白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第四十二話




第四十二話



 秋霖が二十三歳になる年は、二年続いた北彊との小競り合いがひとまずの終息を迎えた年だった。
 この頃には、虎渓と秋霖の名は前線でも広く知られており、秋霖に「孤槍寒雨こそうかんう」の異名が与えられたのも、この時である。

 それは、北境の山間部で激戦が続いていた初秋のことだった。
 冷たい雨が断続的に降り続き、地を叩く水音と、血に濡れた泥濘が一面に広がる渓谷で、味方の軍は退却の途上にあった。敵軍の追撃を防ぐため、殿を務めたのは秋霖の率いる槍軍だった。
 谷の出口、崖に挟まれた細い地形に、秋霖は槍兵たちを配し、隊を三列に分けて交代させながら陣形を保っていた。
 敵の視界は雨に霞み、槍軍の一糸乱れぬ動きは黒い壁のようで、迫り来る北彊軍が何度突撃を仕掛けても、その壁は崩れなかった。

 秋霖はその最前列の中央に立ち、仲間の動きを把握しながら、自らも槍を振るい続けていた。重甲の上を冷たい雨が滑り、黒い外套の裾は泥と血に染まり重く垂れている。
 敵兵の刃を幾度もその槍で受け流して切り伏せ、貫いていく。その一突きは、霧の帳の中から飛来する死の白刃だった。

「まだ下がるな!次陣、備えろ」

 声は風に乗って凛と響き、無駄のない命令に兵たちは即座に応じた。秋霖の動きとともに、槍軍の陣形は音もなく再構築される。
 霧の中から現れ、霧の中に消えてゆく。敵を貫く表情は冷徹で、見るものを凍らせる。その姿はまるで、寒雨の中に宿る氷神のようだった。

 後方の兵がすべて撤退したのを確認すると、秋霖はただ一人、谷の出口に残った。殿将とは、命を代償に味方の退路を守る者である。しかし秋霖の表情は終始変わらず、冷たく静かで、ただ眼前を見据えていた。
 やがて槍の切っ先を濡らす血の雨が止む頃に、北彊軍は追撃を断念し、戦線は膠着の末に収束を迎えた。


 それから秋霖は、孤槍寒雨と呼ばれるようになった。だが、虎渓はその異名をあまり好ましく思っていなかった。

「将としては素晴らしいが、その名を聞くたびに、お前を一人で戦わせてしまったことを思い出して辛くなる」

 軍営の執務室。虎渓は苦々しい顔をして机の前で腕を組んでいた。隣の机で書簡に目を通していた秋霖は、その声に穏やかに答える。

「私は槍軍の将なのだから、殿を務めるのは当然のことだ」

 槍軍は、重装備の歩兵で構成された精鋭部隊である。虎渓の率いる騎軍の奇襲を活かすための囮となり、あるいは敵の突撃を正面から受け止め、味方の退却を援護するのが役目だ。

「だから、肝が冷えると言ってるんだ。もし俺が一人で殿を務めると言い出したら、お前はどうする」

 書簡から顔を上げた秋霖は、静かに虎渓を見やった。

「お前に殿をさせるわけがないだろう。させたとしても、私も残る」
「そういう事だ、分かってるじゃないか」

 言い聞かせるように指をさされ、秋霖は眉間にしわを寄せて押し黙った。虎渓はその隙に、自分の腰に携えた二本の刀に手をやる。

「俺とお前は、この刀のように一心同体だ。二つで一つだ」
「……恥ずかしげもなく、よく言えるな」

 否定するわけではなかったが、そのまっすぐな言葉を受け取るには、秋霖の心は少しばかり不器用だった。

「こうでも言っておかないと、お前は一人で何でもやろうとするからな」

 虎渓がそういうと、秋霖は書簡を片付けて立ち上がり、槍を背にした。

「おい、どこへ行く」
「もちろん、兵士達の訓練だ」
「戦が終わったばかりだぞ……少しは休ませてやったらどうだ?……だから鬼と言われるんだ」

 ぼそりと吐き出された最後の言葉に、秋霖は冷ややかな目で振り返った。虎渓は立ち上がって秋霖の隣に立つ。

「あのな、兵士たちは一歳の時から槍を握っていたお前とは違うのだぞ」
「三歳だ」
「大して変わらん」

 二人のやり取りは、もう長年の習慣になっていた。

「日々の訓練は欠かせない。私の兵の練度が高いおかげで、孤槍寒雨の名を得て、生きて帰ってこられたのだ」

 秋霖の言葉に、虎渓は言い返せなかった。
確かに彼の部隊は統率が取れ、戦場でも寸分の乱れなく動いていた。それは秋霖の生真面目な性格と、妥協のない訓練の成果だった。

「……それに」

 秋霖は虎渓の肩に手を置き、視線を伏せて声を落とした。

「中央の情勢が気がかりだ。いつ争いに巻き込まれるかも分からない」
「……ああ」

 虎渓は目を細め、深く息を吐く。まさに、都の情勢は、この数年で大きく変わり始めていた。

 都では、年老いた皇帝が病に伏せがちとなり、朝廷では後継を巡る争いが激化していた。
 皇帝は実子を早くに失って以来、後継に恵まれず、やむなく妹の子を養子に迎えて皇太子に立てたが、庶子である皇弟が次第に力を蓄え、両者の対立は避けられないものとなっていた。
 やがて朝廷には二つの派閥が生まれ、北軍を掌握する凌家がどちらにつくかで、天下の趨勢が決まるとさえ囁かれるようになった。

