白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第三十二話




第三十二話



 中元節は「鬼節」とも呼ばれ、亡者が現世を訪れる日とされている。
 人界ではこの日に供物を捧げ、彷徨う亡者たちの腹を満たし、安らかに送るための供養を行う。
 鬼界では、力ある鬼たちがこの瘴気の満ちた時を狙い、蠢き出す。天界では、天吏たちが地上に派遣され、亡者や鬼たちが人々を襲わないように見守っている。

 武陽の採掘場跡に到着した秋霖と虓屠は、かつて鬼門が開いた場所へと向かった。
 真夜中の採掘場には既に瘴気が流れ込み、所々に亡鬼の姿がぼんやりと浮かんでいる。

 通りすがりに鬼を一体ずつ祓いながら、虓屠に導かれて採掘場の奥へと足を進める。鬼門のあった場所に立ち止まると、虓屠が指差して言った。

「ここだ」

 秋霖はあたりに視線を巡らせ、霊力を研ぎ澄ます。

「鬼門は……開いていないのか?」
「いや、もう開いてる。……というより“重なってる”」

 以前見たような、明確な裂け目や歪みはどこにもない。しかし確かにその空間は、現実の景色と微妙に重なりながら存在していた。
 虓屠が手を差し伸べると、空気が水面のようにゆらぎ、彼の手がその先に吸い込まれていく。

「この先が鬼界のどこに繋がっているかは分からない。天吏様、俺から離れるなよ」

 秋霖は一度頷き、気を引き締めて前を見据える。二人は同時にその境を越えた。瘴気が肌を撫でるように身体を包み込み、意識が次第に沈み込んでいく。

 そして秋霖の目に、鬼界の光景が広がった。

 空は茜から漆黒に至るまで、まるで油を垂らしたような混沌とした彩色に染まっていた。美しさなどどこにもなく、終末の空のようなその色彩は不気味で、不安を掻き立てた。
 空気は宝湖潭にいた時と同じか、それ以上に暑く、じっとりと肌にまとわりついてくる。一歩踏み出すたび、焼け焦げた鉄と硫黄が混じったような、鼻を刺すような匂いが肺を灼いた。

 秋霖は生前、死体が山と積まれた戦場を「地獄のようだ」と何度も思っていた。しかし、本物の地獄とは似て非なるものだ。

 足元に違和感を覚えて、秋霖は下を見た。そこにあったのは砂ではなかった。人の顔をした“何か”が重なり合い、凝固して地面のように見せかけている。呻きのような、叫びのようなものが、形を保ったまま凍りついている。

「……亡鬼だ。魂だけの身体で歩いてたら、すぐに足を取られて喰われてたぞ」

 隣で虓屠が低く告げた。地獄へ落ちたばかりの魂は亡鬼となり、この地に堆積していく。それがやがて地面となり、鬼たちはその上を歩くのだ。

 秋霖は辺りを見渡しながら歩みを進める。凝固した亡鬼の上に"残霞"がちらほらと咲いていた。その花は古谷村で咲いていたような黄色ではなく、血を吸ったような赤に染まっていた。
 虓屠は何度も、彼に言い聞かせるように繰り返す。

「危険を冒してまで地獄に来てるんだ、俺から離れるなよ」
「ここは……どのあたりだ?」
「おそらく、青鬼王の領土だ。あそこを見ろ、あれが赤鬼王の領だ。ちょうど境目の近くらしい」

 遠くに、聳え立つ城壁のような建物と、その周囲に広がる街並みの灯りが見える。赤鬼王の領地は、遠くからでも分かるほどに整い、明確に都として機能していることがわかる。

 二人がその方向へ向かって歩くと、足元から時折、呻きや嘆きが響いた。亡鬼や怨鬼が二人を取り囲むように、恨めしげな目で浮遊している。
 虓屠は慣れた様子で、片手でそれらをあしらいながら進んでいく。

「……鬼ってのは、欲の塊だ。生前の行いで天に見放された者がここに堕ち、それでもなお最も強い“欲”を持つ者だけが、ここで強くなる」

 亡鬼の地を踏みしめながら、虓屠がぽつぽつと語る。

「どんな鬼も最初は亡鬼としてここに落ちる。強い欲を持った者同士が喰らい合い、肉体を得て、やがて“鬼”になる。そうして多くの魂や怨念が混ざり合えば、元の記憶や人格は失われていく。猛鬼以上になれば、新しい人格が生まれることもあるが……まれに、執念の強い者だけが、自我を保ち続ける」

 秋霖は、隣で歩く虓屠の横顔を見た。骨面の奥に隠された表情は読み取れない。けれど彼もまた、同じ過程を経てここに立っているのだ。

「……想像を絶する」

 どれほどの痛みと渇きと絶望の果てに、この男が“鬼”として形を保っているのか。秋霖は唇を噛みしめ、黙ってその歩みに並んだ。
 地獄――どんな言葉をもってしても言い表すことができないだろう。それは哀れみを拒み、同情すら届かない場所だった。


