白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第三十五話




第三十五話



 秋霖は、雪の上に立っていた。
 よく見ればそれは雪ではなく、降り積もっていたのは、細かな灰だった。
 空からはしんしんと、まるで雪のように灰が降っている。空は漆黒で、ひとつの星もない。墨で塗りつぶされたかのような闇が広がっていた。地平線は果てしなく白く、まるで故郷、燕雲城の冬景色を見ているようだ。
 けれど、寒くはなかった。それどころか、不思議なほど心地よいあたたかさがあった。

 秋霖はゆっくりとしゃがみ込み、足元に積もった灰をそっと手のひらですくい上げる。灰は指の隙間からさらさらとこぼれ落ち、手のひらに何も残らない。その感触がどこか虚しくて、秋霖は小さくため息をついた。

 白くなった手を軽く払うと、秋霖はあてもなく歩き出した。周囲の景色はまったく変わらず、どこまでも同じ灰の大地が続いている。夢とも現実ともつかない、まるで誰かが作った幻のような空間。すべてがあまりに静かで、言葉さえも必要ないような場所だった。

 その時、背後から小さな足音が聞こえた。秋霖ははっとして振り返る。
 そこにいたのは、一頭の大きな白い虎だった。

 虎は無言で、まっすぐ秋霖を見上げている。その黄金の瞳はどこか懐かしげで、何も語らず、敵意はまったく感じない。不思議と恐れもなかった。秋霖の中に湧き上がったのは、ただひとつ――懐かしさだった。

 秋霖は、そっと手を伸ばした。虎は動かない。ただじっと、彼の手を受け入れるように見つめている。秋霖はゆっくりと膝をついた。

「虎渓」

 名を呼んでみる。すると、白虎の尾が一度だけ、ふわりと揺れた。
 その瞬間、ああ──と、胸の中にあたたかな感情が込み上げる。秋霖は白く柔らかな毛に指を沈ませるように撫で、顔をそっと近づけた。
 とうとう、彼は本当に虎になってしまったのかもしれない。そんな考えが一瞬、脳裏をよぎったが、それはどうでもよかった。
 その姿がどのようなものであれ、秋霖の心は再会の喜びで満ちていた。

 白虎はゆっくりと体を横たえ、秋霖を守るようにその身を寄せてくる。秋霖もまた、虎に寄りかかるように身をあずけた。二人の体には静かに灰が降り積もっていく。

「虎渓、私はお前がどんな形で生まれ変わっていても構わないのだ」

 秋霖は白虎の横顔に語りかけるように囁き、そっと瞼を閉じた。

「ただ、お前に会いたい」




 目が覚めると、秋霖は銀章を握ったまま、宝湖潭の湖底に沈んでいた。静かな水の中、霊気に満ちた湖底が彼の魂を包み込み、失われた手はゆっくりと再生していた。けれど、それでも損失は大きい。

 鬼界からの脱出の代償として、しばらく意識が混濁していたのだろう。秋霖は銀章を胸に抱き、手足を動かして水面へと向かう。息を切らして岸へたどり着き、湖畔にずるりと体を引き上げた。

「かは、けほ、ッ……」

 濡れた衣のまま仰向けに倒れ込む。両手を広げ、静かに息を整えようと目を閉じた。

 その時、急ぎ駆けつけようとしていた虓屠の気配が、湖畔の霊気の中に混ざる。しかし、それよりも早く、空から一陣の風が吹いた。
 天から舞い降りたのは、碧琅君だった。いつになく切迫した表情で、その柔らかな青緑の衣をなびかせながら、秋霖のもとへ歩み寄る。

「あなた……!! 今すぐ天に帰りますよ!!」

 その叫びが届いた瞬間、秋霖は重い体を起こし、かすかに首を振った。

「帰れないのです、天に……。帰天術が、つかえない」

 その言葉に、碧琅君は目を見開き、唇をかすかに震わせた。天吏が帰天できないという事実は、想像以上に深刻だった。

「なんということです……」

 碧琅君は秋霖の体を抱き起こす。秋霖は苦笑して彼の手に手を添え、優しく押し返した。

「天帝は、私に処罰を……?」
「……いいえ、それはまだ……。帰天術が使えないのは、おそらく、あなたが霊魂を失いすぎたからです。もう半分も残っていないのでしょう」

 魂の喪失は、存在の半減を意味する。碧琅君は動揺を抑えきれず、秋霖の腕に触れ脈をとろうとするが、秋霖は再びその手を制した。

「碧琅君……また癖が……」
「……そうでした。つい、生前の職業病で……」

 気まずそうに咳払いし、呼吸を整える碧琅君は、手にしていた扇を霊気で変化させると、それは優美な古琴へと姿を変えた。

「私の蘊護琴うんごきんで、少しは癒す手伝いができるでしょう」

 碧琅君の宝仗・蘊護琴は天吏達を癒し霊気を調える支援の力を持つ。医者であった彼の生前の精神が宿っており、攻撃よりも回復と調律に特化している。
 碧琅君は秋霖の向かいに座り、琴を膝に乗せてそっと弦に触れようとしたが、近くで呆然と立ち尽くしたままの虓屠の方へ視線を移した。

