白冥霜花

紫雲丹

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懐誓月

第百二話



 忌狐青の術は、囚われた者それぞれの精神へ個別に干渉する。そのため夜玉牙と霍舟晟が見ている幻影は決して交わらない。互いが何を見ているのか、知る術もない。それでも二人は、同じ過去を見ていた。

 夜玉牙は、霧の中へ溶けるようにトゥンカンの亡骸が消えていったあとも、その場に座り込んでいた。

 天吏となることを選び、長い年月が過ぎ、今の世界を知っている。
 澄国となった貴蘭の街の中には、玉族が多く住む特別区がある。南玉は雲明と名を改められ、寧国の一部として機能している。中原の民と玉族は往来し、混ざり合い、同じ国の民として平穏に暮らしている。
 文化は大きく発展した。消えた伝統もあれば、新しい歴史も刻まれ、血脈は途切れず続いている。
 これが夜玉牙の望んだ形であるかと問われれば、決してそうではない。だがこれは、選択の一つによって生まれた未来であり、変えようのない現実なのだ。
 例え知らなかった過去を知ったとて、もう戻る場所はない。

 ──だがもし。もしあの時……霍舟晟からの手紙を受け取った瞬間に引き返していたのなら。この身を差し出していたのなら、もう一つの可能性があったのか。

 夜玉牙は握った拳を額に押し当て、首を強く振ってその思考を追い払った。

(そもそも、数多の玉族を葬ってきた者の言葉など……信じる価値もない。どんな状況であれ、歩み寄れるはずがなかった。もう一つの可能性など、最初から存在しない)

『天吏様方よ』

 不意に、聞き覚えのない声が霧の中に響いた。夜玉牙は驚愕し、顔を上げる。視界はいつの間にか灰色の靄に包まれていた。

「誰だ?!」

 荒げた声に、淡々とした返答が響く。

『俺は鬼だ』

 その声音は忌狐青のものではない。同じ声が同様に、霍舟晟にも届いていた。

『随分と深い夢を見ているようだ。あんたらを完全に引き上げるにはどうやら力が足りん。霖戒様にも加勢しなきゃならんし……手助けはするが、後は自力で目覚めてくれ』

 どこかぶっきらぼうで、それでいて気安い声音。霍舟晟は、そこでようやく事態を理解した。

「まさか君は……。霖戒の友人の深鬼かな?」
『……ああ、いかにも。どうやら"繋がった"らしいな』

 虓屠と霍舟晟の会話が夜玉牙にも届いた。姿は互いに見えないが、三人の声だけが通じ合っている。

「何?!霍舟晟……!どこにいる?!」

 夜玉牙は立ち上がり、声の方へ駆け寄ろうとしたが、音は霧の中で反響し、距離感が掴めない。
 霍舟晟は慎重に周囲を見渡しながら、静かに虓屠に問いかけた。

「……深鬼くん、自力で目覚めるにしたってどのようにすればいいのか、具体的に教えてくれないかな?」
「この鬼は一体何だ……!霖戒将軍と知己だとでもいうのか?!」

 夜玉牙が叫ぶと、虓屠は小さく鼻で笑った。

『この幻術は最も辛い過去や、最も望んだ理想を見せる。そうして意識を深く捉えたまま離さない。術を完全に破るためには"現実"を観ることだ』
「現実……」

 霍舟晟が呟くと、虓屠は低く忠告した。

『ああ、そうだ。くれぐれも自分の魂を燃やすなんざ、愚かな真似はしてくれるなよ。忌狐青は天吏を天の道具と呼んだが、それはどういう皮肉かあんた達に分かるか』

 夜玉牙と霍舟晟は口を閉じた。

『誰かのためなら進んで命を捧げる、まるで自己犠牲を厭わない奴のことを言うのさ』

 すると霍舟晟は自嘲気味にふっと息を漏らした。

「では鬼とは、どういう者をいうんだい」
『……鬼というのは、欲望のまま生き、自分の望みのために人を殺した奴をいう』
「そんなふうに言うのなら、僕だって鬼さ」
『あんたは誰かにとって鬼でも、別の誰かにとっては英雄だったって事だ』

 虓屠がそう言うと、声の気配が遠のいていく。

『それじゃあな。俺は霖戒の元へ行くぞ』

 霧の中に再び静寂が戻り、鬼の気配は完全に消えた。残されたのは、霞む灰色の空間に立つ二人の天吏だけだった。



 *



 忌狐青の炎が、氷の繭に閉じ込められたままの霍舟晟と夜玉牙の“体”へと狙い迫る。秋霖は二人の前に身を滑り込ませ、霜曜槍を突き立てて氷の壁を張り続けた。だが同じ位置に留まれば、秋霖自身を捕えようとする術が発動する。
 足を止められず、逃げながら捌き、また守る事を繰り返す限界の綱渡りだ。

「その僅かな魂で、いつまで庇い続けられるか!」

 忌狐青が冷笑を浮かべた瞬間だった。秋霖の背に、そっと温かな掌が触れた。驚きで振り返る。

「虓屠……!?」
「俺がこいつらを見ててやる、だから前へ行け」

 灰色の鬼気が忌狐青の結界を裂くように噴き上がった。今まで沈黙していた虓屠が、霧から溶け出すように姿を現す。忌狐青の眉が、露骨に険しく歪んだ。

 どうしてと、問う必要はない。彼は自分を守るために来たのだ。秋霖は骨面に隠れた虓屠の表情を見ようとした。その姿は結界の霧に溶けかけ、秋霖以上に影が薄い。

「……霖戒、今回は奴の結界の力が強い。結界の中に完全に入り込んで転換をするにはまだ時間がかかる。だから時を稼いでくれ」
「……分かった。虓屠、恩に着る」

 秋霖は二人の天吏を虓屠に託し、前へと飛び出した。

「また貴様か、雑鬼の分際で天吏に加担する愚かな鬼め。……だが。此度の余の結界にまで入り込むとは、ただの鬼ではないようだ」

 忌狐青の目が細く吊り上がる。
 他の鬼の反転結界を上書きし、自らの結界として作り替えることを転換と呼ぶ。それは元の結界を持つ鬼と力が同等かそれ以上ではなければならない。今の忌狐青の分身の力は、並の深鬼以上だ。

「地獄には無名の深鬼が数多といるが、鬼王に届くものはそう多くない……」

 忌狐青の視線が、虓屠の鬼気を探るように向けられる。虓屠は忌狐青の結界の中に身体を割り込ませて鬼気を流し込み、自身の領域へと書き換えようとしている。
 分身の鬼気が本体と同じかどうかは、どのような方法で分身を作り出したかによって変わる。虓屠の鬼気を見ただけではその正体を見抜ける者は少ない。
 だが、忌狐青は一つの答えに辿り着いた。

「忌々しい……西の鬼王は北と同じく人の世に無関心だと聞いたが、こうも目障りだとは思わなんだぞ」

 煩わしそうに言い放たれた言葉を聞き、秋霖の胸が一度凍りついた。反射的に、虓屠の方へ振り返る。その僅かな隙に、忌狐青の炎が秋霖を包むように襲いかかる。

「霖戒!前だ!」

 虓屠が叫んだ。
 秋霖は即座に槍を振りかざし応戦するが、炎は四方から迫り、逃げ場を塗りつぶしていく。青い火柱は絡み合い、やがて檻の形を作りはじめた。蘭一蓮を閉じ込めた結界と同じ、魂を圧する牢獄だ。

「……くッ!!」
「霖戒!!」
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