【中長編BL┊︎完結】銀色に輝く漆黒のセレナータ

三葉秋

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本編

6(前編)

 棟の入り口からソファーが並ぶロビーを通り抜け、廊下を半分ほど進んだところに階段がある。
 半年振りに足を踏み入れた東棟に少し緊張感を覚えながら、階段の手すり部分を下から覗き込む。四階から上の階は夕日で少し霞んで見えるが、六階までが吹き抜けている構造だ。
 遠いな……。ポロッと口にした言葉。
 最初こそ敬遠していた六階の練習室も、板垣との練習が始まってからはなんの苦もなかった。
 一歩ずつ踏みしめながら階段を上り、ちょうど五階に差し掛かった辺りで微かにピアノの音が聞こえてきた。板垣のピアノの音だ。
 ―――リストの超絶技巧。
 なぜこの曲を弾いているのか。千弥のお母さんから聞いた。
 この曲なら弾くことができるから……。
 千弥にはもっと色々な曲を弾いてほしい。何より俺は、もっと千弥のピアノを聴いてみたいと思う。
 練習室の前まで辿り着いたが、まだピアノの音がする。演奏が終わるまでの間、岩倉は扉の横でしばらく待つことにした。
 ちょうどよかった。少しだけれど考える時間ができる。まず何から話そうか、……いや、その前にちゃんと話を聞いてくれるのだろうか。
 板垣がまともに執りなしてくれるのか、岩倉は不安に駆られた。でもまずは、自分の気持ちを伝えないといけない。そう決心を固めたところで、ピアノの音が止んだ。
 意を決して、……コンコン……。
 ドアをノックする。
 防音扉のため中からの返事は聞こえない。岩倉は恐る恐る扉を開け、顔を覗き込んだ。
「久しぶり。今、少しいいか……」
 覗き込んだ俺の顔を見るなり板垣は、両目を見開き驚いた顔でこちらを見た。
「ちょっと、話したいことあるん……」
 言い終わらないタイミングで、板垣の声が覆いかぶさってきた。
「僕はありません! ……か、帰ってください!」
 そう言うなり立ち上がり、まだ閉まりきってない扉の近くにいた岩倉を部屋の外に追い出そうとして来る。体格差で千弥に勝てないことはわかっている。咄嗟に千弥の腕を掴み、千弥の動きを少しだけ封じた。
「おい! 待てって、少しでいいんだ。話を聞いてくれ」
 見上げると互いの目が合った。逸らしたら負けだと思った。今ここで引き下がるわけにはいかない。
 必死で目で訴えた。見つめあった視線は、板垣から先に逸らされた。
「わかりましたから、……これ、離してください」
「あ、悪い……」
 加減ができていなかったからか、掴んでいた板垣の色白の腕が少し赤くなってしまっていた。近かった距離は手を離した事で、人ひとり分広がった。
「先に言っておきます。伴奏なら引き受けるつもりはありませんよ。って、さすがにこの時期ですし、いますよね。ハハハ……」
 板垣は少し寂しそうな顔をして鼻で笑っている。
「誰も見つけて、ない……」
「えっ……」
「お前以外、考えられないから。……見つけてない」
「っ……、もう六月ですよ。何やっているんですか」
 あからさまに板垣は焦った顔をしていた。
 そりゃそうだろう。夏休みに入るまで後一ヶ月、休み明けには試験が始まるのだ。この時期まで伴奏者を探していないとは、試験をドブに捨てるようなものである。
「先に言われちゃったけどさ、今日はお前にもう一度、伴奏者になってもらいたくて来たんだ」
 息を整えて、板垣の方にしっかりと向き直る。
「俺の伴奏者をもう一度引き受けてくれないか。頼む。千弥以外の伴奏は考えられないんだ」
「何度言われても無理です。引き受けられません」
「俺に問題があるなら言ってくれ。直せるものなら、直す」
「そういうんじゃないんです。そういうんじゃ。……これは、僕の問題なんで。楽さんがどうにかできるものでもないんです」
 そう言いながら板垣はピアノ椅子に座り込み、手の平で顔を覆いながら譜面台に向け伏せてしまった。
「なぁ、……俺がお前の力になれることはないのか」
 これを板垣に言ってもいいことなのか少し迷ったが、力になりたいと思っていることは確かだ。
「この前の新進ムジカ、観に行ってたんだよ」
「えっ……」
 おどろいた顔で板垣は一瞬顔を上げたが、すぐにまた顔を伏せてしまった。
「なぁ、俺が力になれること本当にないのか。俺じゃ、頼りないか」
 岩倉は顔を覆っている肩にそっと触れた。
「……。………」
 沈黙が続く。
 顔、見せてくれよ。心の中でそう思っていた。その時。
「怖いんです……」
 千弥が口を開いた。
「あの演奏を聴いたならなんとなくわかりますよね。精神的なスランプみたいなものみたいで、自分でもどうしていいかわからないんです。なんでこうなったのか、理由はなんとなくわかっているんですけどね」
 肩で息をする板垣の表情が少し苦しそうに見えた。
「楽さんといると、うまく行き過ぎて怖いんです。弾けなかったピアノが、弾けるようになって。孤独感も薄れていく……」
 岩倉は所々で相槌を打ちながら板垣の言葉を待つ。
「でも、同時にそれがなくなった時のことを考えてしまうんです。失ったら、また弾けなくなって、孤独を味わう事になる。そんなの耐えられないじゃないですか。だったら、最初からなかったことにすればいいと思いました。楽さんがいなくても成立するように、ピアノと向き合えばいいって……」
