白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第五十話




第五十話



 安嘉宮を出た昭月公主は、冷えきった空気を裂くように早足で内廷を進み、近くにいた顔見知りの宦官に声をかけた。

「息子を呼んできて。早く!」

 宮門で待っていた虎渓は、文字通り風のように駆けつけた。昭月公主の身体を支えながら、迎えの馬車に共に乗り込む。彼女に腕を引かれるまま、虎渓もその中へ身を沈めた。
 揺れる馬車の中、昭月公主は先ほどの皇太后との密談を、簡潔に息子に語った。虎渓は深く考え込むように眉を寄せ、低い声で問う。

「母上……あれで、本当に叔父上に伝わったのか?」
「ええ。彼はちゃんと“胡桃餅”と答えたわ」

 昭月公主が静かに頷く。葬儀の時のやり取りは、彼女の指示による仕込みだった。

「李霞が胡桃を食べられないのは、あなたも知ってるでしょう? あの子、昔“胡桃餅”を食べて具合を悪くしたのよ。ちょうど涵仁に膝の上で抱かれてた時だったわ。……目の前でね」

 袖で口元を隠し、くすくすと笑う母に、虎渓も察して苦笑を返す。

「……叔父上も災難だったな」
「李霞の体質を見抜いたのは、他でもない涵仁よ。あの時、私は彼に話したの。“皇太子と李霞は同じ体質だ”と」

 ――胡桃の点心が見つからない。
 
 それは、ただの世間話ではなく、皇太子の状態が“偽り”であることを伝える合図だった。顧涵仁がそれを正しく読み取ったなら、すでに動いているはずだ。皇太子が幽閉されている今はより慎重にならなければならない。

「私も、叔母上から聞くまでは、皇太子殿下が胡桃を召し上がれない体質だとは知らなかったの。だから、舒王も知らないはずよ」

 その時、馬車が急停止した。車外から護衛の声が飛ぶ。

「公主様! 屋敷が……巡衛司に包囲されています!」
「何だと……!?」

 虎渓が馬車の扉を押し開け、外へ飛び出すと、凌侯府の周囲を巡衛司の兵がぐるりと囲んでいた。門前に立つ隊長が進み出て、声を張り上げる。

「先日、昭月公主様が賊に襲われたとの報せを受けております! 我が隊は凌家を賊からお守りするよう命を受け、今後は屋敷の警備に当たらせていただきます!」

 無論、その“賊”は舒王の差し向けた刺客である。そして、巡衛司の目的は警備などではなく、実質的な監視であり、すなわち軟禁だ。
 虎渓は目を細め、声を低くして睨みつける。

「母上には俺がついている。屋敷の警備など必要ない。都を守るべき巡衛司が、一家の屋敷を囲むなど、職権乱用も甚だしい」
「都の要人を護るのも我らの職責。どうか、舒王様のご厚意とお受け取りください」

 その時、馬車から昭月公主が降りてきた。彼女は虎渓の背に手を添え、穏やかに首を振る。
 だが、屋敷へ向かおうとしたその瞬間、初老の男が一人、後ろに薬箱と剣を背負った若い男を従えて現れた。

「公主様、凌世子様」

 二人は傘をかぶり、旅人のような出で立ちで門前に立つ。巡衛司たちが一斉に武器を構えたが、初老の男はそれに構わず腰を折り、深々と礼をした。青年もそれに倣う。

「お帰りをお待ちしておりました。物々しい様子で、いつお伺いすればよいかと悩んでいたところです」
「……あなたは?」

 昭月公主が訝しげに尋ねると、男は顔を伏せたまま答えた。

劉致リウ・ジーと申します。公主様の容体が優れぬと聞き、玄安より参りました医師でございます」

 その名を聞いた虎渓は、はっと目を見開く。

「もしかして……俺は子どもの頃にお会いしたことが……?」

 劉致は顔を上げて静かに微笑み、頷いた。

「よろしければ、中でお話を」
「もちろん!さあ入ってくれ」

 虎渓が屋敷の中へ招こうとしたその時、門前に立つ巡衛司が進み出て遮った。

「凌家の方以外、何人たりとも屋敷には入れないとのご命令です」

 その言葉に、昭月公主が口元を隠しながら笑う。

「まぁ、それはずいぶんと徹底してらっしゃるのね。
屋敷の出入りを決めるのは、門番ではなく主人のはずよ?まさか舒王様は、政だけではなく、我が家の客人にまで指図なさるおつもり?」

