白冥霜花

紫雲丹

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懐誓月

第九十二話



 第九十二話


 中元節の日の天界。
 天吏宮の奥深くの中庭にて、霍舟晟フオ・ジョウションは天吏達の名が刻まれた石碑を眺めていた。
 石碑には、天吏として召し上げられた者の名が順に刻まれており、今もなお天吏として生きる者の名は淡く光を放つ。既に輪廻に戻った者や、魂を失った者の名は、光が消えてただの刻印として残る。
 霍舟晟は石碑に刻まれた「霖戒」の名に目を落とした。他の者達よりも輝きが薄く、今にも消えてしまいそうな危うさがある。かつて、光が灯っていた蘭一蓮の名も、このように儚くゆらめいていた。

 蘭一蓮の魂が消失した折、天界は一時騒然となった。人界に降りた天吏を監視する監視官の報告により、その出来事は瞬く間に天吏たちの間で広まり、噂となった。
 鬼王の一柱である忌狐青が表立って人界を乱し始めた事実も加わり、天界は緊張の渦に包まれていた。天吏たちは皆、ただ天命が下るのを待ち続けている。

 霍舟晟は霖戒の名から目を離し、少しずつ石碑の名を遡っていく。すぐ近くに自分の名があった。そして、さらに少し前には彼にとってずっと気掛かりだった人物の名がある。

 ――「夜玉牙イエユーヤー」。

 今も変わらぬ光を放ち続けているその名に、霍舟晟は無言で立ち尽くす。生前も面と向かって会う事は無かったが、天吏となって以降も、彼とは一度たりとも顔を合わせていない。すれ違う機会すらなく、向こうから明確に距離を取られているのは明らかだった。
 霍舟晟には近づけるような理由がなかったし、向こうにも会うつもりはなさそうだった。それゆえ、こうして石碑を前にしては、その名がまだ灯っているかどうかを確認するだけにとどめていた。

「舟晟!ここにいたのですか」

 尖った声色が背後から飛んできた。霍舟晟が振り向くと、碧琅君が衣の裾を揺らして駆け寄ってくる。慌ただしい足音に、どこか焦りの色が見えた。

「……霖戒将軍が心配でね、見にきてたんだ」

 霍舟晟は穏やかに微笑みながら答えると、碧琅君はおなじみの扇子を取り出し、感情をなだめるようにぱたぱたと扇ぎ始める。

「その霖戒がまた無茶を……!」

 碧琅君の声には、苛立ちと心配が滲んでいた。天吏宮にある「天水鏡てんすいきょう」と呼ばれる水盆を通じて、監視官たちは人界に降りた天吏の動向を見守ることができる。ただし、地獄はその範囲外であり、天界の加護が届かず、天水鏡すら及ばない。

「あろうことかあの鬼と地獄へ……!地獄では私の監視も届きません……!地獄ですよ……!?」
「まあまあ落ち着いて。天霄破邪が持ち込まれていないか確認しにいったんだろう?」

 霍舟晟は宥めるように声をかける。その様子からして、碧琅君はまだ天帝には報告していないのだろう。監視官の判断に任される限り、報告の是非も彼に委ねられている。

「あの鬼はきっと霖戒と縁が深いのだろうし、裏切られる事はないのではないかな。なにより霖戒は強いのだし、無事に戻ってくるさ」

 霍舟晟の変わらぬ口調に、碧琅君もようやく落ち着きを取り戻したらしい。扇子を閉じると、それで彼の胸元を軽く小突く。

「随分と呑気ですね……!あなたが焦る所など、これまで一度も見たことはありませんが」
「短気は損気、が僕の信条だから。それに焦ったところで僕たちは地獄へ行けないからね」

 霍舟晟が苦笑すると、碧琅君はふっと気を抜いたように肩を落とした。秋霖の身を案じる気持ちは、霍舟晟とて同じだ。

「君は今回、中元節での守護の任務は与えられていないのだっけ。彼が戻ってきたら、無理矢理にでも、一度ここへ引っ張って来たらいいじゃない」
「……ええ、そのつもりです」

 再び、二人は石碑へと視線を向けた。秋霖が「休め」と言われて素直に休むような性分ならば、碧琅君もここまで気を揉むことはなかっただろう。
 霍舟晟は静かに息を吐くと、碧琅君の肩を軽く叩いた。

