白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第六十四話




第六十四話



 朔軍の列に紛れ、ようやく燕雲城を抜けた虎渓と秋霖は、昼夜を問わず馬を駆けさせ、北の山道を越えて太晋城へと辿り着いた。夜露に濡れながら峠を越え、太晋城の門が見えたとき、ようやく虎渓が馬上で息を吐いた。

「……着いたな」

 秋霖は小さく頷く。だが、気を抜く暇などなかった。城門をくぐり、朔家の屋敷の前で馬から飛び降るとすぐに朔家の侍女が走ってきた。言葉を交わすよりも早く、虎渓と秋霖の姿に気づいた朔清遠の妻、蘭梓ランズーが涙を溜めて駆け寄ってきた。

「伯母上……!」
「秋霖……! 虎渓……!」

 蘭梓の腕に縋られた二人は、朔老母の容体を察知し、緊張で表情がこわばった。屋敷の奥には、朔一族の人々が重苦しい沈黙の中、老母の部屋に集まっていた。

「朔おばあさま…!」

 秋霖は寝台に駆け寄ると、膝をつき、震える手で朔老母の手を握った。

「不孝な孫をお許しください……!」

 呼びかける声に応えるように、閉じかけたまぶたがほんのわずかに開く。老母はその姿に微笑みを浮かべ、懐かしむようにか細く言葉を紡いだ。

「あぁ……秋霖……。……大きくなって……如清に……そっくりだわ……」

 それは、遠い記憶を慈しむ母のまなざしだった。秋霖は無言で顔を近づけ、その言葉に堪えきれず肩を震わせる。
 後ろで立ち尽くしていた虎渓は、ありえないというように小さく首を振った。ついこの間まで、厳しくも笑顔で説教してくれたばかりだったではないか。あの凛とした声が、あの眼差しが、まるで嘘のように遠い。

「朔おばあさま、俺にも……俺にも何か言ってくれ!」

 絞り出すような声で叫ぶと、老母はかすかに唇を動かした。乾いた指が空を探り、虎渓の手にたどり着いて、そっと絡まる。

「虎渓……ばかな子よ……」

 彼女はかすかに微笑んだ。咎めるような響きではなく、遠くから慈しむような、あたたかい呼びかけだった。

「辛かったわね……二人とも……」

 その最後の言葉と共に、老母の手からそっと力が抜けた。誰もが息を呑み、時が止まったように沈黙した。虎渓も秋霖も、声にならない嗚咽をこらえきれず、老母の枕元で肩を震わせた。この短い間で、一体どれほどの涙を流したか、自分達でも分からなかった。

 その日、太晋城は深い哀しみに沈んだ。
 喪のあいだ、朔家は城門を固く閉ざし、弔いの支度に城内をあげて動いた。不幸中の幸いとでもいうべきか、ちょうどその間に高延が差し向けた軍勢が到着したが、朔家の者たちは喪に伏していたため、捜索は後回しにされ、虎渓と秋霖の所在は気づかれずに済んだのだった。
 

 

「霖……?秋霖……?」

 葬儀を終えた帰り道。黄昏の空に鳥の影が舞い、二人は並んで屋敷への道を静かに歩いていた。虎渓は、隣を歩く秋霖の様子がどこかおかしいことに気づき、そっと呼びかける。

「……すまない、少し考え事をしていた。続けてくれ」

 秋霖は虎渓の少し後ろから歩いていた。伏せた視線を持ち上げ、無理に笑顔を作ると、再び俯いて足を進めた。虎渓はそれを深くは問わず、頷いて話を戻す。

「それで、都の屋敷にいたとき、鏡石という――」

 秋霖は気づかれないように、体の痛みと戦っていた。歩を進めるたびに、燕雲城で襲ったあの焼けるような痛みが胸を突き上げ、視界が揺れる。呼吸が浅くなり、喉奥に生温かい味が広がる。どうにか誤魔化そうとするも、足が止まり、膝が崩れた。