 赤鬼王の領土へ近づくにつれ、視界は次第に明るくなり、やがてその都が姿を現した瞬間、秋霖は目を見開いた。
 間近で見るそこは、現世の都とほとんど変わらぬ姿をしていた。ただ一つ違うのは、すべての建物が赤く塗られており、まさに紅の都とでも呼ぶべき景観を形作っていた。
 鬼界の陰鬱を押し返すように、灯籠が橙の光を鮮やかに灯し、まるで炎の中に町が浮かんでいるかのようにすら見える。
 まさに、南を司る炎の都と呼ぶべき光景だった。

 そこを行き交う鬼たちは、現世の人間と同じように日々を営んでいるようだった。酒を飲み、物を売り買いし、喧嘩を始め、時に笑い声を上げる。
 その雑然とした喧騒の中、街は確かに生きている。

 この都を統べるという鬼王――赤熹耀とは、一体どのような存在なのか。秋霖は、胸の奥に不思議な興味を抱いていた。

「……地獄に、こんな都があるのか」

 驚きを隠さず呟く秋霖に、虓屠が肩をすくめて応える。

「唯一ここだけだぞ。鬼界に秩序なんてないが、鬼も元を辿れば人間だからな。絶対的な統治者がいれば、街として機能するらしい」

 二人は赤く塗られた巨大な門をくぐり、赤鬼王の都へと足を踏み入れた。
通りの鬼たちは彼らに目もくれず、二人は違和感なく街に溶け込んでいった。虓屠の言う通り、この紅一色の街中で、秋霖が白衣を着ていたならば目立っていただろう。
 街の様子を観察しながら、秋霖は声を落として虓屠に尋ねる。

「……人界にあるものも売っているようだが」
「そりゃあ人界からくすねてきたんだろ。天吏の目を逃れて、人に化けて生活してる奴なんか山ほどいる。そういう連中が鬼界に物資を流して儲けてる」

 思いもよらぬ世界の広がりに、秋霖は無言で息を呑む。天吏として過ごしてきた自分ですら知らなかった、人と鬼の間の繋がりがここには確かに存在していた。
 虓屠は声を潜めて続ける。

「人界と違うって点では……ここじゃ弱い奴は救われない。弱肉強食が当たり前だ。赤鬼王の領土から弾かれた奴らは、他の領地で情けなく身を潜めるしかない。……鬼達の中でもここは憧れの都なのさ」

 秋霖は軽く頷いた。目の前に広がる都には確かに鬼たちの生と欲が詰まっている。その活気は、地獄であることを忘れさせるほどだった。
 虓屠は街の奥に聳え立つ一際高い宮殿を一瞥した。

「中元節だからか、いつもより賑わってる気もするな」
 
 しばらく街を歩き、目についた酒楼に二人は入った。外装も内装も赤に染められた建物の中は賑やかで、香辛料と酒の香りが混じり合って地獄特有の臭いを和らげている。
 一階の隅に、独りで酒を煽っている鬼の姿を見つけた秋霖は、迷わず歩み寄った。

「少し尋ねたいのだが。青鬼王のことで何か知っているか」
「ああ?なんだ、お前らはどこの鬼だ」

 酒で赤らんだ顔をしかめながら、鬼はむき出しの牙で不機嫌そうに応えた。
 すると後ろから虓屠が軽く肩をすくめつつ、助け舟を出す。

「いやはや、ここにおられる牛鬼様は青鬼王の座を狙っておられるのだ。何か奴に関する情報があれば、礼は弾むぞ」
「フン、命知らずの恥知らずめ。青鬼王のことなんざ知るかよ。そこにいる連中に聞きな。あいつら、青鬼王の領から流れてきた連中だ」

 鬼は目配せしながら、店の奥の席にいる二人組の鬼を顎で示した。
 秋霖が彼らに近づこうとした瞬間、二人は秋霖たちの姿を見るやいなや、そそくさと席を立ち、酒楼を出ていった。

「……逃げたな」

 直後、慌ただしげに酒を運んできた店主の鬼に、虓屠が手を挙げて声をかける。

「おい店主、酒をくれ」
「あいよ!」

 虓屠が手頃な席を探していると、上の階から複数の鬼たちが降りてきた。会話の内容が耳に入り、秋霖はそっと視線を向ける。

「青鬼王は祓魔剣のことにかかりきりで、今は領地の統治なんてする気がないらしいぞ」
「おこぼれが貰えないってんで、領から出てくる鬼が増えてるんだとさ」
「やれやれ、また住む場所の取り合いになるぞ。赤鬼王様がもっと領土を広げてくださればいいのになあ」
「白鬼王の土地が空いてるだろうに」
「だがあの王、境界にうるさいって話だ。だだっ広いだけで何もありゃしねえってのに……」

 鬼たちはそんなことを言い合いながら、笑い合って酒楼を出ていった。
 秋霖はすぐに立ち上がり、虓屠の袖を引いた。

「虓屠、あの鬼たちを追うぞ」
「あっ、おい……!」

 虓屠が驚きつつも慌てて後を追う。
 
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