 千弥の話を聞いていたら、俺が一緒にいれば解決するような気がするが、それではダメなのだろうか。
「俺といるって選択肢は、ないのか?」
「それじゃ……ダメなんです」
 なんで。と聞きたいが、その言葉がうまく出てこなかった。代わりに、俺への拒絶なのではないかと疑ってしまう。
「俺のこと、嫌いになったのか?」
「そんなこと絶対ないです! 嫌いになるなんて、……絶対、……ない」
「嫌いじゃないなら…」
「楽さんのことは嫌いになんて、……どう頑張ってもなれない!」
 やっと顔を上げた板垣は少し泣きそうな顔をしていた。
 泣きそうなのは、どちらかというと俺の方だけどな……。
 そう思っていたら、急に覚醒したみたいに板垣の目がキリッと細められた。
「楽さん、今から僕がいうこと、全て忘れてもらえますか」
 そう言って板垣は呼吸を整えるように、深く息を吸い込み吐き出した。
 そうして、岩倉の目を見つめ話し始めた。
「僕の恋愛対象は男です」
 この大学であればさして珍しくもないが、少しだけ驚いてしまった。
「楽さんのことが好きです。この好きは友達じゃなく恋人になりたいって思う好き、楽さんを抱きたいって思うすきです。近くにこんな気持ちのやつがいたら、とてもじゃないけど演奏なんてできやしないでしょ。だから、僕のことはもう誘わないでください。はい、そういう理由なので、今話したことは全て忘れてください」
 そう言いながら手首を左右に動かし、しっしと払いのける動きをして俺を追い出そうとしてくる。
「……今聞いたこと、全部忘れたくない」
 えっ!
 声は聞こえてこないが、板垣の顔はそういう顔をしていた。
「俺の伴奏を引き受けてくれ」
 自然と口にしていた。さっき聞いた千弥の気持ちに俺なりに答えたつもりだ。
「はぁ! ……わっ、わかっているんですか」
「わかってるつもりだ! 何度も言わせるなよ。受け止める! お前の、その……恋人になりたいって気持ちもそれ以外も全部、……受け止める! 全部わかった上で、お前に伴奏をお願いしてるんだ」
 照れくさくなった岩倉は、窓の方に近づき外を眺めた。暗くなった外の景色は何も見えず、窓に反射する自分の熱った顔が鏡の様に映っているだけだった。少しだけ窓から涼しい隙間風が入ってくるのが、今の俺にはとても心地よかった。
 板垣から向けられた好意に全く嫌悪感など生まれず、むしろ嫌われていなかったことへの安堵と嬉しさが込み上げてきた。
 椅子から立ち上がる板垣の気配がした。
 窓に板垣の姿が映り込み、段々と近づいてくるのが見える。
「本気にしますよ。いいですか」
 いい。と短く返事をしたのを合図に、後ろから強く抱きしめられた。
 俺の頭の上に千弥の顎が乗っかっている。千弥の吐息が俺の髪をかすめ、とてもくすぐったい。
「あの、もう一度言っていいですか? 中途半端だったので」
「なにを?」
「告白です」
 告白という言葉を口にされると一気に恥ずかくしなった。沈黙を肯定ととらえたのか、待ちきれなかったのか。板垣は一段と強く抱きしめ告げた。
「楽さんのことが大好きです。僕と付き合ってもらえませんか」
 岩倉は板垣の腕にそっと手を重ね「よろしくお願いします」と言った。
 板垣は嬉しいと耳元で何度も囁いた。
 ふと、ここは練習室だということを思い出し、急に思考が現実に戻った。六階の練習室なので誰か来るということもないとは思うが、一度考え出すと不安は募る一方だ。
 ただ、そんなことはお構いなし状態の板垣は、懐かしい話をし始めた。
「ねぇ、楽さん。最初に会った時のこと覚えていますか?」
「俺が盛大にお前に振られた時のことか」
「その節は、すみませんでした。正直、ドアを開けるまで、覗き込んでいるウザいやつがいるとしか思っていなかったんですけどね。実はその時から、めっちゃ可愛いなとは思っていたんですよ」
「可愛いって……。そういうのはやめろ、恥ずかしいから。そういえば、あの時なんで俺がいるってわかったんだ?」
 それはですね。と言って俺をピアノ椅子のところまで連れて行く板垣は、どこか嬉しそうだった。
「ここ座ってみてください」
 ピアノ椅子に座らされた俺は、何も置いていない譜面台に視線を移すように言われた。
「楽譜置いてないと鏡みたいでしょ。ちょうど映るんですよね、ドアの小窓の部分が」
 本当だ。ピアノの譜面台が鏡のようになっている。
 ということは……、他の練習室を覗いていた時も見えていたのかと少々肝が冷えたが、よくよく考えたら千弥は楽譜を置いていなかったから見えたのだということに気がつく。大抵の奴らは楽譜を広げているから問題はないはずだ。
「せっかくですから楽器、持ってきますか?」
「あぁ、ちょっと待っててくれ。すぐに戻る」
 俺は椅子から立ち上がり、駆け足で練習室を出ようとしたところで肩を掴まれた瞬間、おでこに何かが触れた。
「時間がないですから、夏休みも返上ですね」
 板垣は少し嬉しそうに笑ってこっちをみているが、岩倉は今しがたの行為はなんだったのか、理解するまでにさほど時間はかからなかった。
 おでこにキス、された……。
「本当に可愛い」
「うるさい! ちょっと、行ってくる」
 そう言ってそそくさと練習室を出て行った岩倉の顔は、茹蛸のように真っ赤で、これは誰もが口を揃えて「可愛い」と言わざるを得ないのであった。
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