白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第六十七話




第六十七話



 闇に紛れながら、秋霖は西軍の軍営近くにある建物の屋根に身を潜め、辺りを見渡した。物見台には見張りの兵が立ち、規則的に兵士たちが巡回している。
 燕雲城の戦で三万もの兵を失った西軍は、残存兵を都と銅陵城に二分して再配置しており、ここに駐屯している兵の数はそれほど多くはない。現在も新兵の招集と再編成の最中であると見える。

 軍営全体の構造を目に焼きつけた秋霖は、素早く移動を開始し、将たちが詰める軍府へと向かった。各地の城にある軍営の造りに大きな違いはない。ましてや北軍の警備を熟知していた秋霖にとって、西軍の布陣や死角を見抜くのは造作もなかった。
 気配を消して屋根を渡り歩き、二階の窓を静かにこじ開けると、身を滑らせて内部へと侵入する。暗がりの廊下に降り立ち、周囲の物音に耳を澄ます。やがて、下の階から微かに灯りが漏れ、執務室らしき部屋から将軍たちの声が聞こえてきた。

 秋霖は足音を殺しながら階下に降り、柱の影に身をひそめて声のする方向に耳を傾ける。

「では、どうすれば奴を帰順させられるというのだ」
「高延は堅物で有名ではないか。やはり制圧するしかあるまい」
「しかし、あの魏昶の軍が駐屯しているのだぞ。奴は北の諸侯の地盤を固めている」

 どうやら話題は燕雲城についてのようだった。高延が魏昶や朔清遠らとともに防衛している現在、潘家にとってあの城は思うように動かす事ができなくなっている。

「夏までに燕雲城を明け渡すという約束だったはずだ。潘将軍は一体いつ戻って来られる!」

 苛立ちを隠せない将軍が膝を打つ音が響いた。

「今は舒王が目を光らせており、都から離れられぬよう手配されているらしい。いつになるかは分からん」
「それでは、北彊の様子はどうなっている?」

 別の将が案じるように問いかけると、低い声が答えた。

「北彊では雨が足りず、馬を育てる牧草が不足しているとのことだ。馬が弱れば疫病が流行る。そうなれば出兵も遅れる」
「……都合がいいな。諸族の間でも意見が割れているとも聞いたが」

 北彊の軍勢は、数多の部族から成り立っている。その全てを束ねる皇帝とて、兵糧と騎馬が揃い、各部族の意見が一致しなければ五十万の軍を動かすことはできない。

「凌峰が死んだとはいえ、燕雲城を正攻法で落とすのは容易ではない。北彊とて足掛かりがなければ、攻めては来られんだろう。上手く誤魔化せれば、あと一年は猶予があるかもしれん。問題は……高延をどう排除するか、だな」
「まったく堂々巡りだ。潘将軍が戻って来なければ我らには打つ手がない。だが、そろそろ北彊への返答も送らねば……」

 その後も話し合いが続いたが、やがて会議が切り上げられる気配がして、複数の足音が立ち上がる。それを合図に、秋霖は影の中から静かに身を離し、来た時と同じ経路で軍府を後にした。


 *


 情報を得て戻ってきた秋霖を、なんとか寝台に寝かせて休ませた虎渓は、夜が明けてから薬舗へ秋霖のための薬を調達しに出かけていた。
 その帰り道、朝食も買っていくかと朝市の通りを眺めていた虎渓の耳に、近くの屋台で噂話に興じる商人たちの声が届いた。

「北の様子はどうなんだ、物は売れるのか?」
「布や石灰なんかがよく売れるそうだ。復興が進んでるなら、俺たちも行く価値がありそうだな」

 声のした方へ一瞥を送りつつ、虎渓は足を止めた。商人たちは麺を啜りながら顔を寄せ合い、会話を続けていた。

「あの高延という総督に変わってから、評判はどうだ?」
「あそこの総督はお飾りらしいぞ。高延は魏昶に言われた通りに判を押すそうだ」

 笑い声が上がる。

「民心は魏昶にある。陽泉鎮は魏昶の息子が治めてるらしいから、そのうち燕雲城まで魏家の物になるかもしれんな」
「魏昶は元々北軍の将だったからな。あそこの民の信頼も厚いだろう。……だが、あの凌侯爵が国を裏切るとはな」