「天吏を誑かす鬼め……! まだそこにいたのか!! 失せなさい!! 二度と我らの前に現れるな!! でなければここで祓ってやる!!」

 碧琅君の怒声が鋭く響き、霊気を帯びた音刃が蘊護琴から放たれる。草木が波打ち、空気を切り裂いて虓屠に向かって飛ぶ。
 虓屠は沈黙のまま攻撃を避け、姿を霧のように消した。

「やめてくれ、碧琅君。私が彼に頼んだのです。彼のせいではない。私の自業自得です」

 秋霖は蘊護琴の上に手を翳し、眉を下げて静かに言った。その手は震えていた。碧琅君は秋霖の目を見つめ、険しい表情を崩さず言い放つ。

「奴を庇ってはいけません、顧秋霖。鬼は鬼なのです」

 そう言うと、彼は蘊護琴の弦に指を走らせ、美しくも哀しい調べを奏で始めた。宝湖潭の湖面がその音に呼応して揺れ、精霊たちが耳を傾けるように空気が震える。

 そして碧琅君は、まるで秋霖の心をなだめるように、優しく問いかけた。

「もし天命がくだり、あの鬼を祓えといわれれば、あなたはそれができるのですか?」

 その言葉に、秋霖の全身が凍りついたように動きを止めた。

「もし他の天吏が、彼を祓うとなれば黙って見ていられるのですか?」

 言葉は鋭くも、優しかった。それは現実を突きつけるものであり、秋霖が無意識に避けていた問いだった。
 彼は鬼である。いかに無害であろうと、人界に在る限り、いつ何が天の裁量に触れるか分からない。秋霖は唇をかみ、言葉を失った。
 碧琅君はふっと表情を緩め、優しく微笑む。

「少し、昔話を聞いてください」

 蘊護琴の旋律が柔らかく空気に溶ける。秋霖は目を閉じて、身を任せるようにその音に耳を傾けた。

「生前の私は体が弱く、持病がありました。寝込みがちでしたが、そんな自分の病を治したくて、必死に医療書を読み漁りました……」

 生前、碧琅君が患っていた持病は、当時は不治の病とされ、どの医学書にも治療法が載っていなかった。
 ただ横になっているだけでは心まで病んでしまうと考えた彼は、自らの身体を癒そうと試み、毎日、医学書を読み漁り、薬草を調べ続けていた。いつしか、"病を患う医者"として町では評判になっていた。

 そんなある日、碧琅君は彼のもとへ薬を届けに来た薬舗の娘と出会う。

 器量がよく、聡明で明るく、薬学にも通じていたその娘は、碧琅君と意気投合した。やがて二人は互いに想い合う仲となり、「碧琅君の病を治す」という目標のもと、薬を集め、協力して調薬を重ねていった。
 碧琅君は、自らの体を使って薬効を確かめながら、病と医術についての論文を書き続けた。

 しかし、娘の両親は彼女を碧琅君に嫁がせる気は毛頭なかった。科挙すら受けられず、いつ命を落とすかも分からぬ“病鬼”との婚姻など認められるはずがない。
 強情だった娘は家を飛び出したが、結局、両親に連れ戻され、家に閉じ込められてしまう。

 それは近隣でも騒動となった。そしてその夜、娘の両親は碧琅君のもとを訪れ、頭を下げて娘との縁を諦めてほしいと懇願した。
 碧琅君は血を吐くような思いで震えながら遺書を書いた。自分はすでに死んだものと思わせ、彼女が自分を諦められるようにと、両親にその手紙を託した。

 その年の冬、心労がたたった碧琅君は再び床に伏し、とうとう動くこともできなくなった。彼の両親は深く悲しみ、金を積んで嫁を迎え、婚礼を執り行った。
 無論、碧琅君は反対したが、寝込んでしまえば何もできず、これまで尽くしてくれた両親への孝行のつもりで、それを受け入れるしかなかった。

 彼に嫁いだのは、まだ十五にもならぬ少女だった。ぽろぽろと涙をこぼすその少女に、碧琅君は深く詫び、まだ将来があると一晩中言い聞かせて宥めた。
 なおも不幸だったのは、碧琅君の家に嫁入りする婚儀の列を、薬舗の娘が目撃してしまった事だ。
 彼女の心は深く抉られた。

 碧琅君は自分の不甲斐なさと、二人の女性を悲しませ、不幸にしたことを悔いて悔いて仕方なかった。
 翌年の春、碧琅君はそのまま命を落とした。少女は、輿入れからわずか三ヶ月で未亡人となった。
 
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