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幻燼夢
第五十四話
第五十四話
まだ朝日も昇らぬ早朝。秋の濃い霧雨が町を包み、重たい湿気が石畳を覆っていた。御者に扮した顧涵仁が手綱を握り、昭月公主、茗茗を乗せた馬車が静かに路地を抜けていく。その後ろに馬に跨った鏡石が並走していた。
「おい、そこの馬車、どこへ行く!」
乱暴な靴音が石畳に響いた。巡回中の西軍偵察部隊が、ひそやかに走る車輪の音に気づいて駆けつけたのだ。町の出入り口は厳重に監視され、脱出は容易ではない。
「追いかけろ!」
馬車が止まる気配すら見せず加速すると、隊長格の男が手を挙げて追撃の指示を出す。兵たちが武器を構えて駆け出そうとした。
その時、霧雨の路地の奥から、ひとりの男が歩み出る。旅装に包まれた体から雨が滴り、濡れた髪が首に張りついていた。彼は迷いなく踏み出し、腰の双刀に手を添える。
抜き払われた刃の音が、静かな朝の雨に切り込んだ。虎渓の手に、鉤爪のような双刀が滑るように収まる。
「おい…! あれは二刀剣だぞ!」
「凌虎渓だ……!」
「兵を集めろ!!」
叫び声が上がると同時に、虎渓が三人の兵のあいだに飛び込んだ。まるで獣のような動きで空を裂いた双刀が唸り、次の瞬間には、兵たちの剣が三本ともへし折られていた。
斜めに降る霧雨のなか、虎渓の体が地を這うように沈み、疾風のごとく駆け抜ける。敵は反応する間もなく、なぎ倒されていった。
そして最後の一撃が振り下ろされ、隊長の兜を真っ二つに叩き割った。
「ぐっ……!」
鋼が割れる重い音が響く。虎渓は半回転しながら踵を振り上げ、狙いすました一太刀で急所を貫いた。西軍の兵士たちは応戦すらできないまま、倒れていく。
「馬鹿な……これが……雙鉤白虎……」
地に伏した兵の一人が呻いた。立ち上がれる者は誰もいない。騒ぎを聞きつけた兵たちが町の各所から集まり、通りに人の波が押し寄せる。だが、彼らの目の前に立つ虎渓は、十重二十重に囲まれているはずなのに、人数の不利を一切感じさせない。
「どうした、捕まえてみろ! 凌虎渓はここにいるぞ!」
虎渓がわざと声を張り、挑発する。兵たちは悔しさに歯を食いしばり、じわじわと距離を詰める。再び双刀が唸り、金属がぶつかる音が町を震わせた。
虎渓の剣撃は、まさに爪と牙だった。交差する斬撃が雨を切り裂き、突き刺さり、流れるように敵を斃していく。その連撃は一瞬のためらいもなかった。
やがて朝日がのぼりはじめ、通りの霧を橙に染めていく。倒れた兵たちの呻き声だけが、門前に残されていた。
虎渓は大きく息を吐いた。刃についた血を払って鞘に収めると、濡れた髪を手で払い、空を見上げる。
「俺にも“孤刀寒雨”みたいな名がもう一つ欲しいもんだな」
ぽつりと呟いた虎渓は、その場を離れずに立ち尽くした。
昭月公主たちの逃走を守るには、ここで少しでも時間を稼ぐ必要がある。西軍の注意をこの場所に引きつけ、追手の数を削ぐために、虎渓はなおも刀を帯びたまま、霧のなかに立ち続けていた。
*
虎渓の足止めのおかげで顧涵仁らは順調に街道を進んでいた。太晋城まで残り半分のところまできた山間の道は、先日の雨で再びぬかるんでいた。崩落地の上に無理やり敷かれた板橋が歪み、馬車の車輪は不穏な音を立てる。
顧涵仁が馬を御しながら、鋭く息を呑んだ。
「……西軍だ。街道の修復にかこつけて兵を潜ませていたか」
視界の先、斜面の上にちらちらと槍の穂先が見える。西軍の旗が風にたなびき、急ぎ集結する兵たちの足音が泥を蹴る音と重なった。
「おい!そこの馬車!止まれ!中を改める!」
馬車に気づいた西軍の兵の声が響く。顧涵仁と鏡石は顔を見合わせるとそれぞれ馬に鞭打った。
「つかまってください!」
馬車の中にいた昭月公主と茗茗はお互いに縋り付いて馬車の内壁にしがみつく。速度を上げた馬車は向かってくる兵を蹴散らしていくが、しばらくして重たい音と共に、前輪がぬかるみに深くはまり込み、馬車が横に傾いた。
「――っ!」