 誰かが首を振ってため息をつく。それに、別の男が苦笑しながら否定した。

「まさか。都が荒れていた中でも北だけを向いていた不動の山侯が、本当に北彊と通じてたのか?」
「でも実際に馬家は裏切ってたって話じゃないか。凌家もそうだったって言われりゃ、否定しきれないさ」
「シッ、声が大きいぞ」

 商人たちは辺りを見回し、声を潜めた。

「まさに成王敗寇ってやつだ。俺の見立てじゃ、凌家は名家だったが、どっちつかずだったせいで後手に回ったんだ。結局のところ、太極を見通せなかった」

 「そうだそうだ」と、彼らは頷き合った。

「生き残るためには時代を見る目が要る。潘侯爵は早くから陛下を支えておられた。あれは先を見る目があったということだ」
「銅陵城なら、しばらくは稼げそうだな」

 笑い合う声の中、虎渓は薬の包みを握る手に無意識に力を込めた。ゆっくりと宿に向かって歩き出しながらも、商人たちの言葉が頭から離れなかった。

『民心は魏昶にある。いずれ燕雲城まで魏家の物になるかもしれんな』

 ――それも、悪くはない。魏家になら、燕雲城を任せられる。朔家の支援もある。

 だが、なんとも言えぬ虚しさが胸に渦巻いた。

 本来なら、自分が手を尽くして燕雲城を復興させるべきだったのだ。先祖代々守ってきた北境の地を継ぎ、民と共に歩むはずだった。
 けれど、今の自分は立ち上がろうとするだけで、また民を戦火に巻き込んでしまう。もう、あれほどの犠牲を繰り返すわけにはいかない。
 忠義を貫いたはずだった。それなのに、愚かだと笑われ、家名も守れず、逃げてばかりの有様だ。

 ――なんと、不甲斐ない。

 国を裏切り、他者の命を踏み躙ってでも生き延びることが、正義だというのか。それが正しいというのであれば、その者が辿る相応しい末路は、地獄だけだ。

 宿へ戻る足取りは重かった。虎渓は部屋の戸を開けたが、秋霖の姿が見えずに焦り、すぐに辺りを見渡した。

「秋霖?!」
「ここにいる、落ち着け」

 窓からひょいと秋霖が顔を出し、屋台で買ったらしき包みを両手に持って部屋に入ってきた。虎渓は胸を撫で下ろす。

「おい、驚かせるな……焦ったぞ」
「客引きが西域の名物だと叫んでいたから、気になって買ってきたのだ」

 香辛料の効いた肉が挟まれた、香ばしい焼餅の匂いが漂ってくる。虎渓は朝食を買い忘れていたことを思い出し、苦笑した。

「さすが、お前はいつも気が利くな。でも明るいうちに窓から出入りするなよ」
「すまない……客引きが移動していたから……ちょうど死角になっていて、ここからの方が早いと思ってな」

 虎渓は吹き出した。

「秋霖、お前は普段真面目なくせに、時々突拍子もないことをする。思い切りがいいというか、無駄を嫌うというか……」
「私から言わせれば、お前も似たようなものだ」
「なんだと?俺ほどマメな男はいないぞ」

 虎渓は買ってきた薬の包みを手に掲げて見せた。秋霖はわざとらしく視線を逸らし、焼餅の包みを虎渓に手渡した。

「冷めないうちに食べろ。……数日以内に、北彊への密書を持った伝令が城を出るはずだ」

 虎渓は黙って受け取り、低く一言、返事をした。

 
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