白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第四十六話




第四十六話



「秋霖と離れるのが寂しいのね」

 馬の蹄音と車輪の軋む音だけが静かに街道に響くなか、昭月公主はいつになく口数の少ない息子を気遣って声をかけた。普段の虎渓であれば、こういう時こそ冗談を飛ばして場を和ませるはずだったからだ。

「母上、俺のおじいさまが危篤なんだぞ」

 虎渓は馬を馬車に寄せると、少し拗ねたような声で答えた。

「丹瑤の婚儀以来だから、陛下とはもう五年も会っていなかったわね……。あの子は元気かしら……孫に会いたいわ」

 昭月公主は深いため息をつく。鎮南王に嫁いだ丹瑤には男子が生まれ、今は二人目を身籠もっているという知らせが届いている。彼女が知る孫の姿は、手紙に添えられていた赤子の足跡だけだ。

「都に着いてから、時間があれば南へ行ってみるか?」

 寂しげな母の声を気遣い、虎渓が提案する。

「どうかしら。できたらいいけれど……」

 馬車の中で肩を落とした昭月公主の声は、現実的には叶わないことを悟っている響きだった。再びしんみりした空気に、話題を変えるように、再び彼女が口を開く。

「秋霖とあなたは昔から仲が良くて、喧嘩もしたことがなかったわね」
「まさか、喧嘩くらいあるぞ!」

 虎渓は不満げに声を上げ、昭月公主は思わず小さく笑った。秋霖の話題が出れば、虎渓の機嫌が戻るのは昔からだった。

「あら、そうだったかしら。いつもあの子が譲ってくれるから、本気の喧嘩なんてなかったでしょうに。秋霖は如清に似て、優しい子だわ」

 実際のところ、昭月公主の言う通り、二人が本気でぶつかったことはなかった。主君である虎渓より一つ年上という立場もあり、秋霖は常に一歩引いていた。
 かつて幼い虎渓は、そんな秋霖の態度に不満を抱き、「男なら本音を語れ」と気持ちをぶつけたこともあったが、秋霖は困ったように眉を下げるだけで、虎渓の怒りはいつも空振りに終わっていた。
 しかし、今の虎渓は知っている。あれは“弟”に対する“慈愛”だったのだと。

「この間は本当に心配したわね」

 昭月公主がしみじみと言い、虎渓も重く頷いた。

「……まったくだ」
「魂の半分ですものね。仲のいいこと」

 あの言葉が母の口から出た瞬間、虎渓はぎょっとして思わず手綱を引いた。

「梅霞は秋霖を慕ってるみたいだし、そろそろ二人を婚約させてもいいかしらね。今の状況では、外から縁談を持ってくるのも難しいもの」
「だっ……だめだだめだ!!」

 手綱を操り直しながら、虎渓は勢いよく反論した。

「まだ早い!!梅霞はまだ十七だ!」
「あら、春には十八よ。丹瑤もその歳には縁談の話が出ていたのよ。……もともとは潘家との縁談だったけれど、陛下のお考えで鎮南王との婚約に変わって日取りの都合で後になっただけよ」

潘廷傑パン・ティンジエの弟、潘廷董パン・ティンドンとの縁談は潘家から持ち込まれたものだった。しかし、西軍を有する潘家と北軍の凌家が結びつくのを危惧した皇帝が、正式な婚約が決まる前に鎮南王との婚約の詔を出した。皇帝の命とはいえ、潘家の面目は潰され、それ以来、両家は絶縁状態にある。
 虎渓は、何とかして秋霖と妹の結婚を止められないかと、苦し紛れに知っていることをひねり出した。

「夏…夏霖は梅霞を気に入ってるらしいぞ!」
「知らないの?夏霖が好きなのは杏霞よ。杏霞が自慢していたわ」

 昭月公主は楽しげに笑い、虎渓は目を見開いた。

「なっ……母上は娘を二人も顧家に嫁がせる気か!?」
「どこの馬の骨かも分からない男にやるくらいなら、秋霖にやったほうがましだと、昔あなたが言ってたじゃない」
「母上?!それは言葉のあやというものだ……!とにかくだめだ!」
「ほほほほ……」

 昭月公主の高らかな笑い声が街道に響く。

「まったく……母上は俺を揶揄ってるな……」

 不貞腐れたように呟いた虎渓だったが、やがて静かに付け加えた。

「秋霖との縁談を決めたところで、先に俺の縁談がなければ、あいつは遠慮して嫁をもらわないからな」
「そうなのよね……頭が痛いわ。あなたたちの子供の顔はいつ見られるのかしら」