 凌峰は若き日に、奸臣が引き起こした都の内乱を北から駆けつけて平定し、皇帝一族の命を救った英雄である。その勲功により、皇帝は娘である昭月公主を彼に下賜し、以後凌家は皇室から厚い信頼を受けていた。
 それゆえ、凌家が皇太子派につくのではないかと噂されていた。虎渓をはじめとする将軍たちも、いっそ明確に立場を表明すべきだと進言したことがある。
 しかし凌峰は、政争でも"不動の山侯"という異名を知らしめている。どちらの派閥にも与さず、中央の争いに関わらないと言う姿勢を確固として貫いていた。
 跡目争いに巻き込まれれば、国境の守りに隙が生まれる。北彊は寧国の混乱に乗じて国境を脅かそうとしていた。二人のうちどちらかが皇帝になろうとも、国そのものが滅べば元も子もない。
 凌峰は北軍をあくまで国を守る存在と定め、成った方につくという、最も困難な立場を選んだのだった。

「甘ったれの皇太子は実父である宰相の傀儡で、皇弟は狡猾で疑い深く、民を思いやる心がない」

 訓練場へと向かう途中、虎渓が憂いを吐いた。

「皇太子が擁立されれば、奸臣どもが好き勝手に利権を貪る。地方への金も物資も都で吸い上げられ、燕雲城に届くのは塵だけだ。いずれ民の怒りが爆発する。
逆に皇弟が即位すれば、元皇太子派は一人残らず粛清される。有能な者まで巻き添えになり、残るのは、媚びるしか能のない無能ばかりだ。朝廷は骨抜きになるぞ」

 衰退しつつある寧国にとって、皇統の混乱は致命的だった。虎渓の語った不安は、秋霖をはじめ、誰もが心の奥底に抱いているものである。

「一体どちらが“マシ”だというのだ。父上がどちらにも与しないのは、どちらにも望みがないからだ」
「それくらいにしておけ」

 秋霖は虎渓の背を軽く叩いて制した。軍営には都からの使者も出入りしている。虎渓もすぐに周囲を見渡し、声を落とした。

「中央の骨肉相残こつにくさんざんときたら、まさに末恐ろしい。……俺はこの家に生まれてよかったぞ。恵まれている。お前もいるしな」
「……まったくだな」

 通路を行き交う兵たちが、次々と二人に礼をとって通り過ぎていく。
 世襲で若くして将軍となれば、本来は侮られやすい立場だが、虎渓と秋霖は幼少期から凌峰の下で鍛え上げられ、その存在感はすでに軍内で揺るがぬものとなっていた。
 侯爵家の世子である虎渓は、幼い頃から明朗で可愛がられ、兵士たちにも人懐っこさで親しまれている。一方、秋霖は地道な鍛錬を欠かさず、実戦で確かな働きを見せてきたことで、畏敬の念を集めていた。
 秋霖の父・顧涵仁は、北軍の軍律を監察する役職にあり、軍規に対してはとくに厳しく、その教えを受け継ぐ秋霖もまた、自分に与えられた兵の訓練に一切手を抜かない。
 そのため顧家は、兵たちから“鬼”とも恐れられているが、数万の兵を統率する上で、なくてはならぬ存在である。
 凌家が光として兵を奮い立たせるならば、顧家は影として兵を律する。それが、北軍を支える両輪の形だった。


 槍軍の訓練場に着くと、兵たちは即座に整列し、秋霖の姿に背筋を正す。だが、秋霖が号令をかけようとした瞬間、隣にいた虎渓が先に声を張った。

「お前達、中秋節は宴をするぞ! その日は訓練も休みだ! 俺が特別に許す!」

 一瞬、兵たちの表情に和らぎが生まれたが、秋霖はすかさず虎渓の脇腹を肘で突く。

「おい、勝手に決めるな。お前の兵じゃないぞ」
「責任は俺が取る!」
「……なら父上に報告しておこう」
「何っ!?叔父上に言いつけるなんて、お前には良心というものがないのか!」

 兵士たちの間に、くすくすと笑い声が漏れた。
 二人にとっては何気ないやり取りであっても、自然と飴と鞭の役割を果たしている。その様子を見ていた歴戦の老兵たちは、かつての若き凌峰と顧涵仁を思い出したように目を細めて頷き合った。

 
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