白冥霜花

紫雲丹

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懐誓月

第百一話



第百一話



 霍舟晟は、おそるおそる立ち上がり、自分の弓を構えた。後ろ足を引き、小さな体重をめいっぱい預けて弦を引き絞る。放たれた矢は、弧を描きながら空へ吸い込まれていく。勢いは弱いが、確かな軌道だった。

「ほう、粗末ながらもよく飛ぶ弓だ。それはどこで覚えた」
「自分で考えて、練習しました……」

 黄儀は興味深げに頷いた。狩の腕に覚えがある彼が、獲物を先に仕留められたのは後にも先にもこれが初めてだった。それも、まだ幼い少年に。
 自己流で飛ばし方を覚えたせいで妙な癖がついているが、器用で才能がある。しかし身なりは貧しく、痩せ細っている。その日を生きていくのに精一杯で、手を差し伸べなければ、今後その才能を磨く機会は訪れる事はないだろう。

「こちらへ来なさい。もっといい弓の使い方を教えてやろう」

 穏やかだが、有無を言わせぬ声で黄儀は手招いた。その日を境に、二人の師弟としての交流が始まった。

 その後、霍舟晟は黄儀の屋敷で教えを授かりながら成長し、十五歳になる頃には側近として軍に入った。黄儀の後ろ盾は大きく、霍舟晟は才能を惜しみなく開花させ、十年の間に数々の戦場で目覚ましい戦功を挙げていった。

「私も、そろそろお役目を解かれる」

 ある年の冬、軍務の記録を整理する霍舟晟の横で、黄儀がふと呟いた。

 霍舟晟は顔を上げ、白髪の増えた髪を見つめた。出会ってからの年月を思えば、黄儀はさらに老いた。寂しさはある。しかし過酷な軍務から離れ、静かな暮らしに戻れるなら、それは良いことだ。
 霍舟晟にとって黄儀は恩師であり、祖父のような存在でもあった。引退後も傍に仕え、恩返しがしたいと心から思っていた。

「……黄将軍が引退なされるなら、僕もお側においてください。あなたが居なくなってしまったら、僕はずっと肩身が狭いです」
「何をいう!それは絶対にならんぞ!」

 ぴしゃりと叱責されて、霍舟晟は苦笑した。黄儀は溜息をつきつつも、慈しむように目を細める。
 霍舟晟は洸貴王に認められ、滙川城でも要となる存在だ。その優しさと誠実さゆえに民に慕われるが、同時に功績が増えるほど妬みや恨みも集まりやすい。
 黄儀には、それが心配だった。しかし年老いていく自分はいつまでも彼を守ってやる事ができない。そんな思いが胸に去来していたとき、霍舟晟がじっと黄儀を見つめていることに気づいた。

「どうした?舟晟」
「いえ……黄将軍のかんざしが、綺麗だと思って…。珍しいものだと、いつも思っていたんですが」

 黄儀は、自身の髷にさしてある玉の簪に触れた。いい機会だと思い、彼は答えた。

「これは、私の母の形見なのだ」
「お母上の……」
「舟晟、よく聞きなさい」

 改まった声に、書簡を置いて姿勢を正す。

「私の母は、玉族だった」
「……!」

 霍舟晟は息を呑んだ。黄儀が自身の生い立ちを語る事はこれが初めてだった。

「当時はまだ、玉族との交流があったのだ。母がどのようにして父に連れてこられたのかは、ついぞ聞かされていない。……想像はつくがな」

 黄儀は簪を抜き、繊細な玉飾りの細工を霍舟晟に見せる。玉族特有の模様が蝋燭の柔らかい光を受けて美しく輝いた。

「私は自分の生まれを恥じた事はない。だが、二国が争えば争うほど、表立って言うことができなくなる」

 悲しみが滲んだ言葉の重みが霍舟晟にも伝わった。滙川城の将軍としてあり続ける限り、南玉との争いは避けられず、真実を語ることはできなくなる。

「玉族は歳の数だけ玉飾りを髪につける。これは母の玉飾りの一つを簪にしたものだ。……私は母の遺骨を故郷へ届けた際、一度だけ南玉を訪れた。
 良き場所だったよ。小さくとも、豊かな国だ。ただ、その豊かさは小ささゆえに守られてきたものでもある。鉱山を掘り尽くせば、やがては枯れてしまう」

 簪を見つめていた黄儀は、小さく息を吐くと決心したように霍舟晟にそれを手渡した。霍舟晟は少し戸惑いながらも受け取って、玉の簪の冷たさを手のひらに感じた。

「これからも貴蘭は玉族との争いを続けるだろう。舟晟、お前は選ぶのだ。選べるだけの力を、お前には教えてきた」
「僕には……選べるでしょうか」

 黄儀は柔らかく微笑んだ。

「人は、どの道を選んでも後悔するものだ。もう一つの可能性を想像してしまうからな。だが、選んだ道を進む中で“間違っている”と気づく時がある。そこで引き返す勇気こそ、何より大事なのだ」