 虎渓は咳払いをする。その時、彼の頬に冷たい感触が落ち、反射的に顔を上げた。

「母上、初雪だぞ」

 昭月公主は馬車の窓を開け、空を見上げる。

「なら急ぎましょう。雪が積もる前に都に着かなくては」

 彼女が御者に声をかけ、虎渓は馬の腹を軽く蹴って歩を速めた。空から舞う白い粒が、しんとした街道に静かに降り注いでいた。


 *


 長い道程を得て都に辿り着いた二人は、すぐに後宮へと足を運んだ。皇帝の側仕えの太監、長奉ジャン・フォンが、昭月公主と虎渓を床に伏せている皇帝のもとへと案内する。

「お待ちしておりましたよ…!さあ、早くこちらへ」
「陛下…!」

 昭月公主が皇帝の寝台へと駆け寄ると、皇帝は震える手を差し出し、彼女はその手をしっかりと取った。

「お、おお……昭月……待っておったぞ」
「陛下、虎渓も参っておりますのよ」

 虎渓は寝台の前に進み、膝をついて深く頭を下げた。

「陛下!不肖の孫、凌虎渓ここに参りました」
「よく来た……よく来た……来い、近くへ寄るのだ……」

 虎渓は立ち上がり、寝台のそばへと歩み寄る。そこに横たわる皇帝の姿は、以前会った威厳ある姿とは異なり、白髪の混じる老いた顔が枕に沈んでいた。虎渓は笑顔を向けたが、悲しみをごまかすように眉間には深い皺が寄っていた。

「ああ……逞しくなった……」

 皇帝は、虎渓の顔をじっと見つめ、満足げに頷いた。姉の丹瑤と違い、虎渓が皇帝と顔を合わせたことは安天祭の時を含めても片手で数えるほどしかない。

「長奉……あれを持て……」
「ただいま」

 長奉は一礼して静かに退いていった。皇帝は息を吐き、ぽつぽつと懐かしむように語り始める。

「昔……朕の生誕祭に起きた内乱で……凌峰が北から援軍を率いて駆けつけてくれたな。どの諸侯よりも早く来てくれた……」
「もう二十年以上も前になりますわね……」

 昭月が微笑みながら頷いた。
 北彊と通じていた奸臣が引き起こした内乱。その前兆をいち早く察知した凌峰は、誰よりも早く北から都へと駆けつけたのだった。

「逆賊を撃ち倒し、颯爽と朕らを救い出してくれたあの姿は今でも目に焼きついておる。まさに英雄であった……」

 皇帝は、再び虎渓の手を求めて差し出し、虎渓もそれに応じて手を握り返す。年老いたその手は、虎渓の手の中で頼りなく感じられた。

「……虎渓よ、今の其方は昔の凌峰によく似ておる。どの諸侯よりも貫禄がある……大きな手だ……」
「お祖父様、俺は素手で獣を倒せるって、都で評判になってるそうです」

 虎渓が冗談めかして言うと、皇帝はしゃがれた声で小さく笑った。

「陛下、私はあの人の元へ嫁げて幸せです。息子も娘も立派に育ちました」
「良い……良いぞ……」

 娘の言葉に、皇帝は何度も頷いた。

 そのとき、長奉が戻り、恭しく虎符こふを載せた台座を運んできた。重厚な黒漆の箱が開かれると、中には左右に分かたれた虎の形をした金属の符が収められていた。
 虎符の左右は割符となっていて、ただ形が一致するだけではなく、唯一無二の接合部によって結び合い一匹の虎となる。
 皇帝は視線をそちらに向け、ゆっくりと手を伸ばした。

「昭月……あやつに伝えてくれ。もう一度、朕に力を貸してくれと……」
「陛下……!」

 虎符を支える昭月の手が震える。
 虎符は国を守る軍権の象徴であり、一方を天子が、もう一方を最も信頼する武将に託す。片方だけでは意味をなさず、二つが揃ってこそ効力を持つ。

「昭月、この虎符を必ず凌峰へ渡すのだ。お前にしか渡せぬ……。朕の代わりに……寧国を……皇太子を……支えてやってくれ……」

 昭月は静かに膝を折り、両手を掲げて虎符の片割れを受け取る。虎渓もまたそれに合わせて膝をついた。

「臣女昭月、聖命を拝し、この虎符、しかとお預かりいたします。命に代えてもこの虎符を北軍総大将、凌峰へと託しましょう」

 二人はその場に平伏し、皇帝の最後の命をしかと受け止めた。その傍らで、長奉が運んできた台座には、封を施された詔も添えられている。

「この詔は……朕が崩御したのちに開くのだ……それまでは……誰にも、見せてはならぬ……」

 皇帝はすべてを語り終えると、そっと瞼を閉じた。

「陛下!」
「陛下……!」
「お祖父様……!」

 長奉がすぐに玉体に触れ、呼吸を確かめる。少し間を置いて、安堵の表情で伝えた。

「ご安心を…お休みになられております」

 昭月と虎渓は、静かに胸を撫で下ろしながら、深く頭を下げた。
 
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