「秋霖……?」

 虎渓の声が遠のく。口の中に溜まった血を思わず吐き出した。世界がぐらりと傾き、次の瞬間には地面に手をついていた。

「秋霖ッ!!」

 叫ぶ声とともに、虎渓が駆け寄り、その身体を抱き上げる。秋霖は目を開けたまま言葉を紡ごうとしたが、苦しげに息を詰まらせ、耐えきれずそのまま意識を手放した。

 虎渓が秋霖を屋敷に運び込むと、すぐに朔家の侍医が呼ばれた。蘭梓が気を利かせ、他の者を遠ざけるなか、侍医は寝台の傍で静かに脈を取り、胸に触れ、顔を曇らせる。

「毒の後遺症が残っております。内臓を深く蝕み……かなり長い間、無理を重ねておられたようです」
「……まだ治ってなかったのか……!?」

 虎渓の拳が震えた。見下ろした秋霖の顔は青白く、まるで眠っているようだったが、額にはかすかに汗が滲んでいた。

「加えて、心労が内傷を悪化させています。この状態で食事が取れていたはずもありません。激しい痛みと息苦しさに、常に苛まれていたでしょう」

 虎渓は記憶を巡らせた。燕雲城での惨劇以降、忙しさに追われてあまり気にかけていなかったが、思い返せば秋霖は焼け跡が煙たいと言って咳をしており、食欲がないと食事を虎渓に押し付けていた。単なる疲労だと思い込み、秋霖の容体がこれほど深刻だとは思わなかったのだ。

「先生、秋霖は………」

 絞るように問いかける虎渓の瞳に涙が揺れた。医者は眉を下げたが、安心させるように優しげな口調で頷いた。

「安静にしていれば、じきに良くなります。しばらくは絶対に動いてはなりませんよ。これ以上無理をすれば命に関わります」

 虎渓は医者を屋敷から見送って深く頭を下げると、処方された薬を抱えて部屋に戻る。戸口には心配そうな蘭梓が立っていた。

「伯母上……秋霖のこと、伯父上には……まだ知らせないでほしい。おばあさまのことも、燕雲城のこともあるし、これ以上心労をかけたら、秋霖がまた自分を責める」
「……ええ、分かったわ。秋霖のことは、あなたが一番分かってるのね。何かあったら、必ず教えてちょうだい」
「伯母上、ありがとう」

 蘭梓が去ったあと、虎渓は部屋の戸を静かに閉めた。蝋燭の灯りが揺れる暗い寝室で、秋霖の傍に膝をつく。

「なあ……お前は倒れてばかりだ。これじゃあどっちが主君か分からないぞ」

 寂しげに笑っても、返事はない。虎渓は秋霖の手を取って、その冷たい掌に頬を寄せた。瞼を伏せると小さな滴が落ちる。

「……天は、俺から秋霖までも奪うつもりか」

 虎渓の中にあったのは強い孤独と、怒りだった。唇を噛み、胸の奥に押し込めていた感情が込み上げる。

「……う……」

 そのとき、かすかな呻きが静けさを破った。

「阿秋……?」

 虎渓は目を見開いて顔を上げた。けれど、それに続く秋霖の言葉に、徐々に表情が凍りついていく。

「わけ……申し訳ありません……もっと……私が……早く……」

 唇が微かに戦慄き、魘されながら自責の言葉を溢していく秋霖の頬に触れる。

「母上……、お守り……できずに……、申し訳……ありませ……」
「……阿秋、お前のせいじゃない」

 虎渓は低く静かに言った。涙はすでに渇き、瞳には暗い炎が宿っていた。

「悪いのは全て潘廷傑だ。天があいつを裁かないなら、俺が裁いてやる」

 国の為に命をかけて尽くしてきた一族が、利用され、貶められ、最後には逆賊として歴史に刻まれる。
そんな事が許されるはずがない。例え名誉を取り戻せなくても、あの男を生かしておくわけにはいかない。

「だからもう、自分を責めるな」

 虎渓は秋霖の手をもう一度強く握った。


 
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