「それじゃあ、僕はそろそろ行ってくるね」
「……はい、お気をつけて」

 去っていく霍舟晟の背中を、碧琅君はしばらく見送っていた。



 *



 虓屠が秋霖のもとを離れてから、夜が明けてもその気配が戻ることはなかった。宝湖潭の静かな水面を見つめながら、秋霖は自らの手のひらに視線を落とす。
 地獄からの脱出の際に自ら切り落とした腕は、霊気によって補われ、今では以前と変わらぬように動いた。だが、すでに傍にいることが当たり前になりかけていた鬼の姿がないことが、心に小さな喪失感を残していた。

 ――虓屠を遠ざけようとしたのは、自分だ。彼はその気遣いから、身を隠したに過ぎない。

『あんたの迷惑にならないように側にいる』

 かつての主君、凌虎渓に似た鬼。
 姿かたちではなく、言葉や振る舞いの端々に滲む、あまりに似通った気配。しかし、それがもし自分の勘違いだとしたら"友"と呼んでくれた彼に、他人の面影を重ねるのは誠実ではない。
 確信と呼べる証はまだ何一つない。むしろ、彼の言う通り、虎渓であるという証拠など、この先も得られないのかもしれない。地獄の濁気にあてられ、虎渓を求めるあまり、都合の良い部分だけを拾い上げてしまったのではないか。

『例えあんたが探してる主君が鬼になってたとして、あんたの主君は、生きてた時と全く同じだと思うか?』

 虎渓の魂がどこかで生まれ変わっていると信じて、秋霖は天吏となった。生前、最期の別れとなったあの日、炎の中で散っていく虎渓の言葉をいまだに鮮明に覚えている。

『俺は――例え悪鬼になろうとも……父上や母上、叔父上、叔母上…皆の無念は、晴らしたぞ』
 
 もし本当に鬼になってしまっていたのなら、いつか出会えるその日まで、天吏として生き続ける、探し続けると決めている。
 たとえ、彼の魂が変わり果てていようと、あるいはすでに消えてしまっていようと。もう二度と見つけられなくとも。

(私が私として生き続ける限り、この心にお前はいる)

 決意を胸に、秋霖は御風術で空へと舞い上がった。自分には、まだ果たすべき天命がある。地獄での天霄破邪の捜索に失敗した今、新たな手がかりを探さねばならなかった。
 魂が半減した影響で、帰天術も踏返鏡の術も使えない。そのため御風術のみに頼って、さらに南西の都である貴蘭きらんへと向かうことにした。

 中元節の夜は明けたが、祭礼の期間は地方によって異なる。特に南方では三日間にわたり祀る習わしがあるため、秋霖の読みが正しければ、貴蘭にはまだ天吏が遣わされているはずだ。
 貴蘭は、森林と河川に抱かれた美しい都市である。高原の中腹に位置し、街の四方を緑深き山々が取り囲む。夏でも涼しいその土地を御風術で駆け抜けると、上空の風には新緑の香りが混じり、秋霖の衣をそっと撫でていった。
 大河には、物資を積んだ船や、人々を乗せた渡し船が点々と浮かぶ。

 秋霖は霊気の流れに意識を傾け、周囲の気配を探った。貴蘭の市街を越え、さらに南西へと進むと、予想通り向かい側から一つの気配が現れる。
 梔子色の武人装束に身を包み、豊かな黒髪を風に揺らせながら現れたのは霍舟晟だった。彼は秋霖に気づくと、ぱっと表情を綻ばせる。

「霖戒……!君だったか」
「霍兄君」

 秋霖が礼を取ろうと手を前に出しかけた瞬間、霍舟晟はその手を両手で包んだ。その魂が、以前よりもさらに希薄になっていることに気づいた彼は、ため息まじりに苦笑しながら、そっと手を離した。

「碧琅君にはもう会ったのかな?彼も随分と君を心配していたけれど……」
「はい、彼の蘊護琴に助けていただきました。私は今、帰天術が使えず、ここに来れば天界の事情が聞けるかと……」

 貴蘭は、霍舟晟が生前に軍人として暮らしていた土地だった。天吏は踏返鏡の術で所縁ある地へと赴くため、ここに派遣されたのも当然といえる。
 宝湖潭で碧琅君の治療を受けたときは、虓屠が傍にいたせいで、天界の事情を聞く余地はなかった。
 霍舟晟は頷き、秋霖の背に手を添えて川縁へと降りるよう促す。

「……なるほどね。君がここへ現れた時、気配は感じ取れたけれど、天吏かどうかも分からなかったよ」

 
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