なんとか抑えようとしたが、足場の悪さに馬が暴れ出す。顧涵仁は即座に馬車の扉を開け、昭月公主を抱き上げた。
「この馬車を捨てます!おりて!」
昭月公主の細い体を抱え、馬車に繋がれた馬の紐を剣で断ち切り、鞍に二人乗りすると、馬の首筋を強く叩いて駆け出した。
鏡石も自分の馬の手綱を茗茗に渡す。
「茗茗、これに乗って!」
「でも!あなたは……!」
「行って!」
鏡石は強く言い、力ずくで茗茗を鞍に押し上げると、馬の尻を叩く。顧涵仁の馬と並ぶように、茗茗の馬も走り出した。
追撃の気配が近づく中、茗茗が鏡石の名を叫ぶ。顧涵仁と昭月公主もそれに気づいて振り返った。
「鏡石様……!」
「鏡石?!」
鏡石はその場から動かず、彼らに礼をして見送ると、背負っていた剣を抜いた。
「……虎兄と共にすぐ追いつきます。先へ行っていてください」
その目はまっすぐに戦場の向こうを見据えている。
「師匠、私の務めをはたします」
鞘から抜かれたのは、鈍くも研ぎ澄まされた銀の一振りだ。西軍の先鋒が姿を現したときには、鏡石はすでに構えを取っていた。
風が止まり、周囲の喧騒が一瞬消える。
敵兵は五騎。さらに後方から歩兵が続く気配もある。鏡石はひとつ深く息を吸い、視界を狭めた。
――静寂を進み、流れていく。すべての剣は心の内から生まれる。これは大切な人を守るための剣である。
鏡石の身体が風と共に動いた。まるで空間を滑るような踏み込みで、最初に駆けてきた敵兵が一瞬で馬上から崩れ落ちた。放たれる剣技は流麗かつ正確で、敵の攻撃はすべて剣気に払われ、肉薄することさえできない。一閃ごとに距離が詰まり、次々と馬が倒れ、人が倒れ、叫び声が上がった。
「なんだあいつは……!」
西軍の隊長がそう呟いたときには、もう彼の副官が倒れていた。
土砂降りで生まれたぬかるみの中、ただ一人立ち尽くす青年の足元には、斃れた敵の影がいくつもある。鏡石は静かに剣先を下ろし、うっすらと汗ばむ額の前髪を払いながら、奥に控える軍勢を見やった。
「ここは通さない」
その声は、まるで石を穿つ一滴の水のように静かで、揺るぎがなかった。
鏡石は彤一が迎えた三人の弟子のうちの一人だ。各地を旅していた彤一が、山賊を討伐していた際に、山賊の奴隷として使われていた子ども達を救った。子ども達は口減らしに売られたり、戦争孤児だったりと、親との縁がないのをいいことに悪事に利用されていた。
鏡石もその中の一人だった。生きるためとは言え、人を襲う手伝いをさせられていた鏡石を救い上げたのは彤一だった。
人を傷つける道から、人を守る道へと。暁流心剣は、暁の光の如く闇を照らす。
鏡石はこの旅で、虎渓に自らの過去を打ち明けていた。彼は、軽蔑するでも哀れむでもなく、ただ口角を上げて言ったのだ。
――『そんな経験、そう出来るもんじゃない。面白い話を聞かせてもらった』
そしてこう続けた。
『国境で戦いながら生きてきて思うのは、常に、自分の信じる道を定め、芯を通さねば生き残れないという事だ。そこに迷いがあれば戦い続ける事ができない。ただ一つに心に決めた道、自分が何のために、誰のために生きるのか。それさえ迷わなければ、過去は忌むべきものではなく、自然と、己の背中を押すものになる。』
その言葉が、またしても鏡石の胸を貫いた。再び救われたのだ。
護衛任務に就く前、彤一が語っていた言葉がふと脳裏に浮かぶ。
――燕雲城は凍えるほど寒かったが、そこに住まう人々の心は温かかった。身を寄せ合わねば生きていけぬ白銀の地で、ほんの少しの炭を分け合って笑うことができる。その素晴らしさは、言葉に尽くし難い。
「一度その世界を、この目で見てみたいものだ」
義理と情に厚いと名高い、凌峰の息子――その人柄を間近で見れば、師の言葉が嘘でないことが、すぐに分かる。
鏡石は静かに息を整え、剣を握り直した。
敵を切り払いながら、一歩、また一歩と北へ目指して進んでいく。かつての闇を乗り越え、その瞳には光が宿っていた。
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