことをそのまま千弥に伝えよう。
嘘偽りがない、千弥への想いを…。
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『彼』と出会ったことで由利の楽園は脅かされ、地獄へと変わると思ったのだが……。
「兄さん、僕のオメガになって」
由利とYURI、義兄と義弟。
重すぎる義弟の愛に振り回される由利の運命の行く末は――
執着系義弟α×不憫系義兄α
義弟の愛は、楽園にも似た俺の住処になるのだろうか?
◎表紙は装丁cafe様より︎︎𓂃⟡.·
【R18+BL】空に月が輝く時
hosimure
BL
仕事が終わり、アパートへ戻ると、部屋の扉の前に誰かがいた。
そこにいたのは8年前、俺を最悪な形でフッた兄貴の親友だった。
告白した俺に、「大キライだ」と言っておいて、今更何の用なんだか…。
★BL小説&R18です。
エスポワールに行かないで
茉莉花 香乃
BL
あの人が好きだった。でも、俺は自分を守るためにあの人から離れた。でも、会いたい。
そんな俺に好意を寄せてくれる人が現れた。
「エスポワールで会いましょう」のスピンオフです。和希のお話になります。
ハッピーエンド
他サイトにも公開しています
【完結】言えない言葉
未希かずは(Miki)
BL
双子の弟・水瀬碧依は、明るい兄・翼と比べられ、自信がない引っ込み思案な大学生。
同じゼミの気さくで眩しい如月大和に密かに恋するが、話しかける勇気はない。
ある日、碧依は兄になりすまし、本屋のバイトで大和に近づく大胆な計画を立てる。
兄の笑顔で大和と心を通わせる碧依だが、嘘の自分に葛藤し……。
すれ違いを経て本当の想いを伝える、切なく甘い青春BLストーリー。
第1回青春BLカップ参加作品です。
1章 「出会い」が長くなってしまったので、前後編に分けました。
2章、3章も長くなってしまって、分けました。碧依の恋心を丁寧に書き直しました。(2025/9/2 18:40)