白冥霜花

紫雲丹

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啓春花

第十一話




第十一話



「天界には暫く戻らない」

 秋霖の魂はまだ完全には補完されていない。今、天帝に謁見すれば周囲に気づかれ、二人の兄に、また止められてしまうだろう。こんな状態では、まともに鬼と戦うことなどできないのだから。

「それはいいが……“体は”もう大丈夫なのか」

 虓屠が秋霖の全身を見やるようにして尋ねた。心配してのことだろうが、力関係で侮られては困る。秋霖は立ち上がると、書物を懐に収めた。

「お前を凍らせるくらいなら、今の私でも充分だ」
「おっと、俺はあんたから“施し”を受けて力が安定してるんだ。前と同じだと思われちゃ困るな」

 飄々とした態度の鬼をじろりと睨みつけ、牽制してから視線をそらす。秋霖の先には滝があった。洛漓に戻り、調べなければならないことがある。

 外ではまだ小雨が降り続いていたが、天吏の術「踏返鏡とうへんきょう」を使えば、天候など関係ない。
 踏返鏡は、一度訪れたことのある場所へ、天界を経由して魂ごと瞬時に転移する術だ。肉体を持たない天吏だからこそ使うことができる。

「お前は一体、どこまで私についてくる気なのだ」

 名を与えて契約は交わしたが、行動を制限できるわけではない。褒美も与えていない以上、それはあくまで鬼の自由意志によるものだ。
 必要とあらば呼ぶつもりではいるが、律儀に常に傍にいる必要はないはずだった。

「……どこまでならいい?」

 先ほどとは違う、静かな声色だった。思いもよらない言葉に、秋霖は虓屠を振り返る。

「どこまでなら、ついていっていいんだ」

 肌寒い風が、洞窟に吹き込み秋霖の衣を揺らす。滝と雨の音が反響する中、彼はしばし言葉を探す。
“どこまで”など、初めから決めるつもりなどなかった。

「……勝手にしろ」


 *


『お前はここまでだ…。これ以上はついてくるな』
『なん…だと…』

 洛漓の都に着いた二人は、紫鳳閣の楼閣近くまで来ていた。秋霖は姿を隠している虓屠に、思念術でそっと語りかける。

 都の花街に立つ建物の中でも、ひときわ目を引く美しい紫鳳閣。そこは、宴を供する酒楼、鬼や魔、医術、芸術など様々な分野の資料を集めた書楼、そして閣主たちが住まう男子禁制の香楼──三つの楼閣から成る複合施設だ。

『ここには鬼を感知する陣が張られている。流石のお前でも、これを通り抜けるのは不可能だろう』
『……やってみなきゃ分からんだろう』
『試すな。…大人しく待っていろ』

 虓屠を遠ざけ、秋霖は紫鳳閣の入口を見上げて、小さくため息をついた。できれば関わりたくない場所だったが、手に入れた書物だけでは大した手がかりを得られなかった。
 祓魔剣の行方を追う以上、薬幽堂の情報を得るためには足を運ばざるを得なかった。

 紫鳳閣の最前に構える酒楼にて、秋霖は楼主に声をかける。

「薬幽堂の件で瑭心タンシン殿にお会いしたいのですが…」
「失礼ですが、お名前は?」
「……蒼洵ツァン・シュンと申します」
「お待ちくださいませ」

 咄嗟に口にした偽名を伝えると、楼主は静かに衣を翻し、奥へと下がっていった。
 顧秋霖の名は今や知らぬ者も多く、人界では生前の名を名乗っても支障はない。しかし、ここではあえて名を伏せる必要があった。

 しばらくして、奥から瑭心が姿を現した。

「あなた様でしたか…」

 秋霖の姿を見つけた瑭心は一瞬、訝しげな目を向けたが、すぐに美しい所作で礼を取る。

「先日はありがとうございました。霄嶺劍派の方から伺っていたお名前と違っていたので、恩人様とは気づかず、お待たせしてしまい申し訳ありません」
「…いえ、こちらこそ。少々事情がありまして…」
「詮索はいたしません。それでは、書楼へご案内します」

