白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第四十五話




第四十五話



 翌日、虎渓が軍営の執務室に入ると、そこには秋霖が黙々と書簡に目を通していた。探していた人物をようやく見つけたと安堵し、虎渓は静かに彼の隣へ腰を下ろす。共に軍営に行くのが日課で、虎渓が秋霖を迎えに行くと寝床は既にもぬけの空だったのだ。

「秋霖、体はもう大丈夫か」

 問いかけると、秋霖は書簡から目を離さずに返事をした。

「……ああ、平気だ」

 その声音は穏やかだったが、どこか距離を感じさせた。虎渓は秋霖の横顔をそっと見つめ、僅かに眉を寄せる。

「少し俺に怒ってるな」

 気まずさを押し殺すように笑い混じりに言うと、秋霖は静かに答えた。

「……怒ってなどいない」

 けれど、その言葉に明確な温度はなかった。昨日、虎渓が口付けて、何も言わずにそのまま部屋を出ていったことが、秋霖の中にひっかかりを残しているのは間違いなかった。
 しばし沈黙が続く。虎渓は迷いを押し殺し、真剣な口調で言った。

「秋霖、俺はお前を大切に思ってる。だからお前を……辱めたりしない」

 秋霖は反射的に顔を上げ、手にしていた書簡を机に置いた。その音が思った以上に大きく響き、彼自身もわずかに肩を震わせた。

「お前がそんな事をするとは思っていない……!」

 その声は、怒りとも困惑ともつかない感情をまとっていた。何がそんなに自分を苛立たせるのか、言葉にできずになおさら苛立ちが増す。
 虎渓は視線を落とし、机に置かれた書簡を一瞥したあと、ふたたび秋霖の目を見て静かに言った。

「病み上がりのお前を止めたくて、驚かせただけだ。だから許してくれ」

 その声に含まれた真摯な思いは、真っ直ぐに秋霖の胸に届いた。秋霖はようやく、虎渓の顔を正面から見つめ返す。
 そこにあったのは、これまでのような無邪気な弟分ではなく、誰かを本気で慈しむ大人の男の顔だった。まっすぐに燃えるような熱を秘めた瞳が、ただ秋霖だけを見つめている。
 そこで秋霖はようやく、何に腹を立てていたのか理解した。今まで、彼の心を本気で理解できていたと思い込んでいた自分に腹が立ったのだ。
 かつてはすべてを知っていると思っていた存在が、知らない顔を見せる。それがたまらなく悔しくて、恐ろしくて、だから彼と向き合うことを避けていたのだ。

「秋霖……」

 虎渓の声が、問いかけるように響く。だがその優しさが、逆に秋霖の胸をざわつかせた。

「いつもみたいに、お前のやりたいようにやればいいだろう」

 その一言を残し、秋霖は席を立って部屋を出ていった。扉の閉まる音が、静かに室内に響いた。
 残された虎渓は、後ろ手をついて仰向けに倒れ、執務室の天井を見上げながら寂しげに息を吐く。

 ――いつかお前の唇に触れてしまう日がくると、思っていた。
ほんの少し触れてみたいだけだった。それがあの時だった。たったそれだけの事のはずだった。

 虎渓は、額に手の甲を置いて目を閉じた。



 その日の午後、皇帝の危篤を知らせる早馬が、燕雲城へと駆け込んできた。
 凌家と顧家の一族は急ぎ凌家に集まり、今後の方針を協議していた。凌峰は、息子の虎渓に向かって静かに言葉を下した。

「虎渓、お前は母とともに都へ行け。何があっても必ず守るのだぞ」
「父上、任せてくれ」

 昭月公主と虎渓が向かうのは、血縁者として自然なことである。政争の渦中にある今、彼らが駆けつけることは政治的にも意味を持つ。侯爵である凌峰は国境を守る身で都を空けられないが、皇帝崩御後に政変が起こることは予想の範囲内だった。

 凌峰は顧涵仁へと視線を移す。

「お前はどう見る」
「冬を前に北彊が動くことはないでしょう。しかし、雪が溶ければ再び動き出すかもしれません。私が少数の兵を率いて玄安まで南下します。陛下が崩御されれば、そのまま都に入る。表向きは物資の調達としておけば、怪しまれることもない。都と燕雲城の連絡役としても動けますし、どちらの事態にも対応できます」
「よし、頼むぞ」

 凌峰はその案に頷き、満足げに頷いた。顧涵仁は横に控える息子へと目をやった。

「秋霖、ここでしっかりと伯父上をお支えしろ」
「お任せください」

 秋霖は深く礼を取り、そのまま虎渓をちらりと見やった。虎渓も同じように視線を向けてきたが、秋霖はその目をまっすぐには受け止められず、ほんの僅かに逸らした。
 都と燕雲城、それぞれに分かれて任務に当たるのは、二人にとって初めてのことだった。

 凌峰は続けて各将軍に春の備えを命じ、来るべき戦の準備を進めさせた。大きな波が、確かに燕雲城を呑み込もうとしていた。


 *


 明朝、秋霖は昭月公主と虎渓の見送りに向かった。夜明け前の寒気が肌を刺す中、凌家の門前では従者たちが出立の準備を整えていた。顧涵仁も兵の準備が整い次第、後を追って玄安へ出立する段取りを進めている。

「虎渓…」

 屋敷から姿を現した虎渓を呼び止めると、彼は笑みを浮かべて振り返った。白くなった息が空気に溶けて消えていく。

「なんだ、俺に香袋をくれるのか?」
「…うるさいぞ」

 いつもの調子に、秋霖はつい小さく笑みをこぼす。虎渓の外套の紐が緩んでいるのに気づいた秋霖は、黙って近づいて結び直し、寒くないように首元の毛皮を立ててやる。顔を上げた時には、自然と至近距離で目が合っていた。
 この距離で、どんな見送りの言葉をかけるべきか、見つからなかった。

「…道中も気をつけろよ」

 月並みな事しか言えず、秋霖は一歩下がって離れた。

「ああ。秋霖、みんなを頼む」
「分かった」

 虎渓は始終変わらず穏やかなままで、あの一件を何も気にしていないように見えた。本当に気まぐれでいたずらをしただけなのだろうかと、秋霖は歩き去る虎渓の背中を目で追いながら、静かに胸元を押さえた。
 昭月公主が馬車に乗り込み、虎渓も馬に跨る。二人は見送りに来た秋霖へと手を上げ、そのまま一行は都へ向けて出立した。
 彼らとは、春が訪れるまで会えなくなるだろう。

 ――何があろうと、私はお前への誓いを守る。

「けほッ…」

 押さえていた胸の力を緩めると、奥から咳が突いてきた。軍営に行った際、軍医に体を診てもらったところ、体を巡った毒が内臓に影響を及ぼし、弱っている事がわかった。
 この事は家族の誰にも伝えておらず、軍医にも口止めをしている。軍人として、今の状況で自分だけが寝込むわけにはいかず、周囲に余計な気苦労をかけるわけにもいかない。
 秋霖は仰いだ空に、舞い落ちる白い粒を見た。灰色の空に静かに降るその白が、無音のまま、燕雲城に冬の始まりを告げていた。
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