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幻燼夢
第六十五話
第六十五話
薄く目を開けた秋霖は、見慣れた天井をぼんやりと見つめながら、自分がまた倒れたのだと悟った。胸の奥に残る鈍い痛みと、体の重さに静かに息を吐く。ゆっくりと視線を彷徨わせると、寝台のすぐそばで背を預けて座っている虎渓の横顔が見えた。
「……私は、どれくらい眠っていた」
秋霖の声に、虎渓はわずかに肩を震わせて振り返る。しかし、顔を向けたのは一瞬だけで、すぐにまた前を向き、眉間に皺を寄せたまま答えた。
「……三日だ。今度は短かったな」
ぶっきらぼうな声に、どこか拗ねたような響きが混じっている。秋霖は眉を下げ、そっと名を呼んだ。
「……虎渓」
「秋霖、俺は許していないぞ。毒のことを黙っていたな」
縋るような呼びかけにも、虎渓の声音はつっぱねていた。秋霖は腕を伸ばし、虎渓の頬に手の甲を当てて優しく撫でる。
「……悪かった」
その一言に、虎渓はついに振り返ってその手を掴む。握った手に力がこもり、震えていた。
「……すまない。心配をかけて、不甲斐ない……」
「謝るな! お前は何も悪くないのに、どうしてそんなに謝る?!」
虎渓の叫びに、秋霖は微笑みを浮かべる。
「阿虎……怒らないでくれ」
その微笑に、虎渓は目を伏せて息を吐いた。しばしの沈黙ののち、秋霖がふと思い出したように呟く。
「……鏡石という者の話が、途中だったな」
その言葉に虎渓は驚いたように目を見開き、すぐに表情を和らげた。
「覚えてたのか」
「ちゃんと聞けなくて悪かった。改めて教えてくれるか」
その問いに、虎渓の頬がわずかに緩む。秋霖の意識がはっきりしていることに、ようやく安堵の色が差した。
「色々あって……しばらくは落ち着いて話すどころじゃなかったからな」
「ああ……旅の話を聞かせてくれ」
頷いた虎渓は、先帝の葬儀に向かった日から、都で出会った劉致や鏡石との出来事、移動中の争い、鏡石の死、そして燕雲城に帰還するまでの経緯を静かに語った。
「……鏡石の墓は、ここにある。あいつの剣は師匠の元に帰れたそうだ」
それを聞いた秋霖は目を伏せ、静かに頷いた。
「私も、彼と話してみたかった」
虎渓は少し俯き、淡く微笑んだ。
「お前たちが出会ってたら、きっとすぐに意気投合して、杯でも酌み交わしてたろうさ」
「鏡石殿に、挨拶をしなければならないな。私からも礼を伝えたい」
そう言って体を起こしかけた秋霖を、虎渓はすかさず押しとどめた。
「おい、動くな。少しでも立ったら殴るぞ」
「……わかっている」
その剣幕に、秋霖は素直に従った。虎渓はしばらくじっと睨むように見つめていたが、やがて手を離し、少しばかり照れくさそうに話し出した。
「都で動けない間、退屈しのぎに医術を学んでたんだ。旅の途中も何度か役に立ったし、母上にも褒められた。……だが、お前の病には太刀打ちできそうにない」
「虎渓……お前の看病の腕はすごいぞ。献身的だ」
秋霖の冗談めいた口ぶりに、虎渓の顔が赤くなる。
「なっ……! 主君に看病させる忠臣がどこにいる」
そう言ってふたりは顔を見合わせ、声を立てずに笑った。やがて虎渓は、静かに秋霖の傍に顔を寄せ、真剣な声音で言った。
「なあ……阿秋……」
秋霖は優しく笑みを浮かべたまま、続きを待った。
「俺は……俺にはお前しかいない」
意を決したように紡がれた言葉は、切ない響きを滲ませて微かに震えていた。秋霖はそれを受け止め、穏やかな声で答えた。
「阿虎……お前には私がついている。太晋城もお前の家だ。お前は一人ではない。家族を失っても、魏昶殿も、朔伯父上も、皆がお前を支えてくれている」
弟を励まし、気遣う兄の言葉だった。
「それに、南からの知らせがまだ届いていない。便りがないのは良い知らせともいう。きっと、鎮南王が丹姐を守ってくれているはずだ」
「……ああ、そうだな」
虎渓はゆっくりと目を閉じて頷き、握っていた秋霖の手をそっと離した。そして、次の瞬間にはいつもの顔に戻っていた。
*
春とはいえ、明け方の空気は肌を刺すほど冷たかった。秋霖は寝台から身を起こし、うっすらと霜気の漂う天井を仰いだ。炭盆の火はとっくに消えており、室内には彼ひとりしかいない。
近頃は体調も幾分か戻り、虎渓もようやく自室で眠るようになっていた。しかし、どうにも胸騒ぎが収まらない。秋霖はそっと寝台を降りると、足元に靴を履き、衣桁に掛けてあった外套を肩に羽織る。髪も束ねず、病み上がりの姿のまま、屋敷を出た。
太晋城の街には、すでに朝市の支度に取りかかる者たちの姿がまばらにあったが、人通りはまだ少ない。秋霖は直感に導かれるように、厩舎の方へと足を向けた。ちょうど馬に鞍を掛けていた男の姿が、視界に入る。
「虎渓」
秋霖は小さく息を吐いて呼びかけた。
「どこへ行く」
声に気づいた虎渓が振り返り、目を見開く。
「秋霖……?!」
鞍から手を離した虎渓は、厩舎の入口に寄りかかっていた秋霖に駆け寄った。
「どうして起き上がった?! まだ休んでいろ!」