 瑭心に伴われて書楼の前へと向かうと、入り口には二人の女性が静かに佇んでいた。ひときわ目を引く一人は、幾重にも重ねた薄紫の衣をまとい、優雅に頭を下げるたび、きらびやかな簪が揺れ、芳しい香りがふわりと漂う。
手にはさしばを携え、その美貌と気品は、まさに「紫葳仙姫ズーウェイシエンジー」と呼ばれるに相応しい。
彼女の背後には、面紗をかけた二番弟子・瑭華タンファが控えており、その佇まいからも非凡な気配が感じられた。

「師匠」

 瑭心が恭しく頭を下げる。紫葳仙姫は軽く片手を掲げると、秋霖に微笑みかけた。

「顧秋霖様。そろそろお越しになる頃かと思っておりました」
「…紫葳仙姫、お久しぶりです」

 秋霖が偽名を使って避けようとした理由は、彼女に会いたくなかったからに他ならない。しかし、紫鳳閣の主にはその程度の策は通じなかった。

「師匠、お知り合いなのですか?」

 瑭心が控えめに問うと、紫葳仙姫は扇を軽くあおぎながら目を細め、秋霖に視線を送る。秋霖は観念したように眉を僅かに下げた。

「ええ…。もう何年ぶりかしら。以前、あなたたちにも話したことがあるでしょう。紫鳳閣を立ち上げる前の、わたくしの恩人です」

 瑭心と瑭華は驚いたように目を見合わせた。

「師匠、私たちはお茶の用意をしてまいります」

 弟子たちは空気を読んでその場を下がり、紫葳仙姫は秋霖に手を差し向ける。

「どうぞ、お入りくださいませ」

 書楼の内部は、名の通り壁一面に書棚が並び、数人の紫鳳閣の修行者が書物の整理や研究にあたっていた。
 この場所の書物は、閣主の許可さえあれば外部の者にも閲覧が認められる。

 秋霖と紫葳仙姫は並んで階段を上がり、二階の奥まった一室へと入っていった。

「薬幽堂では瑭心たちを救っていただいたとか。感謝の念に堪えません」
「……いえ、当然のことをしたまでです」
「……ふふふ」

 紫葳仙姫は小さく笑い声を漏らし、扇で口元をふわりと隠した。

「どうしてそんなに畏まっていらっしゃるの? わたくしたちの間柄でしょう。かつてのあなたは、そんなに気取った方ではなかったはずだけれど」
「昔……あなたを助けたあと、身に覚えのない噂を立てられたものでして」
「……あら、天におわす“神々”も、噂話に興じるほどにはご退屈のようね」

 秋霖はわずかに咳払いをした。
 紫葳仙姫は、秋霖が天吏であることを知っている。彼女は人と鬼の間に生まれた半鬼であり、その昔――利国の時代、人間に追われていた彼女は、都に巣食う悪鬼の庇護を求めた。
 
 天命によってその悪鬼を裁きに来た秋霖は、ただ一人彼女の命だけを見逃したのである。
 その一件は天吏たちの間で話題となり、生真面目な霖戒将軍が美女に誑かされたのだとか、惚れ込んだのだとか噂が立った。
 碧琅君には叱責され、霍舟晟にはからかわれ、散々な目にあったのだ。

 だからこそ秋霖は、紫葳仙姫にむやみに近づけば、またしても噂の種となり、天帝の耳に入れば天吏としての務めに支障が出るのではないかと、密かに危惧していた。

 しかし紫葳仙姫の方は、秋霖に命を救われてから改心し、今では困難な状況にある女性たちの庇護に尽力している。働き口を提供するなど、多くの者にとっての拠り所となっていた。

「こうして間近で紫鳳閣を見て、よく分かりました……今の貴女は、素晴らしいことをなさっている」
「挽回の機会を与えてくださったおかげね」

 そのとき、部屋の扉の外から声がかかった。

「師匠、お茶をお持ちしました」
「入りなさい」

 二人分のお茶を運んできた瑭華のあとに続き、瑭心が数冊の書物を抱えて部屋へと入ってきた。

「さて――秋霖様。あなたがここへ来た理由は、おおかた察しがついておりますのよ」
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