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幻燼夢
第六十九話
第六十九話
虎渓に支えられながら、川の水で口をすすいでいた秋霖だったが、呼吸をするたびに胸が痛み、思うように息ができなくなっていた。耐えきれずに虎渓に縋りつくように身を預ける。ぐったりとした体を片腕で抱き止めた虎渓は、懐から小さな竹筒を取り出し、口で栓を抜いた。
「秋霖……っ」
竹筒の中には薬が入っている。虎渓はそれを秋霖の唇に押し当て、飲ませようとするが、秋霖は激しく咳き込み、薬をこぼしてしまう。中身は残り少なく、もう一滴も無駄にはできなかった。
虎渓は小さく息を吸って覚悟を決めると、薬を自分の口に含んだ。そして秋霖の唇を指で開かせると、自らの唇を押し当てて、少しずつ薬を流し込んでいく。吐き出されぬように顎を支えながら、慎重に飲ませた。
「……ッ…」
秋霖の喉仏がわずかに動き、薬が下へと流れ落ちていくのを虎渓は感じ取る。飲み込んだのを確認すると、すぐさま竹筒を傾け、残るすべてを口に含んだ。そしてもう一度、秋霖の唇に自らの唇を重ねる。
血の味と、薬の苦味が口内に広がっていく。
やがて唇が離れると、秋霖はまつげを震わせながら、虎渓を見上げた。薬が効き始めて、痛みが少しずつ引き、呼吸が幾分か楽になる。秋霖は力なく手を伸ばし、虎渓の唇に残った自らの血を指先でそっと拭った。
お互いに言葉はない。ただ、心配そうに見下ろしてくる虎渓の褐色の瞳を見つめ返しながら、秋霖はゆっくりと意識を手放した。
しばらくして秋霖が目を覚ますと、焚き火のぬくもりと、頬に触れる肌の温かさが、冷えた身体をじんわりと包んでいた。目を開けると、自分は虎渓の腕に抱かれている。虎渓は上半身裸で、背を木に預けたまま、深く眠っていた。
秋霖は目を丸くして焚き火へ目を向ける。血が洗い落とされて干した衣が揺れ、橙の火に透けていた。外はすっかり夜も更けこみ、何時かもわからない。ぱちぱちと火のはぜる音と、そばで流れる小川の水音だけが、静かにあたりに響いている。
秋霖がそっと身を起こしても、虎渓は目を覚まさない。その顔には疲労の色が濃く刻まれていた。
病身の自分を気遣っているが、虎渓もまた限界に近い。秋霖はやるせない気持ちで胸に手を当て、しばらくじっと目を伏せていた。そして、そっと外衣を脱ぐと、虎渓の肩にかけてやった。
密書を奪ってから、すでに二ヶ月近くが過ぎていた。端午節もとうに過ぎたが、夜はまだ肌寒い。街道を避け、馬も使えぬまま、必要な物を時折町で手に入れながら、徒歩で玄安を目指す日々であり、道は険しくて先も不透明だった。
「こんな旅でも……、私はお前と旅ができるのは嬉しい……」
秋霖は虎渓の寝顔を見つめながら、掠れた声でそっと呟いた。もし自分が健康であれば、この旅はもう少し違っていただろう。
だが、彼を一人で旅立たせていたなら、こんな時間は二度と訪れなかったかもしれない。秋霖はそっと自らの拳を握る。
「私は……重荷になってしまっても……、お前と離れたく無いのだ……」
ゆっくりと開いた手を、虎渓の頬へ伸ばす。その冷たい指先に、虎渓は目を覚ました。ぼんやりと眠たそうな瞳で、秋霖を見つめる。
「阿秋……寒いぞ」
寝ぼけていて、甘えるような声だった。秋霖は苦笑し、そっと彼の肩にもたれ、頭を預けた。虎渓はその体に手を回し、抱き締めるように寄り添って再び眠りに落ちる。
秋霖は虎渓の鼓動や寝息、匂いをすぐ近くに感じながら、これまでとは違う、胸を締めつけるような痛みに気づいた。