「都へ行く気か」
鋭い視線に睨まれ、虎渓は咄嗟に言い訳を考えるも、わずかな逡巡を秋霖に見抜かれた。観念した虎渓は、目を伏せて低く答えた。
「……俺は、仇を取らなければ前へ進めない。奴を生かしてはおけない」
秋霖は手を伸ばし、虎渓の肩を掴む。
「お前を一人で行かせるとでも?」
だが、掴んだ手に力が入らず、自分でもそれを感じて、秋霖はわずかに自嘲すると視線を伏せた。
「私は足手纏いか……?」
「違う。お前に、無理をさせたくない」
虎渓は秋霖の顔にかかる髪へと手を伸ばした。その黒髪は、虎渓自身の柔らかなくせ毛とは違い、滑らかで繊細だ。今はその髪に触れるだけで、胸が締めつけられるほど切なかった。
「秋霖……お前が戦うたびに、毒が体を蝕む。お前の毒は『絶血火散』というのだろう」
虎渓は髪を耳にかけてやりながら、少し下にある秋霖の顔をまっすぐに見つめる。
「毒を受けたとき、慎重なお前が全てを内力で吐き出さなかったのは……“吐き出せなかった”からだな。名前の通り、血を枯らし、火のように広がって内側を焼くような猛毒だ。命を奪うと同時に、取り除けば内力をすべて失って武芸を捨てることになる」
俯いていた秋霖の睫が、静かに震えた。
「だからお前は、命が助かるぎりぎりのところで排出を止めた。体内に残った毒は、内臓に染み渡り、気を巡らせるたびに少しずつ身体を焦がしていく」
虎渓の言葉に、秋霖は何も返さなかった。けれどその表情が、すべてを物語っていた。
「お前が眠ってる間、なんとかならないかと、太晋城中の医書を読み漁った。でも、武芸を残したまま毒を取り除く方法は見つからなかった。今のお前の体じゃ、俺の内力を送り込むと逆に傷つくだろう……」
だからこそ、虎渓は都へ行く決意を固めたのだ。復讐のためでもあり、他の手がかりを求めるためでもあった。
「虎渓、お前が医術を勉強したというのは、本当らしいな」
黙って聞いていた秋霖が、ふっと苦笑を浮かべて顔を上げる。
「お前なら、都で潘廷傑を待ち伏せし、討つことも容易だろう。だが……その後はどうする? 逆賊の証拠がなければ、お前は私怨で奴を殺した大逆人だ」
「……それでも構わない」
一切の迷いもなく言い切る虎渓に、秋霖は思わず声を荒げた。
「駄目だ! お前こそ死ぬつもりか……!」
「こうして待っていては、いつ奴が北彊に逃げるか分からないだろう!」
虎渓の叫びに、秋霖も負けじと睨み返す。だがすぐに、その目を懇願の色に変えた。
「虎渓……復讐をやめろとは言っていない。あれは私達の仇であり、国を裏切った逆賊だ。だからこそ……私を置いて行くな」
しばし、虎渓は言葉を返さず、秋霖を見つめる。そのあとで、目を逸らし、そっと肩に添えられた手を外した。
「……わかった。お前の言う通り、まずは証拠を探す。北彊と潘家が通じている密書を手に入れれば、道は開けるはずだ。秋霖、お前はここで待っていてくれ」
その言葉に、秋霖は息を詰め、皮肉気に笑った。
「またか……また、私を待たせるのだな。今度は、一年で済むのか?」
虎渓はその問いに応えずに、強く拳を握る。
「……秋霖、早く休め。部屋へ戻るぞ」
纏う空気が変わったのを感じ、秋霖は直ちに警戒して一歩後ずさる。そして羽織っていた外套をその場に脱ぎ落とした。
「手合わせでは、一度も勝ったことがないだろう」
その言葉には挑発の意図はなく、虎渓の強行を止めるための覚悟を伝えていた。
「お前が毒を患ってからは、まだ試していないぞ」
虎渓が一歩踏み込み、背後に回って点穴を突こうとする。しかし秋霖はその動きを読んで、身をかわし、腕を払いのける。戦いとまでは言えない静かな攻防が続く。
本気で傷つけるつもりはない虎渓と、病身の秋霖とでは秋霖の方が武は優っている。しかし、体を動かせば内臓が再び痛み始める。秋霖の喉に血が迫り上がってきたが、それを飲み込んだ。
――止められるなら、どうなっても構わない。
虎渓はその異変に気づき、苦しげに顔を歪めた。そして、先に足を止めて声を絞り出す。
「お前は分からず屋だ……!俺がどれだけお前を大切に想っているか、なぜ分からないッ」
秋霖は息を荒げて胸を押さえながらも負けじと叫んだ。
「分からず屋はお前の方だ……!私達の想いは同じはずだろう……!!」
――同じ、想い。
虎渓は目を見開いて息を呑み、秋霖を見た。手を伸ばして一歩踏み出しかけるが、秋霖はまだ警戒が解けずに、一歩後退した。
二人の間に、超えられない距離がある。
――同じ想い。はたして、本当にそうだろうか。
かつて口付けてしまった時のように、また心が遠ざかるのは堪えられない。拒絶されたら、今までのように戻れなくなるだろう。たとえ拒絶されなくとも、それは状況に迫られただけで、本心から受け入れてもらわなければ、通じ合えたとは言えない。
お互いが大切な存在であることは確かだ。
けれど、心の奥にある、本当に触れてほしい想いには、届かない。
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