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幻燼夢
第三十話
第三十話
秋霖はそっと手を伸ばし、顔にかかっていた白布を取り払った。徐々に焦点が合っていく視界の先、虓屠が屈んでこちらを見下ろしていた。
「どうだ、感覚はあるか」
低くも軽快な声が、秋霖の耳に届く。緩やかに身体を起こし、自らの掌を見つめた。
「あ……、……」
手も、足も、思い通りに動く。だが、魂だけの霊体であった頃とは異なる肉体の重さが、全身にのしかかるような倦怠感として感じられた。
「……重い」
思わず漏らした呟きに、虓屠が眉をひそめる。
「重い? どこか変か、材料が合わなかったか……」
心配そうに言いながら、虓屠は秋霖の顎を取って顔を覗き込む。その手をそっと外しながら、秋霖は微かに口元を綻ばせた。
「問題ない。お前は、よくやってくれた」
そう言ってゆっくりと立ち上がる。
肉体にはすでに衣が着せられていた。紅葉色の中衣に、金糸の刺繍が施された黒檀の長袍を纏っている。かつての霜白色の天吏装束とは異なり、どこか俗世的で華美な印象があった。秋霖は改めて自身の姿を見下ろす。
「……この衣は、派手だな。一体どこから」
「綺麗だ」
虓屠がぽつりと呟き、まじまじと見惚れていた。天吏の姿は高潔で近寄りがたいが、今の秋霖には、どこか温かさと人間味がある。
鋭い視線に気づき、虓屠ははっとして取り繕うように言った。
「え、ああ……もちろん、天吏様からもらった小遣いで買った。あの白い衣は地獄じゃ浮くから、これくらいがちょうどいいと思ってな」
虓屠の趣味で着せられたと悟り、秋霖はやや不服そうに眉をひそめる。だが他に着るものもないため、黙って受け入れた。
虓屠に導かれ、二人で結界の外へ出る。雨はちょうど止んでおり、空はまだ雲がかかっていたが、湖面には穏やかに陽が差していた。
水面を覗き込むと、そこには生前と変わらぬ顔立ちの自分が映っている。ただ一つ異なるのは、秋霖の頭に、二本の角が生えていた。
驚いて指先で触れると、しっかりと感覚がある。
「……頭に何か……これは、牛の角か?」
「牛鬼らしくていいだろう。牛の肉を使ったからそうなった。人肉なら、そうはならなかったぞ」
「分かったから、もう言うな」
人肉という言葉は二度と聞きたくなかった。
秋霖は掌に霊力を込めようと試みる。しかし――。
「……霊気が、うまく取り込めない」
「そりゃあ肉体があるからな。魂は天吏のままだから、鬼気も使えんだろう」
にやにやと笑いながら秋霖の顔を覗き込む虓屠に、秋霖は無言で右拳を突き出した。
反応した虓屠はそれを片手で受け流す。だが、秋霖は立て続けに攻撃を仕掛ける。虓屠は片腕のみでそれをさばきながら、楽しげに牙を覗かせて笑った。
「なんだ、手合わせか?」
「どのくらい動けるか、確かめておかねばな」
「今の天吏様相手なら、片手で十分だぞ。いや、牛鬼様か?」
「大口を叩くな」
二人の衣が風に舞い、拳と蹴りが交錯する。
秋霖の霊力を込めた攻撃は、かつてよりもわずかに鈍い。霊体時の六~七割といったところだが、それでも鬼からすれば脅威には違いない。
秋霖の気迫に押されて、ついに虓屠は両手を使いはじめた。
「なあ、鬼界なんて行かずに、このまま二人で悠々自適に過ごさないか?」
「……馬鹿を言うな。そんなこと、できるわけがないだろう」
秋霖は軽く笑い、言葉を一蹴した。
天吏とは、天命の為に人界へ遣わされる存在だ。自由気ままな日々など、許されているはずがない。それでも――他に誰もいない湖畔で、こうしてふざけ合うひとときは、悪くないと思えた。
だがその直後、秋霖の身体がふらりと傾ぐ。
「……っ」
組み手を止め、立ち止まった秋霖の様子に、虓屠が慌てて駆け寄る。
「おい! どうした?!」
「……眩暈が……」
秋霖の体を抱きとめると、ずっしりとした重みが虓屠の腕にのしかかった。実体がある、という実感は虓屠の心を密かに喜びで震わせた。
「やっぱり、身体が合ってないか? ……俺も初めて作ったからな……ちょっと見せてみろ」
