白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第四十八話




第四十八話



 積もった雪が、すべてを白く染め上げていた。

 秋霖は燕雲城の城郭に立ち、風に髪を揺らしながら遠くの地平線を静かに見つめていた。空と地の境はすでに曖昧で、どこまでも白が続いている。まるでこの世ではないどこかに立っているかのような錯覚に囚われる。
 幼い頃、虎渓と肩を並べて雪原を見つめ、「別の世界に迷い込んだみたいだな」と笑い合った記憶がある。あの時の笑い声が、今も風の音に紛れて聞こえてくる気がした。
 吐いた息はすぐに凍り、白い外套が冷たい北風にはためく。秋霖にとって、虎渓のいない年越しはこれが初めてだった。
 
 隣にいることが当然だった男が、今はいない。これから先、彼と離れる時間はもっと増えていくのかもしれない。そうなった時、今抱いているこの寂しさは、やがて慣れ、薄れていくのだろうか。
 だが、虎渓の人懐こい笑顔や、くだらない冗談ひとつ聞けないだけで、冬の寒さがひときわ身に沁みるようだった。

 顧家は元より静謐な家だが、かつては凌家の賑わいがその静けさを温めていた。凌峰と虎渓が軍のことで声を張り合い、昭月公主や丹瑤がそれを窘めていた。三姉妹たちの笑い声は絶えず、いつも誰かの声が響いていた。
 一方、顧涵仁は寡黙で、如清も控えめだが、二人は目配せ一つで通じ合う夫婦だった。弟の夏霖は、家の中では兄や両親に嬉々として見聞を語るが、外では秋霖に倣って口数が少ない。
 そんな両家は、年越しには必ず顔を揃えるのが習わしだった。それが叶わぬ今、静寂がやけに心に染みた。

「秋霖……! ここにいたか」

 不意に呼び止められて振り返ると、凌峰が手を上げながら近づいてくる。

「伯父上」
「見張りか? 北彊の奴らも、今日は酒を飲んで寝てるに違いない」

 凌峰は秋霖と並んで国境の彼方を見渡し、ふっと笑ってその背を軽く叩いた。

「さ、帰って水餃子を食べよう。如清もたっぷり用意してくれたそうだぞ」

 秋霖はわずかに口元をほころばせ、二人は並んで城郭を降り始めた。その時、伝令が血相を変えて駆け込んでくる。

「凌侯爵……!」
「どうした」

 荒い息を数度整えた伝令は、雪の上に膝をつき、低く報告した。

「皇帝陛下が……崩御なされました……!」

 凌峰と秋霖は瞬時に互いを見やった。そして、ゆっくりと都の方角の空を仰ぐ。

「陛下……年を……越せなかったか」

 凌峰は悲痛な面持ちで天に息を吐き、雪の上に静かに膝を折った。秋霖もそれに続き、手をついて深く頭を下げる。

「凌峰……謹んで、陛下の御崩御を悼みます」

 寧国第八代皇帝――五十年にわたる治世を全うした帝の生涯が、今まさに終わりを迎えたのだった。凌峰はもう一度、雪空を見上げ、深々と叩頭した。

「天よ、どうか妻と息子をお守りくだされ……」

 都では、すでに葬儀の支度が進んでいるだろう。昭月公主と虎渓はその渦中にあり、政変の嵐が今まさに吹き始めようとしていた。
 秋霖は突然、胸の奥が苦しくなり、無意識に胸元を押さえる。止めようとする前に咳が込み上げ、体を震わせる。

「ッ……けほ、ッ……!」
「おい、どうした。風邪でもひいたのか?」

 秋霖を覗き込んだ凌峰が、その腕を取ってゆっくりと立たせた。

「いえ……少し喉が……」

 かすかに笑みを浮かべながら答える秋霖だったが、咳は止まらず、呼吸が浅くなる。凌峰は彼の肩に積もった雪を払うように手を伸ばし、優しく言った。

「阿秋……気をつけるのだぞ。皆、お前を頼りにしているのだから」
「……はい」

 二人は馬に跨り、ゆっくりと凌家の屋敷へと戻っていく。降りしきる北の雪は、彼らの足跡をたちまち覆い隠していった。


 *


 都では皇帝の葬儀が行われていた。
 年の瀬も押し迫る冬の空の下、宮殿は白と灰に包まれ、華やぐはずの都は深い喪に沈んでいた。往来の賑わいは消え、城門から御殿まで白麻の幔幕が張られ、凍てつく風に揺れている。都中が息をひそめるなか、葬儀は粛々と進められていた。
 鐘が重く響き渡り、香煙が立ちのぼる。人々は地に膝をつき、額を伏せて涙を流した。

 この日から一年、国中は喪に服すことが定められ、祝い事は一切禁じられる。正月もまた、今年は祝うことができない。赤を避け、宴を慎むよう命じられた。新春の飾りも撤され、年越しの準備も行われぬまま、季節だけが過ぎていく。

 告別の儀が執り行われる奠殿てんでんの庭には、黒衣の太監たちが香炉の前に控え、臣下や皇族たちは香を手に列をなし、棺の前で叩頭を繰り返す。凍てつく空気のなか、すべてが粛然と進められていた。

 その静寂を破るように、一人の男が姿を現した。
 黒の喪服に身を包み、風にたなびく裾を乱すことなくまっすぐ歩を進めるその男に、列を成していた者たちが次々と顔を上げた。

「……顧涵仁だ」

 ざわめきが広がる。北軍を影で支える知将にして、凌峰の片腕である男がこの場に姿を見せたのだ。舒王の視線もまた、その男をしっかりと捉えていた。
 顧涵仁は無言で香を供え、深々と叩頭を繰り返した。何も言葉を発することなく立ち上がると、そのまま背を向けて奠殿を後にする。
 ちょうどその退場に重なるように、昭月公主と虎渓が姿を現した。

「叔父上、ご無事で」

 虎渓の呼びかけに、周囲の臣下たちの視線が一斉に注がれる。誰もが言葉に耳をそばだてていた。

「公主様、虎渓」

 顧涵仁が頭を下げると、昭月公主が声をかけた。

「雪の中、大変だったでしょう。一人でお越しに?」
「ええ。このまま玄安へ帰ります」

 そう答えた顧涵仁に、虎渓が何気ない口調で言った。

「叔父上、ひとつ聞いておきたいことがあるんです。李霞が都で流行ってる胡桃の点心を食べたがってたんですが、どこを探しても見つからなくて。どんな名前だったか、ご存知ですか?」

 顧涵仁はしばし思案し、昭月の方へ目を向けた。

「……胡桃餅ではないのですか」
「それは昔からあるものね。……都中にないなんて、今は作る人がいないのかしら」

 軽く首を傾げる昭月公主を見つめた顧涵仁は、表情を変えずに静かに言った。

「……公主様、おやつれになっておられる。お身体の具合はいかがですか」
「ええ……陛下とのお別れが辛くて、あまり眠れていないの」
「どうか、お大事になさってください。虎渓、公主様を頼む」
「はい」

 虎渓が深く一礼すると、顧涵仁も同じように礼を返し、そのまま踵を返して人々の波のなかへと消えていった。その背を見送っていた舒王は、誰にも聞き取れぬほどの声で小さく呟く。

「……あれが、北の鬼か」

 風に揺れる白幡の下、天子の霊輿が緩やかに運び出されると、太監・長奉をはじめ、近侍の者たちが俯いてその後を歩いた。長い葬列が都の外へ向かっていく。
 それを涙ながらに見送る民達は、不思議に思った。葬列の中にあるはずの皇太子の姿が見えなかったからだ。
 
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