 巡衛司の隊長は言葉に詰まり、唇を引き結んだまま動かない。
 虎渓は怒気を込めて両手で門扉を押し開けた。扉は勢いよく開き、隊長はその衝撃で数歩後退して屋敷の敷地内に足を踏み入れてしまった。
 その様子を見た虎渓が声を張り上げる。

「おい!今、自分で言ったことを忘れたか? 凌家の者以外は入れないんだろう?お前は自分を捕らえるつもりか?」

 隊長は悔しげに顔を真っ赤にし、黙って門の外へ退いた。劉致の背後から見ていた青年は思わず小声で呟く。

「……お見事」

 虎渓と昭月公主を先頭に、侍女や護衛たちも堂々と屋敷の中へと入っていった。
 応接間にて、茶を置いた侍女が音もなく下がると、劉致が昭月公主と虎渓に向き直った。

「私はかつて、北軍にて軍医を務めておりました。凌世子様がまだお幼い頃、凌侯爵に伴われて訓練場でお稽古をなさっていた際、何度か怪我の手当てをさせていただいたことがございます」
「ああ……やっぱり!劉先生だ!」

 虎渓は目を輝かせ、笑顔を浮かべながら身を乗り出した。懐かしさと再会の喜びが声ににじむ。
 劉致は静かに微笑み、隣に控えていた青年に目を向けた。

「このたびはご縁があり、顧涵仁将軍に再び仕えております。そして、こちらにおりますのは暁流心剣ぎょうりゅうしんけんの使い手、鏡石ジンシーです。私の護衛として同行してくれております」

 鏡石と紹介された青年は、虎渓と同じくらいの年頃だ。質素な衣に身を包んではいたが、その瞳には聡明さが宿っていた。彼は丁寧に起立し、礼を取る。

「昭月公主様、凌世子様。初めまして。私の師匠は、かつて凌侯爵様と顧涵仁様に深いご恩があり、劉先生には兄弟子の命を救っていただいたこともございます。此度は師匠に代わり、ささやかながら恩義に報いさせていただきたく、供をさせていただいております」

 虎渓は興味深げに鏡石を見つめながら、ふと首をかしげた。

「暁流心剣……? 北ではあまり耳にしない名だが、父上とはどこで……?」
「師匠は南の出身ですが、かつて燕雲城を訪れた折に、凌侯爵様に一冬の間、客人として迎えられたことがあったとか。確か、その頃の師匠は迅流無剣と……」

 鏡石が言うと、虎渓は膝を打った。

「ああっ……もしかして、あのときの!」

 暁流心剣の剣宗、彤一。彼が一冬だけ凌家に滞在していたことは、虎渓も幼いながらに鮮明に覚えていた。顧涵仁とも親交があり、昭月公主も思い出したように穏やかに頷く。
 虎渓は目を輝かせ、鏡石に身を乗り出して語る。

「鏡石殿、俺は子どもの頃に恐れ多くも、お師匠様に手合わせしていただいていたぞ!」
「なんと。それはまさしく、天の巡り合わせですね」

 鏡石も微笑み返す。二人の間に、師を敬う武人同士のささやかな共鳴が生まれた。ふと、虎渓の顔から笑みが消え、わずかに目を伏せた。

「……秋霖。俺の兄は、“迅流無剣”の話が大好きだった。きっと、お前と会えていたら喜んだに違いない」
「私も、是非お会いしてみたかった」

 鏡石が静かに応じると、虎渓はどこか寂しげにうなずく。昭月公主はそんな息子を横目に見て、くすりと笑ったのちに話を切り替えた。

「虎渓、昔話はそのくらいにしておきましょう。……そろそろ、本題に入りませんと」
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