白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第三十一話




第三十一話



 食事を終えた秋霖は、結界の中に置いてあった銀章を手に取った。しかし霊体だった頃とは違い、その重みは桁違いだった。持ち運ぶことはできても、今の肉体では到底振り回せるものではない。

「天吏以外が扱えないとは、こういうことか……」
「……そいつをどうするんだ? そのままだと、地獄には持って行けないぞ」

 虓屠の問いに、秋霖は銀章の表面を何度か撫でた後、両手でそれを持ち上げ、結界の外へと出た。

「暫くの間、銀章を湖の中に隠させてもらう」

 霊力をめぐらせて、銀章を守る結界を張る。結界に包まれた銀章はふわりと宙に浮かび、そのまま湖面を渡っていくと、静かに水底へと沈んでいった。

「私の霊魂の力を少しだけ加えておいた。肉体がある間は帰天も踏返鏡の術も使えない。鬼界では、銀章が人界へ戻るための目印になるはずだ」

 たとえ鬼門が使えずとも、魂の力があれば、互いに引き合ってここへ戻る術となるだろう。

「そりゃいい。良い考えだ」

 虓屠は大きく頷いた。

「この湖には何度も世話になってる。名前がないなら、そろそろ名前をつけたらどうだ」
「名前か……。何か思いつくか?」

 秋霖が問いかけると、虓屠は少し考えたあと、人差し指を立てて言った。

宝湖潭ほうこたん
「ふ、……そのままだな」

 湖底に宝を沈めたという、そのままの命名に、秋霖は思わず笑った。虓屠もその笑みに釣られるように、楽しげに笑う。

「天吏様よ、最近よく笑ってくれるようになったな」

 その言葉に、秋霖ははっとし、自分でも気づかぬうちに、虓屠という鬼に心を許し始めていたことを自覚する。
 虓屠は満足そうに微笑んだあと、話題を切り替えた。

「それはそうと、鬼界へ行くなら黒武の鬼門を再び開ける必要があるぞ」
「……確か、お前が閉じてくれたと言っていたな」
「ああ。塞ぐ時に目印をつけておいたから、開けようと思えば俺でも開けられる。
でも……」

 虓屠は少し不安げに声をひそめた。

「天吏様の目の前で開けて、俺たち、天に怒られたりしないよな……?」

 秋霖は唇を引き結んだ。その可能性は、否定できない。思案するように、ゆっくりと湖畔を歩く。

「賀海之殿は、薬幽堂の他の拠点でも鬼門が開きかけていると言っていたが……すでに他の天吏たちが封じているだろう」

 自分が掟を破ってなお罰を受けていないのは、鬼門の問題を天界側が未だに処理中だからなのかもしれない。虓屠は秋霖の歩みに目を向け、問いかける。

「忌狐青が開けた鬼門をどう見る?」
「天吏を誘い込むための罠だ。鎧崇侯が私を待っていたことを考えれば、一蓮君の代わりとなる天吏を探している」

 清明節以降、秋霖は天界へ戻っていない。今の天吏宮がどうなっているかは分からないが、同じような犠牲者をこれ以上出すわけにはいかない。

「虓屠、中元節に、あの鬼門が勝手に開く可能性はあると思うか?」

 中元節は一年のうち、最も三界の境が曖昧になる日だ。そのときには、また多くの天吏が地上へ遣わされることになる。

「あるだろうな。忌狐青は、元々鬼門が開きやすい場所を狙って開けてるんだろう」
「……なら、自然に開くのを待つしかない。私たちは、そこから鬼界に“迷い込んだ”ことにしよう」

 そう言った秋霖の横顔に、虓屠は呆れたように目を細めた。そして、指先で秋霖の頭に生えた角をちょんと差した。

「あんた、鬼の肉体に入ったからか、心まで鬼みたいになってるぞ」

 秋霖は、わずかに笑ってその手を払いのけた。


 *


 宝湖潭の湖面には、朝から薄く靄がかかっていた。
夏の湿気は夜のうちに冷えきれず、地表にとどまり、夜が明けてもなお空気の中に重たく滞っている。
 水面は静かだが、どこか濁っているような気配があった。遠くの山々は霞んで輪郭がぼやけ、空は晴れているようで晴れていない。まるでこの湖ごと、大きな蒸籠の中でじわじわと蒸し上げられているかのようだった。
 秋霖は額の汗を袖で拭いながら、濡れた襟元に不快感を覚える。北部で生まれ育った彼はこの南部特有の湿気に慣れる事ができず、肉体を取り戻した今、この容赦ない湿度に一層の苦しみを感じていた。
 湖畔の木々からは、濃く、湿った緑の香りが立ち上り、それがさらに湿気を帯びて鼻腔にまとわりついてくる。

「風が……ないな」

 秋霖がつぶやくと、隣で虓屠が笑いながら応じる。

「汗がすごいな、天吏様。溶けてしまわないか心配だぞ」

 秋霖は軽く眉を寄せて、濡れた襟元を指で少し引き、皮膚から離すように動かした。

「……北では、こんな湿気はなかった。聞き及んでいた暑さとは違うようだ。……お前は平気なのか」

 一方の虓屠は、さほど汗もかかず、この暑さの中でもどこか涼しい顔をしている。

「俺はあまり気にならないぞ。地獄も似たようなものだ」
「ここと地獄は、どちらが暑いのだ……」

 そう言って、秋霖は手をひと振りし、背後の木陰へと移動する。虓屠はその背中を見て笑いを噛み殺し、軽やかに後を追った。

「天吏様は南の気候はお嫌いか?」
「……いや。私には暑すぎただけで、南は良いところだ」

 秋霖は苦笑すると、木陰で胡座をかき、目を閉じて体内に意識を集中させる。霊力を巡らせると、霜曜槍の冷気がじわりと皮膚の内側から滲み出し、周囲に纏われていった。
 魂と共に肉体に収められた霜曜槍の力を、秋霖は短期間の修練で直接引き出せるようになっていた。

 汗は徐々に引き、涼やかな冷風が彼の周囲に生まれる。湿気に含まれていた水分が凍り、小さな霜の粒となってぱらぱらと地面に落ちていく。

「おい、ずるいぞ天吏様。俺にもその冷気を分けてくれ」

 虓屠がにじり寄るが、秋霖は目を細めながら突き放す。

「お前は平気なのだろう。近寄るな。暑い」

 まとわりつこうとする虓屠の肩を押し返し、あしらったその時だった。
 秋霖の眉がぴくりと動いた。ふと感じた微かな気配に、彼は宝湖潭の湖面へ視線を向ける。
 風もないのに、湖がわずかに波を立てていた。

「銀章が……」

 水面を揺らしているのは、湖底に沈められた銀章が、外界の微かな瘴気に反応しているからだ。秋霖はじっと湖を見つめ、虓屠の肩から手を下ろす。

「……感じるか?」

 傍らの虓屠が身を起こし、表情を引き締めて言った。

「……霊気の流れが変わったか。地獄の瘴気が混じり始めてるな」
「そろそろ中元節が近い」

 三界の境が徐々に乱れ始めているのだと、空気の変化が、それを示していた。

「黒武へ向かおう」

 秋霖は立ち上がり、北東の方角を見据える。虓屠も無言で頷き、二人は御風術を用いて、武陽のある黒武の地へと飛び立った。
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