 霍舟晟は悟った。この言葉は、黄儀自身が歩めなかった道への悔恨であり、託す願いでもある。玉族の血を引きながら寧国の将として生きることを選んだ男が、もう一つの未来を霍舟晟にゆだねようとしているのだと。

「僕は、もっと知りたいです……彼らのことを。理解したい……いずれ、争いがなくなるように」
「きっと、楽ではない道だ。だがお前なら歩めるだろう」

 黄儀は霍舟晟の眼差しを見て、深く頷いた。

「私は寧国に忠誠を尽くし、最期はこの土地に眠ることを望む。だがもし……南玉との平和が訪れた時にはこの玉飾りを母の墓へと届けてくれるか」
「もちろんです、黄将軍。あなたの教えと恩義に必ず報います」

 霍舟晟は簪を胸に抱き、黄儀に深く頭を下げた。





 天吏の夜玉牙は、幻影の中で霍舟晟が玉族の子ども達に昔話をしている姿を、黙って横で聞いていた。
 そしてもう一度、難民の村をゆっくりと見渡す。この村を庇い続けてきたことも、霍舟晟が選んだ一つの道だったのだ。

 やがて子ども達に別れを告げた霍舟晟は、馬を繋いでいた場所へと戻った。するとその影から、一人の玉族の少年が影のように姿を現した。

「……玉族を城の中に入れて、また奴隷にするつもりかよ。また玉族を騙すつもりだな……!!」
「君は……」

 霍舟晟は眉を寄せた。これまでこの少年を村で見た覚えがない。どこかの記憶に引っかかりながら思い出す前に、少年は霍舟晟めがけて勢いよく駆け込んでいた。

「お前はッ……仏のふりをした悪鬼だッッッ!!!!」

(トゥンカン……!!!!)

 夜玉牙が叫ぶ。だが、記憶の再現である以上、その声は霍舟晟には届かない。

 突如と向かってきた少年の手には鋭く研ぎ澄まされた石が握られていた。霍舟晟は寸前でその事に気がついたが、あえて避ける事はしなかった。突き飛ばされた衝撃とともに、腹へ石が突き立つ。
 霍舟晟は鳩尾の痛みに息を詰め、出血を抑えるように石を掴んだ。トゥンカンは肩で息をしながら憎悪をその目に燃やし、霍舟晟をもう一度突き飛ばす。

 あの戦ののち、下流へ流されたトゥンカンは必死に故郷を目指して山を越えた。途中でこの村を見つけ、傷が癒えるまで身を潜めていた。そして霍舟晟が来ると知った時、復讐を決めたのだ。

 霍舟晟は腹に滲む血を押さえながら、かろうじて声を絞り出した。幸いにも、少年の力では致命傷までは至っていない。すぐに手当をすれば、命に問題はないだろう。

「っ、……これで最後だ。この戦いは私が最後だ。もう終わらせよう……」

 霍舟晟は、穏やかな笑みをトゥンカンへ向けた。その優しさが、少年の恐怖をさらに煽る。トゥンカンは怯えて後ずさった。

「だから、早く逃げるんだ……。見つかる前に行きなさい……!」
「……っ!……っ……」

 かすれた声の強さに押され、トゥンカンは我に返ると踵を返して急いで森へ駆け出した。
 しかし、逃げる少年の体を一本の矢が貫いた。

「霍将軍!!!霍将軍……!!!」
「霍将軍をお救いしろ!!!!」

 異変に気づき、弓を片手に駆け込んでくる部下達の叫び声と共に、トゥンカンは地面に倒れた。
 その光景を目の当たりにした霍舟晟は、目の前が真っ暗になり、耐え切れず膝から崩れ落ちる。部下達を止めようと口を開くが、代わりに溢れたのは血だった。

 ──この少年の命を持って終わるのか?
 ──それとも、この争いは永遠に終われないのか?

「僕は……間違えたまま、戻れなかった……覚悟が、足りなかった……」

 部下達に抱き起こされた霍舟晟は空を仰ぎ、やがて目を閉じた。冷たくなっていくトゥンカンを置き去りにしたまま、霍舟晟は滙川城へと運ばれていく。

 夜玉牙は、ふらふらとトゥンカンの元へ歩み寄り膝をついた。抱き上げようとした腕は、虚しくすり抜けていく。
 その時、トゥンカンの唇がかすかに動いた。

「へへ…仇をとったぞ……、俺は負けてない……。お頭……みんな……俺はみんなの仇をとれたよ……」

 夜玉牙は地面に拳を叩きつけた。
 別れの間際にトゥンカンへ残した言葉が、彼への呪いとなってしまっていた。
 復讐をさせたいわけではなかった。ただ、トゥンカンが、玉族が、これから歩む未来への苦難を思い、どんな時でも誇りを捨てずにいろと、そう伝えたかった。
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