そして、薬を分け与えてくれたときの、あの眼差しを思い出すと、自分の鼓動が虎渓よりも速く脈打っているようで、また息苦しさが胸にせり上がってくる。
その苦しみから、逃れるように目を閉じた。
幼い頃から、こうして支え合い、寄り添って生きてきた。けれど、今のこの気持ちは、あの頃と、同じものなのだろうか。
何かが、違うのだろうか。
体を蝕む毒の痛みと、一体何が、違うのだろうか。
*
薬を調達するため、街へと降りてきた虎渓と秋霖だったが、虎渓は懐から取り出した財布の軽さに眉をひそめ、困ったように秋霖を見やった。
「まずいな、路銀が尽きそうだ。秋霖……」
秋霖は無言で自分の財布を取り出すと、ぱたぱたと空っぽの音を立てて振ってみせた。旅を続けるには、先立つものが必要だ。金がなければ、玄安までは到底辿りつけない。
二人はそろって小さく溜息をつく。虎渓は財布を仕舞いながら、通りの様子をざっと見渡した。
「よし、この街で仕事を探してくる」
「自分の薬代くらい、自分で稼げる」
これ以上の荷物になるつもりはない、と気概が滲んだ声で、秋霖は虎渓の腕を取った。虎渓は振り返り、にやりとした笑みを浮かべる。
「なら、お前の身分証を出せ」
「……」
「出さないのなら、お前はお留守番だ。働ける体じゃない」
秋霖は渋々といった様子で、自身の身分証を取り出すと、それを虎渓の胸に押しつけた。虎渓はそれを受け取り、秋霖の肩をぽんと軽く叩く。
「よしよし、いい子だ」
「なっ……」
虎渓にこのような調子で揶揄われるのは初めてだった。秋霖は少し肩を怒らせたが、虎渓は気にも留めず、さっさと仕事の斡旋を行う行会へと歩き出した。
行会の受付で、虎渓は二人分の身分証を机に出すと、にこやかに名乗った。
「俺は小笛、こちらは俺の主人の蒼洵様だ。文士だから賢くて読み書きができる。短期の仕事でいいのはないか?」
受付の男は身分証を受け取ると、じろりと二人を見比べた。銅陵城での衣は既に金に換えてしまい、今の二人は動きやすい地味な服に身を包んでいる。一見しただけでは文士と従僕には見えないが、黙ったまま立っている秋霖の姿には、多少髪が乱れていようと教養と品のある整った顔立ちがあり、それを見た男は納得したように頷いた。
「それなら私塾で教科書の写本をするか、寺で経典を写す仕事がある。この街じゃ科挙を目指す学生も多いし、私塾のほうが金払いはいいが、寺なら住み込みで働ける」
「それなら寺がいいな! な? 蒼洵様」
秋霖が何か言う前に、虎渓が先に答えてしまう。
「俺にも働き口はないか? 肉体労働でいい。それなりに腕も立つし、体力もある」
「それならいくらでもある。ほら、好きなのを選べ」
男は紹介状の束を机の上に並べて、一つずつ説明しながら広げていく。土木、警備、荷運び、清掃、炊き出し、屋敷の下働きなどさまざまだ。虎渓は適当に土木作業の紹介状を取ると、秋霖とともに行会を後にした。
外に出るなり、秋霖はすぐに虎渓の手から紹介状を奪い取り、内容に目を走らせた。
「お前だって読み書きができるのに、なぜ同じ仕事を選ばない。一月働いても私の給料の半分だぞ」
「俺は字が下手なのを知ってるだろ。一日座って写本するなど、俺にとっては刑罰と同じだ。体を動かしていた方がいいに決まってる」
「お前というやつは……」
秋霖があきれたように眉を下げると、虎渓は紹介状をひょいと取り返した。
「安心しろ、仕事が終わったらお前の所に会いに行ってやる」
「……虎渓、あまり目立つなよ」
「分かってる。それじゃあ後でな」
ふたりはそれぞれの仕事場へ向かって、反対方向に歩き出した。
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