虓屠は秋霖の腕を取って脈を測り、しばし黙考したのち、呆れたように言った。
「……なあ、あんた。もしかして……腹が減ってるんじゃないか?」
「……私は……空腹なのか」
なんのことはない。作られたばかりの肉体で激しい手合わせをしたせいで、単に体力を消耗しただけだ。
秋霖は自身の腹に手を当てた。言われてみれば、この感覚は、かつて生きていた頃に覚えがある。
「久しぶりすぎて……どんな感覚だったか、わからなかった」
「……天吏様、あんたってやつは……」
呆れたように言いながらも、虓屠の声にはどこか優しさが滲んでいた。
再び手を貸すように、そっと秋霖の腕を支える。そのまま結界の中へと戻った。
持参した差し入れを二人で分け合いながら、秋霖は虓屠に尋ねた。肉体を得られた以上は、天命を果たすために、前へと進む覚悟を固めなければならない。
「鬼界には、鬼王が四人いるそうだな」
「……ああ。鬼界の東南西北、それぞれに鬼王の領がある。東は青鬼王・忌狐青、南は赤鬼王・赤熹耀、西が白鬼王・白冥、北が黒鬼王・黒琰だ」
虓屠は頷きながら、指を折って見せた。地獄に生きる鬼たちは、生前の因縁や居心地で四つの領土のどこかへ自然と流れ着くという。
「虓屠、お前は鬼王に会ったことがあるのか?」
それは、秋霖がかつて尋ねそびれていた問いだった。虓屠は小さく息を吐いてから、頷いた。
「忌狐青以外って意味だな。まあ、一応……あるぞ。何が知りたい?」
「天吏宮の噂では、鬼王たちは互いに干渉せず、それぞれ独立して領を治めていると聞く。実際、仲はどうなのだ? 忌狐青と最も折り合いの悪い鬼王は誰だ?」
虓屠は記憶を掘り起こすように、少し考えてから語り始めた。
「鬼王の中で最古なのが、赤熹耀だ。鬼王の座は力で奪うものだが、赤鬼王だけは一度も代替わりしていない。それで他の鬼王が新しく立つたびに、赤熹耀は宴と称して自分の城に鬼王達を招くわけだが……忌狐青だけは一度も顔を出したことがないそうだ。お互い毛嫌いしてるってことで有名だな」
「それでは現状、忌狐青に味方する鬼王はいないと見ていいのか」
「まあ、そう思って構わんだろうな。とくに白冥と黒琰は、領土を治めているというより放置してるに近い。祓魔剣に関心を持ちそうな鬼王じゃない」
白鬼王と黒鬼王の領には、他の地からあぶれた雑鬼たちが勝手に住みついているだけだという。その荒れ果てた領地は、主の無関心さを象徴している。
「俗世に興味があるとすれば、赤熹耀だろうな。あの領土は地獄で一番栄えてる。あいつは最も“王らしい”鬼王だ」
そう言って、虓屠はふと隣に座る秋霖に視線を向けた。
「で、鬼界に着いたらどうするつもりだ? まさか、いきなり忌狐青の領土へ突っ込むなんて言わないだろうな」
「……そうしたい気持ちは山々だが、まずは敵の情報を集めねば策を練りようがない。それに、お前だって忌狐青のことはほとんど知らないのだろう?」
そう返すと、虓屠はわずかに目を伏せた。
「ああ……役に立てなくて悪い。地獄にいた頃は、鬼王の動向なんて気にしてられなかった。……自分が喰われないように、目の前の奴らを倒すのに必死だったんだ」
「虓屠……」
何か言いかけて、秋霖は口を閉じた。そういえば、自分も彼の過去について何も知らない。互いのことを深く語る機会など、これまでなかったのだ。
気持ちを切り替えるように、秋霖は静かに前を向く。
「まずは赤鬼王の領で情報を集める。栄えているというのなら、鬼界の変化にもいち早く気づけるはずだ。忌狐青が祓魔剣を領土に持ち込んでいる事が確実なら……その時は、乗り込むまでだ」
「……」
黙ったままの虓屠に、秋霖は訝しんで問いかけた。
「何か言いたいことがあるのか?」
「いや……俺は、あんたについていくさ」
虓屠は首を振り、いつものように穏やかな笑みを浮かべた。仮面に覆われたその目は、秋霖だけを見ていた。
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